5.檻の中

 アスコラクは「イネイ」と小さく呟いた。名前を呼んだだけなのに、高圧的で命令口調だった。その命に従って、アスコラクの長い銀髪の間から一匹の蝶が這い出した。薄紅色の単なる蝶かと思いきや、虫の本体の部分は金髪の少女である。イネイはアスコラクの両手足にはめられた金属製の拘束具の鍵穴に手を突っ込んで、鍵を外していく。その度にガシャン、ガシャン、と重々しい音を立てて拘束具が床に落ちた。次にイネイは手に巻き付けられた縄も引きちぎって行く。アスコラクは自由になった手で首を絞めつけるように結ばれた縄をしゅるりとほどく。床には蛇の死体のような縄が落ち、金属の拘束具が床を傷つけて転がった。


「ほら、私がいて良かったでしょ?」


全ての拘束を外したイネイは得意気に言って胸をはった。アスコラクはぐったりとした様子で頭から被せられたベールをはぎ取る。まとわりつく臭気を払うように、アスコラクは首を振った。イネイは薄紅色の蝶の翅を持つ妖精のような姿をしていた。イネイは妖魔の力を借りてアスコラクに仕えているが、元は人間の少女だった。人間として暮らしていた頃の名前をそのまま使って「イネイ」と名乗っている。イネイの主であるアスコラクは、主の命を受けて人間の首を狩る首狩天使である。名は、古語で「欠片」を意味する。その名の通り彼女は悪魔の青年を半身に持っている。イネイはこの青年を慕っているのだ。


「それにしても、何がどうなってるのかしら?」


イネイは探偵さながらに腕を組んで考え込む。アスコラクはイネイの問いかけには答えずに壁を見つめた。何がどうなっているのかが分かれば、何故このような状態になっているのかが分かるはずだ。即ち、カビだらけで暑苦しいの地下牢に力を使えないまま拘束されている状況だ。地下のため暗かったが、アスコラクもイネイも夜目がきいたため、そのまま二人で会話を続けた。


「お前はなんともないのか?」


アスコラクは青白い顔で問う。唇も乾燥して言葉がもつれそうになり、顔をしかめた。


「珍しい。貴女が私の心配をするなんて。雨でも降るんじゃないかしら?」


イネイの出身地は滅多に雨が降らない。そのため特に珍しいことに対して「雨が降る」という慣用句を使うのだ。


「なんともないどころか、元気いっぱいよ。いつもより調子がいいみたい」


イネイは笑顔で腕を回して見せたり足を屈伸させたりした。さらにはアスコラクの目の前を無駄に飛んでみせる。顔色もよく、今のアスコラクとは対照的に生き生きとしていた。


「そうか……」


アスコラクはため息交じりに短く答える。会話をするのも億劫で、頭の中に靄がかかっているようだ。思考回路が上手く働かない。その上、アスコラクは息苦しさと眠気を感じていた。この地の上空に出てから急に全身から力が抜けた。何か人間以外のものに害を成すものがあるかもしれないと思ったが、イネイが同じ症状をうったえないという事はアスコラクにだけ有害な何かがあるのかもしれない。そうでなければ、大衆の面前で天使から人間の姿になるようなことは、けしてしなかった。アスコラクは翼を持たない人間の姿になっている間、人間と同等の能力しか持てない代わりに、他の人間の記憶に残らないという性質を有する。そうすることでこれまでの任務をこなしてきた。しかし天使になっている間は人間の記憶に残ってしまうため、姿の変化を他人に見られることはこの性質を台無しにする。


「早くここから出ましょう」


 イネイが檻の鉄柵の隙間から外に出て拘束具を外した要領で、鍵を開けようとしている。しかしアスコラクは小さく首を振って片手で制した。本来ならば、天使のアスコラクにこの人間用の檻は意味をなさない。アスコラクは首を狩る大鎌を用いて空間を移動する術を持っているからだ。しかし人間の姿の間はその鎌を使うことも出来ない。大空に散った翼が示すとおり、この土地で天使の力を使うことが出来なくなっているのだ。今のアスコラクはただの弱った人間だ。切れた唇からにじみ出る血をアスコラクは手の甲で拭く。未だに回復する様子のない体に、アスコラクは一抹の苛立ちを覚えていた。体中の痣も傷も消えていない。おまけに全身が痛んで眩暈までする。この土地の暑苦しさのせいだろうか。


「本当にどうしちゃったの? いつになく弱気ね」


「出てもまた捕まる。何か方法を考えなければ……」


アスコラクは苛立ちを含んだ溜息と共に吐き出すように言った。イネイが目を丸くして、アスコラクの顔を見ている。


(いけない)


アスコラクは自分の不安定さに気付き、自制する。しかし全身の痛みと疲労感がそれを邪魔する。アスコラクは壁に背を預け、座り込んだまま動こうとしない。それでも片足を立てて有事の時にはすぐに動けるようにしているからさすがだ。イネイは肩を大げさにすくめてみせた。


「ここはどこかしら? それにここはおかしいわ。天使を見てこの処遇だし、貴女が飛行に失敗して捕まるなんて」


イネイは普段アスコラクの耳の後ろに隠れて行動を共にしている。アスコラクが頭から布を被せられてしまったため、連行時の道や建物を見ることが出来なかった。


「ここは教会かもしれない」


今度はいつもの冷静なアスコラクの声だった。アスコラクは布を被せられる直前までの記憶を探った。

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