5.殺人
アスコラクは息を整え、イネイの父親の患部に手をあてて目を閉じた。すると闇の中に何かがうごめくのが分かった。それはギシギシと不快な音を立ててうごめく、巨大なムカデのような「生き物」だった。とぐろを巻く巨体の上には、人間の女の顔が付いている。ムカデ女の顔は整っていて、長いブロンドの髪に、紫色の瞳をしていた。しかも、ムカデの体からは薄紅色の翅まで生えている。
「そこか!」
アスコラクは腰に帯びた剣を抜き放ち、その切っ先を患部に突き立てた。すると、一瞬剣に膜が弾けるような反発があり、体ごと押し返されそうになった。それをアスコラクはこらえ、イネイの父親の発疹部分からずるずると這い出す妖魔を見据えていた。女の顔と薄紅色の翅が美しい分、黒い体の不気味さが際立っている。
「貴様、悪魔のくせに、私を殺そうというのか?」
女の首がアスコラクを挑発するように、言葉を発した。そして薄紅色の翅を羽ばたかせると、ムカデ女は天井近くを東洋のドラゴンのように宙に浮かせたまま、体をくねらせた。
(下に叩き落すのが先決か)
ムカデ女は毒のある尻尾をアスコラクめがけて伸ばしたが、アスコラクはこれを刀身で受けてかわす。尻尾ははじかれるようにして壁に突き刺さる。
「ここの人間たちは私の獲物。悪魔殿は随分あの幼い娘にご執心のようだけど、横取りはさせませんよ」
「人語が話せるほどに成長した妖魔は珍しいな。まあ、種類としても珍しい部類か」
アスコラクはムカデ女の言葉を無視して、剣をかまえる。ムカデは鎌首をもたげ、アスコラクに紫色で甘い匂いのする毒の霧を吹きかけるが、アスコラクの方が身軽だった。天井ぎりぎりまで跳躍して、ムカデ女に切りかかる。しかし、剣が弾き返され、金属音がした。どうやら体は固いようだ。小さく舌打ちをしたアスコラクをとらえようと、ムカデ女はとぐろの中に、アスコラクを閉じ込めようとした。しかし、アスコラクはひらりと体を反転させ、ムカデ女の目を潰す。すると人間の叫び声のような悲鳴を、ムカデ女が発し、その体は飛行能力を失ったように、床に降りてきた。まるでアスコラクの動きは剣舞をしているかのように、滑らかに動く。余裕があり、優雅にさえ見えるほどだった。その隙にアスコラクはムカデ女のとぐろを巻いている部分を蹴って、壁を走り、ムカデ女の頭部に剣を突き刺そうとした。その瞬間、アスコラクの方にムカデ女の顔が反転して、毒霧を吹きかけられた。それに吹き飛ばされたアスコラクは、壁に体を打ち付けられる格好となった。
「くっ……!」
思わず声を漏らしたアスコラクだったが、すぐに起き上がって剣を構なおす。ムカデ女はそんなアスコラクの足のふくらはぎに、尖った尾を突き刺した。強烈な痛みが、アスコラクの全身を貫いた。
「うっ……!」
アスコラクは歯を食いしばって痛みに耐えたが、態勢を崩した。倒れそうになるところを、剣を床にさして支えにする。そして激痛がおさまらないままの足をかばうように、剣を構える。
「何やら、声があげられないようだね。おとなしく獲物を手放す気にはなったかしら?」
イネイに心配をかけまいと、声をあげるのをこらえていたアスコラクだったが、今の一撃で足を止められてしまった。これではこの妖魔の急所である頭の高さまで、跳躍することはできない。
「アス!」
そこへイネイが角材を持って、部屋の中に飛び込んできた。。先ほどアスコラクが壁に激突した際に大きな音が響いてしまったため、イネイは我慢できずに部屋に駆け込んでしまったのだ。
「何故⁈ 邪魔だと言うのが分からないのか⁈」
「だって!」
痛めた手をかばうように角材を持っていたため、後ろからするりと角材を抜き取られた。カラン、と音を立てて角材が床に転がった。それにつられるように後ろを振り返ったイネイは、初めてムカデ女の異様な姿を視界に収めた。
「痴話喧嘩かい?」
ムカデ女は鎌首をもたげて喉を鳴らして笑い、イネイの足を巻き取って吊し上げた。イネイはめくり上がったスカートを抑え、片手でムカデ女の体を叩くが、ムカデ女にとっては痛くも痒くもなかった。
「やめっ‼」
「イネイ!」
イネイを人質にとったムカデ女は、イネイの体を盾にするようにアスコラクに示す。
「ああ、生きが良い。このまま生気を吸い取ってしまおうかね?」
「いや! 放して!」
ムカデ女の顔が近づき、イネイの顔を舐める。粘着質な唾液に、イネイは身震いした。
「くそっ!」
思案するアスコラクを部屋の隅に追いやり、ムカデ女は笑う。アスコラクは悪魔であるため、主への信仰が息づく場所では力を存分に発揮できない。しかしアスコラクの瞳はまだ黒いままだ。これはまだ、アスコラクが力を温存している証だった。
「終わりにしようかね。悪魔の身分でありながら、妖魔の獲物に手を出すから悪いのさ」
アスコラクは赤い瞳で、ムカデ女をにらみつけた。
「よくしゃべる。急所が頭以外にもたくさんあることを自覚していないようだな」
アスコラクはムカデ女の胴体に、再び剣を振り下ろした。
「そんなことは無意味だと、学習しなかったのかしら?」
「よく見るんだな」
アスコラクの剣は、ムカデ女の胴体を切断していた。
「何?」
ムカデ女は驚愕の表情で切断された自分の胴体を見た。
「間接がこんなにあるんだ。いくら胴体が硬くても、その間はどうかな?」
「ま、待って。分かった。獲物はお前の好きにしていい。私が手を引く。だから……」
ムカデ女は大いに焦った。たった三人の獲物のために、長い時間を石の中で過ごしてきた意味をなくすのは嫌だった。ムカデ女はイネイを解放し、アスコラクの方に押しやった。
「痛っ!」
思わず叫んだイネイにアスコラクは剣を構えたまま駆け寄る。
「大丈夫か?」
「うん」
「ほら、娘が欲しかったのだろう? 私はこの家から出て行く。だから命だけは見逃してくれ」
必死の命乞いをするムカデ女だったが、イネイたち家族に害をなした妖魔をアスコラクが許すはずはなかった。
「うるさいな」
そうつぶやくアスコラクは、ムカデ女の体をずたずたに切り刻んだ。最後に落ちて来たムカデ女の頭部に剣を突き立てると、ムカデ女は獣のような断末魔をあげて、霧になって消えた。残されたのは、一匹の薄紅色の蝶だった。アスコラクはムカデ女の緑色の体液を払って、剣を鞘に納めた。
「これが、本体か」
アスコラクはそれを拾って帰ることにした。
アスコラクとイネイは何事もなかったかの様に部屋から出てきた。もう夜が明けて、外から光がさしこんでいた。
「アス、大丈夫?」
イネイはアスコラクの体をくまなく確認する。
「あれくらいの妖魔なら、たいしたことはない」
アスコラクは片足を隠しながら、余裕の笑みを浮かべた。
「これでお前の両親は回復するだろう。もう、心配はいらない」
「ちょっと、その足はどうしたの?」
アスコラクの右足の傷は治っていたものの、毒のせいで紫色に変色して腫れ上がっていた。夜中は暗く、ムカデ女に気をとられていたため、気付かなかったのだ。
「これも、すぐ治るよ」
「本当に? 一応、消毒しておいた方がいいわ。座って」
イネイはアスコラクを近くの椅子に座らせた。そして薬草を水に浸して作り置きしてあった消毒液を、布にしみこませてアスコラクの腫れているところに張り付け、包帯で固定した。
「これでいいわ」
「ありがとう、イネイ」
イネイは顔を赤くして、口ごもった。
病の原因となっていたのは肩透かしするほど小さな蝶々だった。ただし、やはり妖魔と言うだけあって普通の蝶の胴体ではなかった。胴体は黒いムカデだったのだ。アスコラクが言った通り、石の中で成長する妖魔で、人の生気を餌にする。父親の生気を奪っただけでは飽き足らなくなった妖魔は、父親の看病をしていた母親の生気までも奪っていたのだ。あともう少し、妖魔への対処が遅れていたら、今度はイネイも生気を吸い取られ、一家は死滅していたかもしれない。アスコラクが妖魔を預かってくれる事になり、イネイはこれで安心できると思った。
しかし、イネイが自分の「世界」の幸せだけを祈ったその夜に、世間を震撼させる事件は動き出していたのだ。
◆ ◆ ◆
事件はナチャートの外れから始まった。ある晩に、一人の少女が惨殺されたのだ。被害者の少女は両目をくり貫かれ、心臓を抉り取られていた。くり抜かれた目玉は死体のそばに落ちていたが、えぐり取られた心臓はどこにも見つからなかったことから、犯人が持ち去ったとされていた。
大きな事件など無縁な場所だっただけに、カーメニの人々は震え上がった。事件はさらに続いた。毎晩の様に、若い女性が同じように殺された。犯人は足を引きずった若い男としか、分かっていない。
イネイはその犯人の特徴から、クランデーロの薬屋から出てきた男が犯人ではないかと思ったが、確証があるわけではなかったので、口に出すことははばかられた。
それはアスコラクも同じだった。心臓を持ち去るという猟奇的な殺人鬼は少ないだろうが、心臓を好物とする悪食の悪魔を、アスコラクは知っていたのだ。
◆ ◆ ◆
これは、後に「ナチャートの悪夢」と呼ばれる連続殺人事件の始まりだった。
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