1.名前

雨が降っていた。


 ふと、土と甘い花の匂いが立ち上ってくる。これをここでは「雨の匂い」と呼ぶそうだ。これらの匂いの中に血の臭いが混じっていると思ったのは、少女の願望が生んだ幻想であった。

 この地のこの時期の雨は、一度降り出したらなかなかやんでくれない。

 曇ったガラス窓を叩いて、そっと降り出したその雨は、次第にその強さを増して、やがて本降りになった。土がむき出しになった地面の凹凸には、水たまりができていた。雨はその水たまりに王冠状のしぶきをいくつも作る。風がないためか、垂直に天から落ちてくる雨のおかげで、まるで水たまりが沸騰しているようだ。カーテンを引いた時のような音を立てて落ちて来た細かな雨粒は、もはや周囲の静寂を際立たせるような音に変わっていた。遠くの風景は、それこそレースカーテンを引いたようにかすんで見えた。

 少女は埃だらけの窓にそっと手を伸ばして雨音に耳を傾けていた。腐って穴だらけの床とカビや茸が生えた天井から異臭が漂う。天井からの雨漏りは、床にシミを作っていた。人が住んでいるとは思えないようなこの家で、少女は身を隠しながら一人で暮らしていた。


もう、五年になる。


 ここではよく雨が降る。誰からも教えてもらわなくても、五年もいればこの土地のことが少しは分かるようになる。ここの言葉は、少女が以前住んでいたところで使われていた言語と同じだったから、余計に会話が体にしみこみやすかったのかもしれない。少女がこの土地にいて一番驚いたことは、夏に決まって雨の日が続くということだった。そしてここでは「じめじめ」という言葉をよく使う。最初は変な言葉だと思ったが、それが夏の空気の感覚を表わす言葉だと気付いた時、少女も「じめじめ」という言葉でしかここの夏を表わせなくなっていた。あのまま、つまり生まれ故郷にずっと住んでいたら、少女はこの言葉も知らずに一生を終えていたに違いない。

少女が以前住んでいた所から見ると、この「梅雨の時期」が羨ましく、いや、恨めしく思えた。この町のように天の慈悲に預かれば、あんなことにはならなかったのに、と。


『何処でも一緒さ。良いことと悪いことがある。所詮人間は人間の中にしか住めんよ。ここでは薬草がよく乾く、それだけで良しとしよう』


 風変わりだが腕の良い薬屋のお爺さんが笑いながら何度もうなずき、そう言っていた。そうだ。あんなことがあった故郷でも、幸せな記憶はいつまでもそこにあるのだ。まるで石が時を刻むように、少女の幸せな記憶は色褪せることなく胸の中にあった。しかしもう二度とその幸せは訪れることのないものだということは、少女自身がよく知っていた。失われた物は、もう元には戻らない。それは時間というものがいかに恣意的で不可逆的なのかを表わしているようだ。それでも少女は、これも無理だと知りながら、故郷にいつかは帰りたいと願っていた。


「アス」


少女は窓に右手を左手で包むと、体をそっと窓によせた。少女の金色髪が肩の上で揺れ、さらさらと音を立てた。白いエプロンをつけたフレアスカートが動きに合わせて広がる。青い瞳には窓の外の風景が映っているのに、その焦点はどこか遠くで結ばれているようだった。少女の利き手である右手の掌には、かすかな傷跡が残っていた。それは他人が見れば、もはや見えないくらいの傷跡だったが、少女にはその傷跡が待ち人との絆に思えたのである。かつて深く傷ついたその掌からは真っ赤な鮮血が滴り、どくどくと音を立てていた。そしてそれをとめてくれたのが、少女の待ち人だった。それは確かに待ち人が現実に存在したことの証明であり、大切な思い出でもあった。

 久しぶりに出した声はかすれ、小さく響く。雨音にかき消されたその単語でさえ、少女にとっては耳朶に馴染んだ懐かしいものだった。少女は雨にすがるようにその名前を呟き、瞳を閉じた。視界が黒く染まる。それだけで彼を近くに感じられた。彼の黒い髪と赤い瞳。そして漆黒の大きな翼。彼は悪魔と呼ばれる異形だった。人間を騙し、誑かし、信心深い者を背徳へと誘う、この世に在ってはならない者だ。


彼の名を、アスコラクといった。


昨日のことのように、少女は思い出す。長く伸ばした後れ毛を赤い布で巻く仕草。彼の褐色の肌。広い背中。困ったような笑顔。そして彼の血が、自分たちのように赤かったこと。それらは本当に普通の青年と過ごした日々と変わらない、ささやかな温もりを感じさせる記憶だった。

少女は最も忌み嫌われる存在である彼を、親しみを込めてアスと呼んでいた。彼と別れてから五年。異形の彼は姿が変わらなくても、人間は毎年歳を重ねる。幼かった女の子は少女になった。少女は金色の髪を肩の所で切り揃え、服は襟付きの緑色のワンピースを着た。ワンピースの上には、少女がよくつけていたフリルのついた白いエプロンをしていた。それは五年前と同じ格好である。成長しても彼が気付けるよう、少女は出来る限りの努力をした。


「会いたい」


少女は瞼を闇で満たし、その名を噛みしめては胸に熱を覚える。彼のことを思うだけで、少女の全身は感覚があやふやになり、頬は赤く染まった。しかし絶え間ない雨音が、その熱を次第に奪っていった。後にはいつも孤独だけが残される。それはまるで、少女と共に暮らしているかのように、いつも少女の傍らに鎮座している。もしも少女に人目を忍ぶ必要がなかったら、少女は彼を探して回っただろう。この土地の人々の髪や目の色は、少女のものと変わらなかった。だから町中を歩いても、この町に紛れることができただろう。

 だが、今ではそれが出来ない。少女は由緒正しくも恐ろしい司教庁しきょうちょうという組織に追われているのだ。「司教庁」。その言葉すら恐ろしい正義と平等を体現している者たち。苛烈で厳しい権威と権力を行使する者たちだ。


「パパ、ママ」


少女はこらえきれなくなった涙をこぼした。頬を大きな雫が流れ、落ちていく。少女の温かく優しい記憶はいつも司教庁の存在によって断たれる。


「パパ、ママ。寂しいよ。アス……」


少女はそうつぶやいて、涙を腕で拭いた。失われた物と同じように、失われた命ももう二度と戻らない。少女の両親は少女を守るために、司教庁の役人に殺されたのだ。

少女の目に再び涙に溢れた。その頬を伝った涙は、今まで全身で感じていた熱がそのまま外にあふれ出たかのように、熱かった。


その時、静寂を破って錆びついた戸が開いた。それは錆びた金属音がしないほどの、乱暴な開け方だった。ドアが唐突に開いたせいで、急に雨音が大きく聞こえる。思わず振り返ると、そこには美しい一人の女が立っていた。見たことのない背の高い女だ。腰に剣を帯びている。女の美貌は浮世離れした神聖さがあり、人々を魅了すると同時に、厳粛な気持ちをも起こさせる。真っ白な肌に長い銀髪が垂れている。青い瞳が冷たく少女を見据えていた。女が腰にはいていた剣は、少女の待ち人が持っていた物とよく似ていた。少女は自分をしっかりととらえたその女の双眸に、恐怖と何か不吉なものを感じた。



「イネイ・セムリヤ、だな?」



女は低く言って、無遠慮に大きく家の中に踏み込んだ。女の声はけして大きくなかったのに、外の雨音に負けていなかった。気圧された少女は首を大きく何度も振りながら後退し、そのたびに、腐りかけの床がギシギシと音をたてた。その音は少女の静かな生活が立てている音でもあった。ついに少女は壁に背中をぶつけた。壁に張り付くようにして、少女は青ざめた顔をさらす。少女にとって、「イネイ・セムリヤ」という名前はもはや禁忌だった。少女の心臓が早鐘を打ち、脳は混乱した。もう二度と聞くはずがないと思っていた名前。この名前を次に耳にすることになるのは、アスに再会した時か、司教庁の役人に見つかった時だったはずだ。


(どうして、その名前で私を呼ぶの?)


少女は生唾を飲み込んだ。


「違い、ます。私の名前はイネイではなく、私は……っ!」


女は腰に帯びた刀を抜き放ち、少女の次の言葉を待たずに一閃した。少女の目の前で、刀が魚の腹のように閃く。少女は咄嗟に目をかたくつぶり、息を止めた。

 刃は少女の首を真横に薙いで首を切断した。少女の頭が床に落ちてごろりと転がる。血しぶきが天上から床までを真っ赤に染め、家中に鉄の臭いが充満する。少女の目は見開いたまま、口も開いていた。それは驚愕と恐怖に彩られた表情だった。女の仕事はひとまず遂行された。










――――――――はずだった。




何と、少女は生きていた。しかも首がつながったままだ。女は一瞬だけ不可解そうに眉をひそめた。

 刃は少女の首を通ったが、血の一滴、傷の一つも見当たらない。少女は混乱と恐怖に震え、首を抑えながらその場に崩れた。恐る恐る大きく開いた目で、自分の状態を確認する。空気が正常に喉に流れ込んで、少女はむせた。女は少女の金髪をむしる様に掴み、乱暴に少女を床に転がした。少女は「止めて!」と何度も叫んだが、少女の悲鳴は女に届かない。女はまるで感情を持たず、目的だけを遂行する機械仕掛けの人形のようだ。


「人違いです、私は何もっ……!」


「何も、だと? お前の存在こそがあってはならない!」


女は再び少女の言葉を塞いで、極めて冷徹に言って、刃を少女の首筋に当てた。女はうるんだ瞳で助けを請う少女を、無表情に見下ろしていた。刃が首に食い込み、息が苦しかった。少女の頬を涙が伝った。その涙は熱を持ってはいなかった。そして、少女はあまりの理不尽さと自身の無力さを悔やんだ。どうして自分なのか。平和な時を過ごしていただけの家庭を壊され、一人で五年もこんなところで静かに待っていただけなのに、と。


「た、すけて、アス……」


少女の顔はさらに青ざめていた。苦しさと恐怖に顔が歪み、全身が大きく震えていた。そのため、思うように抵抗できない。外では相変わらず、雑音のようなひどい雨音がしていた。

 少女は搾り出すように、待ち人の名を呼んだ。女は少女の頭をわしづかみにしたまま、刀を一気に引いた。


「アスコラク‼」


少女はそう叫んで動かなくなった。死への恐怖に耐えきれず、気絶したのだ。静かな部屋に雨音だけが響いた。女は刃と少女を交互に見る。血のりも脂もついていないことを確認する。一点の曇りのない刀身を無表情で見つめていた女は、剣を鞘に納めた。立ち上がった女は少女の首根っこを片手でつかんで、体を乱暴に引きずり、外に放り出した。女の細い腕のどこにそんな力があったかと思うほど、少女の体は軽々と宙に弧を描いた。玄関から三、四歩離れたところにできた大きな水たまりに、少女の体が落ちる。全身を水溜まりに叩き付けられ、少女は泥水をかぶって気が付いた。それと同時に、女の声が降ってくる。


? ?」


 女は「忘れがちな天使」という、嬉しくもない異名を持っていた。しかしいくら「忘れがち」だったとしても、標的を忘れたことは一度もない。しかも、女の職業上、標的が生きているうちに再会することはありえないのだ。だから少女が叫んだ「アスコラク」という名は、誰かが女の名前を騙っていたということになる。

 出入り口のドアの前で仁王立ちになっている女が、かすんで見えた。この土砂降りの雨の中、やはり女の声だけが鮮明だった。少女は大きな水たまりの中で四つん這いになり、起き上がった。濡れた髪や服が体に張り付く。全身が泥にまみれて、土色に汚れていた。

 少女は自分の首に手をあてて再度首の状態を確かめた。何故、とききたいのは少女の方だった。自分は何度も女に首を切断されたはずだ。それなのに、どうして自分は生きているのか、と。顔に付いた泥を雨が洗い流し、その中に熱い水滴が混じっている。少女は顔を擦って、涙を隠した。よく分からないが、自分は生きているらしい。ならば、するべきことがあるはずだ。少女は小さく息を吐いて呼吸を整え、女の方を向いて立ち上がった。全身ずぶ濡れになって、少女はやっと女と向き合う決心をしたのだ。女は家の入り口に立ち、少女を軽蔑するかのような目で見下ろしている。


「司教庁の方ではないのですか?」


 女の口調と行動から、少女は自分に放たれた追っ手だと思っていた。だが司教庁の人間にしてはどこかがおかしかった。

 司教庁は三千年前の二大大国期からあるとされる、由緒正しき政府機関だ。法を司り、特に人と異形の接触を罰する権限を持つ。女には司教庁の職員がつけている「正義と公平」を表わす天秤のバッジがなかった。そのため、少女が不思議に思うのは無理のないことだった。

 濡れ鼠になりながら、少女は女を見上げた。やっと出た声は、やはりかすれてはいたが、女に届いた。わずかに弱まった雨のおかげか、女が表情をわずかに変えたのが分かった。

 傘を持っていないのに、外から来た女は濡れた様子がない。そして、五年前に少女が棄てた名前を知っている。


「人間が定めた役職か。お前一人処罰出来ないなら、無能の集まりと見える。私の名はその無能者から聞いたのか?」


女の声はどこまでも冷淡に響く。抑揚も全くと言っていいほどない。ただし、人間と自分を一緒にされたことが不快であったことは伝わる言い回しだった。


「貴女もアスコラクとおっしゃるのですか?」


今度こそ、少女の声はかすれていなかった。五年ぶりに他人と話したことで、ようやく喉の感覚が戻りつつあるのだ。


「も? この名は私だけの名だ。気安く呼ぶな」


「それは私の待ち人の名です。貴女が人外の方とお見受けし、お伺いします。彼を、貴女と同じ名前の悪魔を知りませんか?」


少女の切実な質問にも、女は答えない。冷めた目で少女を見下ろすだけだ。おそらく、知らないのだろう。仮に知っていたとしても、少女に教える気はないのだ。少女は濡れた服が絡まって歩きにくそうにしながら水たまりの中を進み、家に戻った。出入り口で佇む女に「どうぞ」と中に入るように促した。


「申し遅れました。私の名前はチェーラです。中でお話します」


少女、チェーラは軽く頭を下げた。アスコラクは表情を変えず中に入った。一つしかない椅子をアスコラクに差し出したが、アスコラクは見向きもしなかった。チェーラは机と椅子を挟んでアスコラクと向かい合った。机を挟むことで、アスコラクから間合いを取ったのだ。髪や服の裾から滴る雫が、ぱたぱたと軽い音を立てて床を叩く。服や肌を伝わった水が、床の色を濃く変えていく。あのときもこんなことがあったな、とチェーラは思い出す。ずぶ濡れになったチェーラを、「黒い」アスコラクが気にかけてくれていた。しかし目の前にいる「白い」アスコラクは全く気にしない。同じ名前なのに、ここまで違うのか、とチェーラは思わずにはいられなかった。


「話を聞こう。私の名を騙る悪魔のことを」


女はなおも少女を見下し、横柄に言った。


「はい、お話します」


窓を背にしたチェーラは、そう言って静かに掌を合わせ、指を絡めた。その祈りの姿に、わずかにアスコラクの視線が和らいだ。


「変な奴だ」


「雨の日に、彼と同じ名前の貴女が私のもとを訪れた。これは天の思し召しだと思うから」


チェーラは瞳を閉じて、祈る手に力を込めた。


「天の、か。お前、私を知っているのか?」


チェーラは神妙な顔で「はい」と頷いた。


「天使の中でも死神の役目を負う、唯一の存在。絵画では砂時計と大鎌を持った老人の姿で描かれ、それは時の寓意とされる。まさか、首狩天使が貴女のような方だとは……」


「では、私に会うことがどんな意味かも知っているだろう?」


砂時計が計っているのは、人間の命の時間。大きな死神のような鎌はタナトスを表わし、老人は人間が逃れられない「老い」の象徴である。


「はい。だからお話するんです。彼のことを。あの日も、雨が降っていました。」

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