3.出会い

目で斑点を追うと、黒い羽が落ちていた。白茶の石畳の上に置かれた赤の点と、黒い羽は鮮やかに映えていた。ただ、鳥の羽にしては随分大きいと思った。


(野良猫が何かを襲って食べたのかもしれない。可哀想に)


 しかし、イネイが血と羽を追ってたどり着いたのは鳥ではなく、大怪我をした青年だった。青年は全身に鋭利な刃物で斬られたような傷を負い、背中にはぼろぼろの黒い翼を持っていた。腰には剣をはいていたが、怖いとは思わなかった。血の筋は、青年が自身の体を引きずった時のものだった。イネイは彼の美しさに息を飲んだ。少年は、身なりこそぼろきれのようだったが、その存在感には、何か神聖なものを感じずにはいられなかった。 彼は赤い瞳でイネイを睨んだ。それは恐ろしいと言うよりも、捨てられた仔犬の目に似た瞳だった。人を全く信用していないのに、一方ではその奥では恐怖を感じて、助けを待っている。そんな目だ。


「あの、これを……」


イネイは彼に傘を差し出した。しかし、彼はその傘をイネイの手もろとも払いのけた。イネイは尻餅を着き、傘は地面に落ちた拍子に開いて道を塞いだ。そんな時でもイネイは薬瓶の入ったポケットを握りしめたままだった。黒い傘と黒い羽根、そして赤い斑点は、趣味の悪いオブジェのように見えた。


「何の、つもりだ?」


彼は肩で息をしながら、壁伝いにふらつきながらゆっくりと立ち上がった。血が雨に流されて行く。


「何の、って、助けようと思っただけなのに」


「馬鹿か?」


彼はイネイをにらみつけ、吐き捨てるように言った。


「全く、悪運も尽きたな。よりによって、こんな所で、こんな時に」


壁に手を当てたまま後退する彼に、イネイは思い切って肩を貸した。彼は驚いた様に身をよじったが、イネイは彼を放さなかった。子ども一人を払い退けられないほどに、彼は弱っていたのだ。


「雨が止む前なら、ザハトで人に会うことはないわ。悪魔なら悪魔らしく人を利用したら良いじゃない。悪魔のくせに、遠慮なんかしないでよ。調子狂っちゃうわ」


「馬鹿かお前!」


今度は明らかにイネイの身を案じて、叱っているような声だった。


「自ら地獄に落ちる事を選ぶつもりか? さっさと離れろ。誰かに、見つかる、前、に……」


掠れた声でそう言って、彼は膝から崩れた。体格の割に重さがない。イネイはその事実に安堵しかけた。しかし、それもつかの間だった。彼の背中の黒い翼が消えた瞬間、彼の体がずっしりと重くなり、急に熱を持ったのだ。イネイは顔に張り付く髪や、体にまとわりつく服に顔をしかめ、片手で傘を器用に閉じる。そしてその傘を杖代わりにして、自分と彼の体重を支えた。

 誰かに見つかってはいけない。イネイは大通りをなるべく避けて、細い道を選んでゆっくりと歩く。まさか両親との追いかけっこが、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 イネイは困惑しながらもやっとの思いで彼を家まで運んだ。

 家に着いてさらに困った。薬は二人分しかないのに、病人は三人になったのだ。さらに言えば、両親より悪魔の方が重態だ。イネイは薬瓶を暫く眺めて呟いた。


「これ、効き目は量で決まるのかしら?」


イネイは薬瓶のコルクを器用に抜くと、三つのコップに二本の薬を三等分にして、両親と青年に飲ませた。自分のベッドに青年を寝かせ、再び両親の看病に専念した。青年の濡れたはずの服は乾いていた。イネイが青年の頭や腕に包帯を巻いていると、彼はすぐに目を覚ました。それは薬のおかげというよりも、彼の自己回復力が異常に高かったということが大きかったようだ。

彼は開口一番に「馬鹿か」と言って頭を抱えた。


「何が馬鹿なのよ? さっきからずっと馬鹿、馬鹿って」


イネイは頬を膨らませて言った。


「俺を助けたことだ」


「助けなかったら、危なかったでしょう? 人助けをして馬鹿と呼ばれる筋合いはないわ」


イネイは洗面器のぬるま湯を捨てて、新しく水を汲みながら言った。


「人助け? 俺が人に見えたのか?」


「いいえ。でも人なら誰かに助けを求められたけど、貴方の場合はそうはいかなかったでしょう?」

イネイは布を新しく冷たい水に浸したものを運びながら言う。彼と話したいことは山ほどあったが、どうしても手を止めてゆっくり話すことができなかった。


「当たり前だろ」


「だったら、この話はもう終わりにしましょう。見ての通り、私は忙しいの」


彼は深く溜息をついてベッドから立ち上がった。


「とりあえず、お前は濡れた服を着替えろ」


「ああ、忘れてた」


「俺が二人の様子を見ていてやる。台所を借りるぞ」


「え? 本当? ありがとう」


イネイが自室で白い襟がついた新しい緑色のワンピースに着替えていると、台所からトントンとまな板と包丁がリズムを刻み始めた。野菜しかなかったから、それを刻んでいる音だろう。その内、食欲を誘う良い匂いがしてきた。どうやら彼は、余り物で麦粥を作っているらしい。イネイが白いフリルが付いたエプロンを巻きながら台所へ行くと、黒い双眸がイネイをとらえた。


「あら? 瞳の色が……」


彼の瞳は髪と同じ黒い色をしていた。彼は洗い物をしながらため息を漏らした。


「今の俺は何に見える?」


羽も赤い瞳もなく、まして悪意や神聖性もない青年は誰が見ても同様に答えるであろう答えを、イネイは素直に口にした。


「にんげん?」


「俺は人間の姿をしている間、俺と会った奴の記憶に残らない。身体的にも能力的にも人間と変わらなくなるが、都合が良い」


彼はそう言いながら、赤い布で伸びた後ろ髪を結び直した。それから彼は台所のテーブルに、皿を出した。


「お前の分だ。お前も少し暖かくして休んだ方がいい」


「ありがとう」


彼が作ったのは、野菜入りの粥だった。緑はカブの葉っぱ、赤は人参、黄色はトウモロコシだ。白い湯気が立ち上り、彩りも鮮やかで目にも美味しい。イネイは最近、ろくに食事もしておらず、深く眠りについたこともなかったことを思いだした。鏡も見ている余裕がなかったため、イネイは自身の目の下に、隈ができていたことさえ気づいていなかった。彼が作った久しぶりの美味しく温かな粥は、腹の中からじんわりと熱を発し、全身にその熱が隅々まで行き届くようだった。優しい塩味の粥が安堵感と眠気を誘うほどだった。


「おいしい」


思わず声が出た。そのやさしい味付けが気に入ったイネイは、あっという間にたいらげた。


「私はイネイ。貴方は?」


イネイはお腹も心もみたされ、ようやく緊張の糸がほどけて、彼と話す心の余裕ができた。


「名前何て訊いて何になる? どうせすぐに別れ……」


「悪魔君?」


イネイが笑いながら彼の言葉を塞ぎ、首を傾げると、「悪魔君」は頭を抱えた。眉間に指を押し当てている。


「アスコラク」


ぶっきらぼうに彼は名乗った。


「アスコラク。変わった名前だけど、綺麗ね。古語に同じ単語があったけど、意味はなんだったかしら。アスって呼んで良い?」


「勝手にしろ」


投げやりに言った後、アスコラクは口調を変えた。


「それより、お前の両親は虫に好かれる質か? 森や危ない場所に最近近付かなかったか?」


「どういうこと? 父は石匠だから切り出しに遠出したことがあったけど。あぁ、熱はその後だったわ」


ザハトは石匠の町としてその名が知られている。イネイの父親は、山の岩肌や巨岩にくさびを打って、石を切り出す作業を行っていた。


「何かに触ったのかもしれない。石は古の卵だ。長い間太古の様々な物を閉じ込めている。それを切り出して人間の世界に持って来るのは危険な行為だ。何が入っているか分からない箱を開けるようなものだからな。閉じ込められたモノが長い時間の中で成長して、手に追えないものが生まれることがある」


「そんな! じゃあ薬は効かないってこと?」


「薬草は魔除け草である事が多い。多少効くだろう。弱いものなら祓えるかもしれない。特にお前の薬は優れた魔除けの力があった。その薬屋は気付いていたのかもな。何者なんだ、その薬屋。本当に人間か?」


石と発熱と発疹。この三つを結びつけて考えられる人間の医者は少ないだろう。石が悪いものを内包しているという知識が薄いからだ。しかしその薬屋は、ただの解熱剤ではなく、魔除けの効能がある薬を出している。つまりその薬屋は、人外のものに対して知識が十分にあるということなのだ。


「クランデーロさんは良い人よ。今日は偶然。いつもの薬がなくなって、代わりにくれたの」

イネイは嬉しそうに笑って答えた。クランデーロの腕の良さが人間以外にも伝わって、誇らしく思えたのだ。


「そうか。ならいいんだ」


「魔除けって、悪魔は平気なの?」


今は「人間」だから、魔除けも無害なのだろうか。そもそも魔除け草は、悪魔をはじめとする妖魔とって毒となる薬草を使う。この草で回復する悪魔がいたら、魔除け草の効能を疑わなくてはならない。この質問に、アスコラクはに寂しげに笑った。この時イネイは、アスコラクが特異な悪魔であるために、孤独な存在であることを知らなかった。


「……まあな」


振り向きざまにそう言って、アスコラクは洗い物を終えイネイの両親の様子を見にいった。特に父の背中や腹の辺りを念入りに見る。そして、右腹の所に赤黒い斑点を見つけて顔をしかめた。それは、イネイがただの発疹だと思っていたモノだった。


「イネイ、またあの薬を買えるか?」


「無理よ。あんな高いもの、庶民じゃ手が出せないわ」


「だろうな。それに、その薬屋を頼るのは止めた方が得策だ」


「だから、クランデーロさんは良い人なの!」


イネイは思わずむきになる。


「お前を信じていないわけではないが、お前だってただで貰うのは気が引けるだろう。それでいいんだ。俺で良ければお返しに祓うよ」


「ありがとう」


イネイは少し顔を赤くして、素直に頭を下げた。

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