7.黒猫

 イネイは翌朝、泣き腫らした顔で目覚めた。悲しい夢を見たのだ。しかし何が悲しかったのかなどの具体的なこととなると、どうしても思い出すことができなかった。


「イネイ、大変。犯人が死体で見つかったそうよ」


朝から母が大きな声で告げる。


「犯人? 死体?」


イネイは記憶が噛み合わなかった。そうか、ナチャートで事件があったんだ。その犯人か。イネイはぼんやりとのんきに思う。


 情報はボルガチによってカーメニじゅうに広がる。元々古語で「嘘つき狼」を表す単語だったと言われ、井戸端会議をする女性を揶揄したことから現在に至る。ボルガチは節を付けた情報を吟遊詩人の如くに街中で謳い、賃金を得る。彼女らの唄の多くは真実を語らない。事実より娯楽的な物語作品として需要があるからだ。そのためより万人受けする物語を作ろうと、ボルガチ同士が競うようにしてあちこちで謡う。すると必然的に事実に尾ひれがついて、類話が大量にでき、まるで事件の当事者であったかのように語る者まで現れる。中には手振り身振りを交えて、一人芝居状態で語る者もいる。雄弁なボルガチともなれば、夫より稼ぐと言われるほどだ。ちなみにボルガチの商業者組合はなく、個人の自由意思でボルガチになるかどうかを決めることができた。しかしボルガチの性質上、他人に信用されなくなる傾向があるため、若い女性や人妻はボルガチを避けているという現状がある。もちろん「語り部」や本物の吟遊詩人はちゃんといる。イネイをはじめとする子供たちが様々な物語を知っているのも、ここの歴史を学んでいるのも、彼らの「語り」や「謡」があるからに他ならない。


「犯人の死体?」


イネイは再び母親に説明を求めた。


「凶器の鉈と一緒にね、木の下で見つかったそうよ。これで安心ね」


「あんしん? 犯人はどうして死んだの?」


イネイは何故か、犯人は誰かに殺されたのではないかと疑っていた。


「さあ、でもだいふ弱っていたらしいから、病死か何かだろうね」


だいぶ弱っていた人間が、若い女を狙った理由は何だったのか。病死してしまうほどの人間が、毎晩人間を殺すという行為は、筋が通っていない気がした。


右手の傷が痛んだ。割れたガラスで切っただけの、かすり傷だ。あの時は一人だったのに、どうやって利き手に包帯を巻いたんだろう。誰かに手当てをしてもらったのかしら。イネイは窓に目をやった。割れた窓に、板がはめ込まれていた。怪我をした手で、板を切って窓にはめ込むには無理がありそうだ。しかし、イネイはあの時確かに一人だったと記憶している。


「これで私達も聖堂に行けるわね。それにしても、雨の日に子供が薬を買いに出たくらいで犯罪者扱いはあんまりね。ここに来て初めて実家に帰りたくなっちゃった」


「おい、病み上がりにキツイ冗談はやめてくれ」


舌を出す母に、父は苦笑いを浮かべた。


「その薬屋さんにもお礼に行かないとね」


「イネイはお手柄だったな」


父は大きな手でイネイの頭を撫でてくれた。嬉しいはずなのに、何故か後ろめたかった。まるで誰かの手柄を横取りしたかのような、罪悪感がある。イネイはその答えを求めるように、包帯の巻かれた利き手と、ガラスが割れた窓を交互に見た。何か思い出しそうなのに、頭が働かなかった。

 間もなく、イネイの家の扉を叩く音がした。イネイ達は胸を撫で下ろした。きっとザハト小聖堂からの使者だ。おそらく、今回の事件の犯人が死亡したことで疑いが晴れたのだ。監視の停止と謝罪を述べるために、聖堂の職員がやってきたのだろう。これで聖堂に行って許してもらえば、やっと普段通りの生活ができる。


「私が出るわ」


母親は弾んだ声で作業場から通じる玄関を開けた。そこには聖堂からの複数の使者が立っていた。険しい顔で、ある者は拘束具を持ち、ある者は書状を持っている。どの使者も、「正義と公平」を表わすバッジをつけている。そのバッジはただの聖堂の職員のものではなかった。


「司教庁……!」


 そう心の中で叫んだ母親は唐突に思い出す。それはほんの短い時間の記憶でしかなかったが、明確に思い出すことができた。青年の赤い瞳が自分を見つめ、女性の従者を囮にして、「ナチャートの悪夢」を終わらせると約束したこと。そして自分のワンピースを青年に渡したこと。青年は異形だった。司教庁は見慣れぬ青年の正体に、気付いたのだろうか。異形との接触を、司教庁はその可能性も含めてけして許さない。

母の悲鳴を聞いて駆け付けると、両腕を鎖で後ろ手に縛られた母の姿があった。


「重背徳罪により、即刻死刑とする」


書状を持った使者が重々しくそう宣言すると、拘束具を持った使者が前に出た。


「イネイ、逃げなさい‼」


そう言って父はイネイをかばい、後ろ手にノミを手にした。


「待って下さい。私達は何もしていません。今朝病が回復したばかりです」


「その病を治すために、娘を悪魔の贄とした」


書状を持った使者が、父親の言葉を遮るように言った。


「馬鹿な! 確かに娘は雨の日に出掛けました。その薬で私達は助かったのです」


「その薬が悪魔の薬だ。お前達は穢れている。このカーメニの禍となるだろう」


「隣町の薬屋から貰ったんだ。その薬屋にきいてくれ。すぐに分かるはずだ」


「薬屋? そんなもの隣町にいない」


カーメニの住人なら、どこかの商業者組合に入っているはずだ。薬屋だってそれは例外ではない。しかしクランデーロがもしも国を渡り歩いているような薬屋であったならば、組合に属していないということも考えられる。しかしあれだけ評判の薬屋を見過ごすことなどあり得るだろうか。


「嘘! クランデーロさんよ? あんなに有名な薬屋さんを知らないなんて!」


イネイが前に出ようとするのを父の太い腕が制した。使者がイネイに手を伸ばすと、父は使者の手を捕らえ、体当りした。石匠として屈強な体を持つ父の体がぶつかってきたため、暴れ牛に吹き飛ばされたように使者たちが地面に倒れ込み、空間が開ける。イネイはその空間から外に出た。イネイを追いかけようとした使者の足に、父親がノミを突き刺す。


「あああっ!」


大げさなほど大きな声をあげた使者が、足を抱えて倒れ込む。


「イネイ、行け!」


「薬屋さんを呼んで来るのよ!」


イネイは「薬屋」という母の言葉に走り出した。クランデーロさんさえ呼んで来れば私達の無実は証明される、とイネイは信じた。イネイは路地裏を駆けた。靴を脱ぎ捨て、より細い道を進んだ。音が出ないように、あの夜も必死に彼の背中を追った。彼、が誰かは分からない。しかしイネイにとって大切な人だった。ボルガチの声と人々の喧騒が耳の横を通り過ぎた。足の裏が焼けるように熱かった。しかし、イネイは必死に駆けた。息が切れ、汗が頬を伝い、転びそうになりながらも、前へと繰り出す足を止めることはなかった。そして、イネイはサセートの薬屋の通りに出た。しかし、薬屋に人影はなかった。


「う、そ……」


イネイは薬屋の固く閉ざされた扉の前に座り込み、ノックを続けた。イネイは強引に扉を引っ張ったり押したりしては再びノックを続けた。ノックと言うよりは、本気で扉を殴っている状態に近かった。それでも開かないと分かると、今度は扉の取っ手を握ったまま、体当たりを繰り返した。本当にクランデーロが留守だとしても、ここで引き下がるわけにはいかない。この店にイネイが貰った熱さましの薬と同じ物があれば、無罪の証拠になり得るからだ。

 だが、客の来店を告げる鈴の音さえしなかった。まるでそこは何年もの間、誰にも見向きもされなかった空き家だったかのような雰囲気だ。


「クランデーロさん。お願い、クランデーロさん。貴方がいないと私達達は無実の罪で殺される。クランデーロさん!」


右手の傷口が開いて、血と涙が溢れた。包帯が血で赤く染まっても、痛みを感じる余裕はない。


「助けて、クランデーロさん。助けて! 守ってくれるって言ったじゃない、嘘つき‼」

最後の言葉は、もはやクランデーロに対するものではなかった。

イネイの声に気付いて、誰かが使者を呼んでいる。イネイは再び路地裏に逃げ込んだ。広場に近づくと、ボルガチの声が聞こえた。


「雨の日に黒猫一匹、神の街に迷い込んだ。哀れ、少女はその黒猫の穢れを知らぬ。父も母も黒猫の毒牙にかかり、主の裁きを受けたもう!」


 ボルガチが大声を張り上げて、天に向かって謡っている。

 よく晴れた青天の下で、イネイは雨の日を思い出していた。クランデーロから貰った薬を握りしめて、路地裏を行った先で出会ったのは、異形の青年だった。そしてイネイは青年に肩を貸した。記憶はそこで途切れる。その後のことは、頭の中に靄がかかったように、思い出すことはできなかった。

 肩で息をして、イネイはその声に動けなくなった。乾いた空気が喉を刺す。強い日射しが徐々に路地裏にも侵入する。足が痛い。それよりも右手が痛い。手にも心臓が在るように、ドクドク言っている。


「くろねこ……。雨の日の、迷い猫……」


イネイはその猫の名前を知っている気がした。しかし今はそれよりも。


「パパ、ママ」


大通りが光に照らされ、視界に白く滲む。このまま逃げて欲しいというのが両親の願いだっただろう。だが、イネイの足は差し込んだ光に導かれる様にザハト小聖堂の広場に向かった。靴をはいて、息を整える。イネイはコツコツという自分の靴音を聞きながら、一直線に処刑台に向かう。両親の首はもうなかった。首だけが、台の上に並べられていた。両親とも、目は閉ざされていたが、その表情は、安らかなものとは程遠いものだった。それが死への恐怖と、生への執念を物語っているように思えた。首の下からは鮮血が流れ出て、処刑台に血溜まりを作っていた。それを目にしたとき、イネイの心は決まった。野次馬とボルガチの怒号と罵りの中、イネイは使者の前に膝ま付いた。


「カーミュ・デ・アッズ(神のために)」


イネイは自分の「世界」の全てのために祈りを捧げた。片膝をついて目を閉じたまま首を垂れるその姿は、何故か首を差し出すような格好だった。雨の日にザハトの人々が捧げる祈りの言葉にのせて、全てに感謝した。公開処刑は祝祭だ。両親と共に逝ける事をイネイも祝おうと考えた。人々の歓声が最高潮に達した。それを最後にイネイは何も分からなくなった。

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