6.忘却

犯人探しの目はイネイの家族に向けられた。イネイ達一家は聖堂へ懺悔に行くことすら許されなかった。聖堂の聖職者や町の人々に監視され、囚人の様な暮らしだ。母はすぐに起き上がって話せるまでに回復したが、父はまだ起き上がることもままならず、辛そうだった。生活はどうにか出来るが、早く普段の生活がしたかった。家から自由に出入りすることもできず、買い物もできない。売り手の方が、イネイたちを忌避して食料を売ってくれないのだ。おかげで回復して食欲も戻ってきた母親にも、満足な食事が用意できない状態だった。


「すまない」


ため息交じりにそう言ったアスコラクは、肩を落とした。


「何を言うんです、貴方は恩人です。たまたま悪い時期が重なっただけよ」


アスコラクはイネイの恋人という事になっている。イネイはアスコラクの正体はさすがに秘密にしていたが、それ以外のことは全て打ち明けていた。たとえ仮初めの恋人でもイネイは嬉しかった。母は青い顔に笑みを浮かべた。


「だが、貴女が一番辛そうだ。ご主人もすぐ良くなるはずだったが、思いの外、毒が回っていたらしい」


「毒って、アスの足を腫れさせたもの?」


イネイとその母親は、眉をひそめた。


「心配はいらない。元凶だった妖魔をたおしたから、俺の足にやってくれたように消毒してくれれば、完治するはずだ。蚊と同じように考えてくれればいい」


アスコラクの足は持ち前の回復力と、イネイの適切な処置のおかげでもう完治していた。


「蚊?」


「ああ。蚊は血を吸うとき、相手が痛みを感じずにいられるように液を注入する。それでかゆくなったり、腫れたりするんだ。今の妖魔の毒は、その程度だから。とはいえ、俺の対処が遅れたせいで、ご主人が辛い思いをしているのは確かだが……」


イネイと母は顔を見合わせた。どうやらアスコラクは、母が父の心配をしているから、顔色が悪いのだと勘違いをしているようだ。


「アス、違うのよ。ナチャートには私の叔母さんがいるの」


イネイは思わず苦笑したが、やはり力が入らなかった。


「私の歳の離れた妹でね、まだ結婚前の若さなんだよ。若い女性は隠れていようがお構い無しに殺されるって聞いて心配で。家がこんな様子でなかったら、すぐにこっちに呼ぶんだけど」


連続殺人事件の被害者は全て、ナチャートに住んでいる若い女性だった。近くに当てがある者は、一時的に娘を他の町に避難させていた。しかしナチャートは貧しい家が多く、仕事や預けた所に謝礼金が払えないなどの理由で、家を出られない女性も多いと聞く。


「そうか……」


アスコラクはそれっきり黙り、考え込むような表情を浮かべた。

その晩、イネイが寝静まった隙を見て、アスコラクは母親に切り出した。


「もし良かったら、妹さんの護衛に就かせて欲しい」


「気持ちは嬉しいけど、今は逆効果だわ。貴方は疑われているのよ」


母親は声をひそめた。出歩くのが禁忌とされる雨の日に、イネイが連れ込んだ若い男。しかも、誰も見たことがない、カーメニ以外から来た男だ。カーメニの生まれなら、黒い髪に黒い瞳はありえないのだ。だから正体不明のアスコラクは、いやでも人々の目を引く存在だった。


「でも俺が犯人を捕まえれば、貴女方の監視も解ける」


「駄目よ、イネイを悲しませるような真似はしないで」


「すまない。でも、俺は本当の意味での犯人に心当たりがある」


「なら聖堂に言って司教庁に通してもらいましょう」


「残念だがそれは出来ない」


アスコラクは即答した。


「貴女方の立場をさらに悪くするだけだ。犯人は俺が何とかする。俺がいなくなったら聖堂に行って赦してもらう。これで万事解決だ。妹さんの所在を教えてください」


アスコラクは赤い瞳をあらわにして、母に迫った。母はアスが異形であることを悟り、息をのんだ。


「アス、貴方一体?」


「俺は本来ここにいるべき存在ではありません。今回の連続殺人事件の真犯人は、俺の同族だと思います。娘さんには恩があります。だから、今度は俺の番なんです。お願いします」


アスコラクは、自分を信じてくれとは言えなかった。母親は逡巡した。目の前にいる青年が異形である以上、ザハトの民として司教庁に通告しなければならない。そうすれば、アスコラクがすべての元凶として処刑され、自分たちは普段通りの生活に戻れるかもしれない。しかし、通告してもアスコラクを匿ったとされれば、一家そろって処刑対象になるかもしれなかった。そして何より、アスコラクには恩がある。アスコラクならば、自分たちを妖魔から救ってくれたように、今回の事件も収束させてくれるという期待を抱かずにはいられなかった。


「分かりました」


母親は心を決めた。


「私の妹の家は、ナチャートの病院のすぐ近くです。私の名前を出してもらえば、すぐに案内してもらえるはずです」


「そうか。一つ、お願いがあるんだが」


アスコラクは奥歯にものが挟まったように言った。


「何でしょう?」


「あなたの着なくなった洋服を一枚もらえないだろうか?」


母親はアスコラクがしようとしていることに気が付いた。


「囮なんて、危険だわ。貴方は華奢だから服も着られるし、夜なら女性に見えなくもないけど、止めておいた方がいいわ」


「心配いらない。囮は俺ではなく、俺の従者だ。人間の手にかかって死ぬような輩ではない」


「従者。まさか、女性を囮に?」


母親が、初めてアスコラクに対して嫌悪感をあらわにした。慣れているとはいえ、アスコラクの胸は痛んだ。しかしこれが本来の自分に対する人間の反応だと、無理矢理納得するしかなかった。


「はい。気付いているとは思うが、俺は普通の悪魔ではないんだ。ある使命を帯びて従者を得る。今回の女性の従者と言うのも、只者ではない。何と言ってもドラゴンと人間のハーフですから」


アスコラクに説得され、母親はしぶしぶといった表情で、イネイを妊娠していた時に着ていた、大きめのワンピースをアスコラクに手渡した。色あせて薄くなってはいたが、温かみのあるオレンジ色の洋服だ。妊婦だったころに作っただけあって、前方にゆとりがあった。アスコラクの従者は上半身は人間の女だが、下半身は蛇だったので、大きめで下半身にゆとりがある作りはありがたかった。これなら洋服を着たことがない従者でも着やすいだろう。


「気を付けて」


「迷惑をかけてすまなかった。ありがとう」


アスコラクは黒い瞳で笑み、踵を返した。


「娘は、貴方のことが本当に好きなんだと思います」


母親は扉に手を伸ばしたアスコラクの背中に声をかけた。アスコラクは寂しそうに笑んで答えた。


「彼女は俺の本当の姿を見ている。その時の記憶は残るが、些細なものだ。心配はないだろう。貴女にも、赤い瞳のまま説得してしまったが、わずかなものだ。忘れるのが一番いいだろう。イネイが起きないうちに行くよ」


 アスコラクは石畳の道を静かに、しかし足早に歩いた。街灯には青白い炎が燃えていた。街灯の中には「燃える氷」と呼ばれる固形燃料が入っている。カーメニで採掘される珍しい石で、見た目が氷と似ている為にそう呼ばれる。アスコラクはその氷が灯す心許ない明かりすら必要とせずに闇の中を活動出来るが、今日に限って街灯を目で追ってしまう。その街灯も徐々に間隔が開いていく。ついには石畳もなくなって、土がむき出しになる。事件はナチャートの外れにある貧民地区で起きている。そこに近付いている証拠だ。

 アスコラクは寂し気に立つ一つの街灯の下で不意に足を止めた。これがナチャートに行くために通る、最後の街灯だった。茫洋とした青白い光を発しながら揺らめく炎を、アスコラクは美しいと思った。そしてできることなら、この炎と共に、ここで過ごした記憶をはっきりと胸に刻んでおきたいと願った。

 しかしそれを見つめていたアスコラクは、不意に厳しい顔で振り返った。誰かにつけられていた事に気づいたのだ。


「まさか、俺がお前に気付かなかったとはな」


アスは赤い瞳を顕にし、怒気を含んだ声をあげた。


「出てこい!」

「燃える氷は、燃える気体が長い年月をかけて海底で凝固したものなんですって。だからカーメニは昔、海の底だったかもしれないの。皮肉ね。今は雨が少ない場所なのに」


路地裏から出たイネイは靴を履いた。石畳を靴で歩けば、静まり返った夜の街に靴音が響く。ただでさえ事件の影響でカーメニの夜は静かになったのだから、イネイも考えた末に裸足でつけて来たのだ。

「クランデーロさんから聞いたの。あの人何でも知ってるわ。まぁ、貴方の事は私の方が知ってるけどね」

イネイが得意気に鼻を鳴らすと、アスコラクはため息をついた。


「お前、聞いていたのか?」


「どうして何も言わすに行こうとしたのよ、アスの馬鹿! さよならくらい言わせてよ。これで貴方の事忘れるなんて、残酷過ぎるわ!」


「お前に言うとこうなると分かっていたからだ」


「あんなボロボロで落ちてきて、また危ない事するつもりなの⁉」


アスコラクアは妖魔を易々と倒してしまうほど強い。そんなことはイネイがよく分かっている。まして、今度はただの人間が相手だ。アスコラクに、人間の男がかなうはずがない。それでも、イネイは心配なのだ。アスコラクが身体的に傷つくことはもちろん、優しいアスコラクが人を殺したことに自責の念を抱くのではないか、と。

イネイはアスコラクの胸ぐらを掴んだ。イネイ自身、何故泣きそうになりながら自分が怒っているのか分からなかったし、こんなに腹がたったのは初めてだった。


「私は一生忘れない。貴方の事、忘れられるはずない!」


アスコラクは突然強くイネイの体を抱き締めた。イネイは息が止まるかと思った。


「俺はお前を守る。だから、すまない。イネイ」


アスコラクの赤い瞳がイネイの瞳を正面から捕らえた。アスの瞳から目が離せず、体の自由も利かない。意識が朦朧として視界が滲む。


「忘却を……」


アスコラクはイネイの額に口付けした。

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