2.禁忌
雨が降っていた。
ちょうど今日のように強い雨だった。風景のかすみ具合も、大きな水たまりも、同じようなものだった。ただ違っていたのは、外の地面が土ではなく石畳であったことと、家も木造ではなく石造りであったことだ。
イネイは石の都と呼ばれるカーメニの西の町・ザハトに生まれ、両親と共に三人で暮らしていた。ザハトには雨の日に外出してはいけない、という風習があった。乾燥したカーメニには年間を通して雨が少なく、天の涙が大地を濡らすことは主の慈悲とされた。カーメニの中でも信仰の厚いザハトでは、雨の日に外出することが天の慈悲を軽んじ、汚す行いとされたのだ。雨の日のザハトの人々はそれぞれの家で天に感謝の祈りを捧げ、雨が止むのを静かに待つ。
しかしイネイはその日、この風習に逆らわざるを得なくなった。
何日も前から、父も母もそれぞれのベッドで寝込んでいた。初めは父の方が風邪のような症状で寝込んだ。そんな父を看病していた母は、イネイに風邪がうつるとよくないからと一人で看病していた。しかしその数日後、母も高熱を出して起き上がれなくなった。原因不明の高熱が続き、父の方は右の腹部に発疹まで出ていた。特に今日は二人ともひどい熱があった。汗をかいた両親の体を拭き、額にしぼったばかりの布をのせることを繰り返した。少しでも目が覚めた時は、そのたびにイネイが二人に水を飲ませた。二人とも食事はほとんど食べられなかった。イネイはこのままでは両親が死んでしまうのではないかと、心配していた。そんな時、薬が底をついたのだ。二人のことを心配するあまりに、薬の管理がおろそかになっていたのだ。気付いた時には、薬の入った小さな袋をひっくり返しても、二人分の量は出てこなかった。イネイの手の上にはたった三粒の赤い実がのっている。これでは子供一人分の量にも満たない。子供であっても、五、六粒は必要だろう。何より、イネイの家には薬をすぐに十分な量の買い足すだけのお金がなかった。
「どうしよう……」
イネイは絶望的な気持ちで窓の外を見やった。まるでガラス窓が波打っているように見えるほど、大量の雨水が流れている。
「どうして今日に限って雨なのよ!」
苛立ったイネイは拳を握って立ち上がった。母の鞄から財布を取出し、一番安い薬の小袋を一つ買う分のお金を貰う。それで大人二人分を賄えるだけの分量になるかはあやしいところだったが、ないよりもましに思えた。そして玄関に行き、一本だけ隠すように立てかけられている古くて埃にまみれた傘を手に取る。傘は玄関の開き戸を開けると、ちょうどその陰に隠れるようになっていた。そのため幸運にも、今までこの傘の存在に気付いた人はいなかった。元々、来客の少ない家ということも功を奏していたのだろう。一度も使われなかったその傘の柄は、黒く汚れていた。
カーメニは中央のカーメニ大聖堂を中心に八つの小聖堂を同心円上に持ち、それぞれの小聖堂を中心にした八つの地区からなる。丁度花弁が八枚ある花を上から見た格好だ。真西がザハトで、反対の真東がナチャートだ。イネイの母はそのナチャートの出身だった。ナチャートの住人はザハトの風習を行き過ぎたものと揶揄し、ザハトに移住するナチャート住人に雨傘を贈った。それはザハトの人々に対してかなり失礼なものだったが、ザハトの人々は相手にしなかった。ザハトでは、使わない傘を置いている家は少ない。この傘が廃棄されずに残っていたのは、奇跡的だった。
イネイは母の嫁入り道具の古びた傘を持つ手に力をこめ、さび付いた傘の止め具を外した。傘を上にあげた瞬間、大量の埃が上から降ってきて、イネイは傘から身を引いた。傘に溜まっていた埃を払い、もう一度傘を開くと、内部の骨も錆びていたが開閉は難なくできた。
「すべての罪は、私が負います」
イネイはドアの前で天に謝罪の祈りを捧げた後、外に出た。そのとたん、罪悪感がイネイを満たした。傘に大粒の雨が次々と当たって音を立て、その暴力的な音にイネイは驚いた。雨の日に傘をさしたのが初めてだったため、仕方のないことだ。布で出来た傘は、いくら油を塗ってあるとはいえ、すぐに雨の筋がついて濡れてしまう。そのため、傘は思った以上に水分を含んでずっしりと重かった。イネイは傘が役に立たなくなる前にと、すぐに隣の町の端にある薬屋へと急いだ。ある人はこの薬屋の老店主を名医と賞し、ある人は呪医と忌避した。どちらもこの店主の薬が効きすぎる為に付けられた渾名だ。
そして何より、この店は医師の診断書がなくても薬を出してくれるし、薬の値段は他の店よりもはるかに安価だった。そのため、どちらかというと「呪医」として忌避する人の方が多かった。しかしイネイは店主の腕を信頼していたし、その人柄も気に入っていた。
イネイは水を吸って重たくなった黒い傘を閉じて、ドアに手をかけた。イネイが店のドアを開けると、ドアの上部に付いた鈴が鳴った。丁度先客の男が出てきたところだった。男とぶつかりそうになったイネイは咄嗟に身を引いた。その時、一瞬だけ男と目が合った。男の瞳は怖いくらいにぎらついていた。男は足を引き摺り、手には薬草入りの大きな袋を抱えていた。灰色の髪のオールバックは崩れ、男の片方の目を隠していたが、前髪の隙間から青い片目がのぞいていた。傘を持たないこの男は、全身ずぶ濡れだったが、ザハトの人間ではなかった。時々灰色の髪やくすんだ青い瞳は目にするが、それはザハトでは珍しいものだった。どちらかというと、ナチャートの方でよく見かける特徴である。
「いらっしゃい」
嗄れた優しい声がイネイを迎えた。イネイはドアの上に付いた鈴の音をたてながら玄関ドアを閉める。店の床には大量の壺やビン、木箱等が置かれ、入り口からカウンターへの導線を造っていた。天井からは乾燥した薬草や動物の骨、幾何学文様が描かれた布や用途が分からない道具がぶら下がっていた。それらが発する臭いだろうか。埃っぽい臭いと獣のような臭いが混ざり、さらに草の臭いと、わけのわからない嗅いだこともないような臭いが漂っていた。暗く、空気が篭っている様は、まるで洞穴の中にいるようだ。物で埋もれるカウンターに、頬骨の出た猫背の老人が笑顔で座っている。この白髪交じりの老人が、この店の店主・クランデーロだ。目には老人特有の濁りがあったが、奥には黒い瞳を見ることができた。若かりし頃のクランデーロは、真っ黒な瞳と髪であったことがうかがえる。クランデーロはカーメニの人間ではなく、各地を転々としていた薬商人であったと本人から聞いていた。歳をとって各地を巡ることが難しくなったため、カーメニのサセートに定住したのだという。
古びたランプの中で、氷のような物体が青白い炎を出して燃えている。この店の光源は、このランプ一つである。そのためカウンターのクランデーロとイネイの顔だけが青白く照らされる。そしてその二人の影は、炎が揺れるたびにチラチラと大きく揺れた。
「すみません、両親が熱を出してしまって。また、レカルストの実を頂きたいんです」
レカルストの実は湿潤な土地を好む薬草だ。万能薬として古くから知られているが、土地によっては量産出来る為、比較的安価である。レカルストの木が実らせる赤く小さな実を乾燥させて、保存できるようにしたものが、「レカルストの実」だ。熱が出た時には沸騰した湯で煮出して、病人に飲ませるとよいとされる。実際イネイの両親も、この薬を飲んだ時だけは熱が下がっていた。
イネイの必死さが伝わったのか、クランデーロは申し訳なさそうに顔を歪めた。そして空になった薬袋を見て、クランデーロは頭を掻いて「弱ったな」と漏らした。
「どうしたんですか?」
イネイはカウンターを覗き込むようにして問う。
「さっきの客で全部売れてしまったよ」
「そんな、両親にはあの実が一番なのに……」
イネイは一瞬目を大きく見開き、導線を振り返った。今ならまだ間に合うかもしれない。あの男の客は足が悪かったから、とイネイは思って踵を返した。
「分けてもらってきます!」
そう言って店を出ようとしたイネイをクランデーロは呼び止めた。
「無駄だ」
「どうしてですか?」
イネイは泣きそうになった。
「奴のかみさん、もう助からないと言ったんだが、諦められないらしいな」
「あんなに若い人の奥さんなのに? 何か重い病ですか?」
男のぎらぎらした目を、イネイは思い出す。そして冷静に考えて、もし自分があの男の立場だったら、きっと実を分けなかっただろうと思った。それほど逼迫した状況を、あの目が物語っていたからだ。
「いや、さっきの客よりかみさんの方がずっと若いよ。だが、人には抗えないものもある。残念だがね」
クランデーロは苛立ったように、深いため息をついた。あの男は二十歳前後に見えたから、それよりもずっと若いということは、あの男の奥さんはイネイより少し年上の若さであると分かる。それは「若い」というよりも「幼い」と言える歳だろう。
しかし今のイネイには、他人の様子を気に掛けている余裕はなかった。他の薬を買うだけのお金はないのだ。
「そんな、どうしよう」
イネイは今にも涙がこぼれそうな頼りない声を上げて、がっくりと肩を落とした。
「あんたにはこれをやろう。雨の日に出かけてきた勇気と優しさを代価に」
クランデーロは二本の薬瓶を差し出した。濃い紺色の細長い管に液体状の薬が入っている。ガラスの中の揺れ方で、少し粘り気のある液体だと分かる。イネイの知る限り、この店で一番高い熱冷ましの薬だった。
クランデーロは、イネイがザハトの住人であることを知っていた。もちろん、ザハトの住人がいかに雨の日の禁忌を重く考えているのかも知っている。イネイが受け取りを躊躇していると、クランデーロはイネイの手を取り、二本のガラス瓶を握らせ、笑いながらイネイの手を包んだ。
「今日のところは代金はいらないよ。何と言っても今日は雨の日だからね」
クランデーロはそう言って笑った。その笑顔はどこか悲しげで、作り物じみていた。
「ありがとうございます。お礼は必ず」
イネイは深々と一礼して、薬瓶を受け取ってポケットの奥にしまった。そのポケットを握りしめて、イネイは勢いよく駆け出した。店を出る時にクランデーロに再び一礼して、戸を後ろ手に閉めた。鈴が大きな音で鳴った。イネイは傘が役に立たないほど走った。近道しようと、ついには傘を畳んで細い路地裏を進んだ。迷路の様に入り組んだ道はイネイのお気に入りだった。
◆ ◆ ◆
『先に行くね』
買い物帰りにそう言って、イネイは両親の前から消えて細く入り組んだ路地裏に入る。
『またか』と呆れる父と『今度は負けないよ』とおどける母。母は買い物袋を全て父に押し付けて本気で走る。近所の人が見ていようがいまいがお構いなしだ。近所の人もそんな母の姿に笑った。いい大人が、また子供に貼り合っている、と。しかし母は恥ずかしげもなくスカートの裾を持ち上げ、全速力で走るのだった。しかしそんな母もイネイにはかなわなかった。イネイは路地裏の細い道を渡り歩いて両親よりも早く家の前に立った。
『ああ、また負けた』
母は本気で悔しがり、父はそんな母子を見て笑った。
『歳を考えろ』
と父が余計なことを口走ると、母は決まって怒ったふりをした。
『それは、どういう意味?』
父は困っていつもイネイに助けを求めた。イネイは両親とのこんな日常が大好きだった。
両親が回復したらまた三人で、買い物をして、帰りには同じことをしようとイネイは胸を膨らませた。
◆ ◆ ◆
そんなイネイの期待に膨らむ胸を一瞬で萎ませるように、突然、地面に赤い斑点が目に入った。雨に流されていないことから、今出来たばかりだろうと思われた。しかし見ている先から、激しく打ち付ける雨が赤い点を洗い流していく。あったのは赤い斑点だけではなかった。よく見ると、何かを引きずったような赤い筋も斑点とほぼ同じ所に続いている。
(何かしら?)
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