4.代償

雨はいつの間にか止んでいた。


「良いのか? 悪魔何か頼るとろくな事がないぞ」


そう言って薄く笑うアスコラクは、やはり寂し気だった。


「悪魔が皆貴方の様なら、案外良い人たちね」


 イネイは満面の笑みを浮かべた。今まで聞いてきた悪魔の印象と、アスコラクの印象は全く違う。しかしアスコラクに出会った時の姿は「物語」通りの「悪魔」だった。人間が語っているものと、実際のことは意外に違っていることが多いのかもしれない。

 アスコラクは父を窓がない部屋に運んだ。普段は誰も使っていないが、広さはある部屋だった。「人間」と変わらないと言っていた割には、体格の良いイネイの父親を、アスコラクは軽々と抱えて運ぶ。イネイの父親は普段から石を相手にしているだけあって、筋肉質で体重もあった。もしかしたら、ザハト一の大男かもしれない。そんな父をアスコラクは「お姫様抱っこ」して運ぶのだからイネイは開いた口がふさがらない。

 イネイがアスコラクの背中を見送った、ちょうどその時だった。

 ふと、窓から差し込む光が遮られ、影がイネイを覆った。イネイが窓の方を振り向くと、ほぼ同時に人影が通り過ぎた。その瞬間大きな音を立てて曇りガラスが割れて、石が飛び込んできたのだ。それはまさしく一瞬の出来事だった。


「きゃぁっ‼」


イネイの頭上にガラスの破片が降り注ぐ。割れたガラスは、鋭利な方を下にして落ちてくる。イネイはとっさに両手で顔を庇い、そのまま体制を崩して床に倒れこんだ。その突然の物音に、父親をベッドに運んだアスも慌てて踵を返す。


「イネイ!」


アスコラクが駆け付け、外をにらみつける。しかし人影はもう見当たらなかった。もう害はないことを確認したアスコラクは、床に倒れ込んだイネイの肩を支え、抱き起した。イネイの右手は割れたガラスで大きく切れていた。石は直接イネイには当たらなかった。まるで鋭利な刃物のようになって落ちて来たガラス片を全身にあびながら、大きな怪我をしなかったことは幸運と言えた。


「痛っ……!」


イネイはまるで心臓と連動するように脈打つ傷口を左手で抑える。流れ出た血が床に斑点を作る。


「見せてみろ」


アスコラクはきれいな布で止血する。


「深くはないが、傷が残るかもしれない。機能的には問題ないだろう」


そう言いながらアスコラクは、布を裂いて包帯代わりにイネイの傷口に巻きつけて結んだ。アスコラクは布でイネイの止血をすると、周りに降ったガラスの破片を取り除いた。


「うん。ありがとう」


アスコラクは、ガラスを割って飛び込んできた握りこぶし大の黒い石を拾い上げた。おそらく転がっていた石に細工をして、イネイに悪意を持った者が窓ガラスから投げ入れたのだろう。細工と言うのは、黒い石の表面を何か尖ったものでひっかいて描いた記号のことだ。かなり粗雑な絵だったが、大きな鎌に翼が生えていることぐらいは分かるものだった。


「首狩天使ね」


あまりのことに言葉を失い、黙り込んで動かなくなったアスコラクに、イネイはそれが何を簡略化して描いているのか教えた。そしてイネイはその粗雑な絵に込められた意味をすぐに理解した。


「昔の商業者記号に、こういうのがあるの。まだ東西に二つの大国があった時代の東側の方にね。気にする事はないわ。ザハトには雨の日に出歩いた人を背徳者として虐める風習があるの。でも、聖堂で許して貰えば収まるわ」


ザハトでは同じ職業者の組合が幅を利かせている町としても有名であり、各職業組合は、自分たちの仕事に誇りを持っている。特に石匠の組合は大きな組合の一つであり、近所であることも多い。そのためザハトの普段の生活は穏やかで、近所付き合いも良好なのだ。ただし、雨の日の禁忌さえ破らなければ、の話しだが。


「俺の……、せいか……」


アスコラクはがっくりと肩を落とした。


「雨の日に出歩いたからよ。アスのせいじゃないわ」


あれだけ強く降っていた雨は嘘のように晴れあがり、もうこの土地特有の強い日差しが照りつけていた。石畳にできた水たまりも、すぐに乾いてしまうだろう。


「だって、この記号を付ける商業者は―――」


「知ってたの?」


アスは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。二人とも、その商業者記号を付けるのが売春宿だとは、口に出さなかった。東の大国はかつて、各商業者組合に記号をつけることで、統制を図ったのだ。中でも最下層の商業者とされた売春婦たちの記号は、その身分に合わせるように最下位の天使と呼ばれる首狩天使を表わす記号だったのだ。

 西と東の大国の大きな違いは、ここにあると言っても過言ではない。西の商業者組合は自発的で自律的で、さらには自立的でもあった。しかし東の商業者組合は完全に上からの押し付けであった。


「俺はこの記号のせいで魔女にされた聖女を知っている。正確には、知っている奴を知っている」


「そうね、女にとってそういう記号だものね」


イネイの胸に痛みが走った。イネイ達が大昔と呼ぶ時代に、アスコラクには知り合いがいるのだ。目の前にいるアスコラクは人間の姿をしているのに、人間とは違う時間を生きている。アスコラク自身は人間と変わりがないと言っていたが、身体的回復力は人外のものだ。しかしアスコラクはそれに気付かない。その溝は埋める事が出来ないと感じた。


「血は止まったか?」


イネイの手の平をアスコラクは包み、血で汚れた布を取り、血を洗い流して改めて包帯を巻いた。イネイにとって、利き手に力が入らず、水に触れられないのは痛手だ。これでは布を絞って両親の体を拭いたり、額の濡れた布を取り換えたりできない。それどころか料理や洗濯もできないのだ。雨の日に出歩いた時から、ある程度の覚悟はしていたつもりだったが、どう考えてもこの状況はいただけない。それに、とイネイは苦々しく思う。ザハトの民なら、雨の間は祈りを捧げていなければならないはずだ。それなのに外を通ったイネイを見ていたということは、祈りの時間を放棄して、監視していたということだ。そうでなければ、あれだけ路地裏を通って来たのに見つかるのはおかしい。黒く大きな傘が目立っただけだという杞憂に終わってくれれば、それに越したことはない。ただ、日ごろからイネイの一家を快く思っていない人がいるという可能性に気付き、イネイの背筋は冷たくなった。

 イネイが手を握ったり開いたりして手の状態を確かめていると、察したようにアスコラクが口を開いた。


「今晩、両親を治してやる。それまで窓から離れておとなしくしていろ。もし用事があれば俺がやる。この姿なら大丈夫だからな」


アスコラクは家事だけでなく、看病や治療までをも請け負った。さらに、父親の作業場にあった木材の切れ端で割れた窓をふさいでくれた。


「ありがとう」


「俺のせいだから、気にするな」


イネイは左手で右手を押さえ、胸元に包んだ。アスコラクは黙々と大きなガラス片をバケツに拾いながら、イネイに目もくれずに答えた。アスコラクの背中はまるでイネイを遠ざけようとしているように思えた。イネイはその背中を見ながら、そこに翼があったことを思い出した。腕の動きに会わせて隆起するその背中には、本来カラスのように黒い翼があるのだ。今にも飛び立ちそうな、力強くしなやかな筋肉と骨格の連動に、イネイは息が詰まった。

手の平が痛い。人間は傷一つ治るのにどれだけ時間がかかるだろう。出逢った時のアスは重傷だったのに、今はもう傷痕一つ残っていない。接すれば接するほど、アスが人間とは違う生き物なのだと思い知らされる。


(変だ。悪魔は忌むべき存在で、人間の敵だったはずだ。それなのに、どうして私はアスに惹かれているんだろう。悪魔と人間は違っていて当然で、それは喜ぶべき事なのに、どうして私はこんなに寂しいのだろう?)


イネイはガラスを片付けるアスの背中に抱き付いた。アスコラクは突然の温もりに目を見開いた。それはアスコラクが一生味わえないと思っていた人間からの好意だった。


「アス、貴方が何者かなんてどうでも良い。ずっとここにいて」


アスコラクは一瞬、迷った。それは本能と理性のせめぎ合いの時間だった。人の温かさを求める本能と、人とは距離を取らなければその人を不幸にすると考える理性だ。アスコラクは落ち着いた様子でイネイの腕を引き離し、黒い双眸でイネイに正面から向き合った。


「イネイ、お前は信神深い人間で、親孝行だ。主という奴が人間の理想通りなら、お前は幸せに暮らせる。だから今の言葉はなかった事にしよう」


「主は貴方を悪魔だとは呼ばないと思うわ」


アスコラクは憐れむような、皮肉を笑うような顔でイネイを見つめた。しばしの沈黙の後、アスコラクは囁く様に圧し殺した声で言った。


「ほら、今のお前の発言は主も、俺も冒涜した。これが俺達の常套手段だ。こうやって人間を背徳へと導く」


アスコラクはそう言ってイネイを脅し、わざとイネイを自分から遠ざけた。それはアスコラクにとって、断腸の思いだったが、そんな自身の些末な感情よりもイネイのことをおもんばかったのだ。


「イネイ、この部屋でどんな物音がしても、絶対にドアを開けてはならない。近づいてもならない。分かったな?」


アスコラクが「この部屋」と言ったのは、アスコラクが父親を運び入れた部屋だった。


「うん」


イネイは素直にうなずいて、母親の部屋に向かう。本当はアスコラクから離れるのは嫌だったが、自分本位にアスコラクと共にいれば、アスコラクの足手まといになりかねない。だからイネイは心配しているという表情の下に「一緒にいたい」という言葉を飲み込んだ。

 そして、ドアの向こう側に消えるアスコラクの背中を見送った。イネイは母の傍らで、父の回復とアスコラクの無事を祈った。やがて大きな物音と、羽音が混じった。

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