6-2 寧日の変化
謎の獣の襲来騒ぎから、しばし時が過ぎる。全身に染み入るような寒さがわずかにやわらぎ、ようやく皇室師団も元の落ちつきを取り戻しつつあった。もっとも、落ちついてきたのは兵士たちだけだ。上官、特に女神の中隊の隊長は、今もなお事後処理と今後への対策に追われている。
しとしとと雨が降る。降り注いだ水は、演習場の土を濡らし、重く湿らせた。珍しくもない空にため息をついたのは、演習場の整備を行っている男性諸君であろう。植物にとっての恵みの水は、時として人間という身勝手な生物を困らせる。
ただ、兵士たちにその困惑はなかった。屋外の演習場が使えないのなら、屋内で訓練をすればいいだけの話である。ディーリア中隊の兵士もこの日は、朝から昼前までを座学に費やし、昼過ぎからはゴム弾入りの銃を手に、平べったい的とにらみあっていた。
キリク・セレスト一等兵も、部屋の隅でひとり銃を構えていた。灰色の壁に落ちた濃い影は、しばらく沈黙したのち、揺れる。撃ち出されたゴム弾は、的の中心の赤い点を正確に射た。あたりから感心のうめき声が漏れる。けれど、少年は眉ひとつ動かさない。黙って背後の先輩たちに礼をし、下がった。銃を所定の場所に戻し、冷たい壁に背を預けた少年は、いつもの訓練と比べるとどこか遊戯じみた風景をぼんやりながめた。
分厚い壁を通して、雨の音が聞こえてくる。かすかな優しい響きは、心の中の空隙を容赦なくくすぐった。
「クリスがいたら、また騒いでたかな」
呟いたあと、キリクは自嘲に唇を歪める。クリストファー・ノーマンは戻ってこない。そのことを誰よりも知っているはずなのに、誰よりも未練がましく彼の影を追い求めている。そんな己を自覚して、少しだけ、腹が立った。
キリクは、先の事件の一番の当事者であったことから、二日前までたびたび事情聴取に呼び出されていた。だが、逆に、それ以外の会議にはまったく呼ばれなかった。中隊の「本来の役割」に関わる会議にも、だ。キリク自身はそのことをさほど気にしていない。むしろ自分のような新兵が会議に呼ばれたあの一回が、普通でなかったのだと思っている。
ひとりの思考にふけっていたキリクは、自分の名前を呼ぶ声に起こされた。一瞬、赤毛の少年の影がよぎってどきりとする。だが、顔を上げた先にいたのは、茶髪の少年。同部屋のロベールであった。
「初めて見たけど、おまえ、すごいな。あんな正確に撃てるもん?」
キリクは目を瞬いた。それから、長く息を吐く。
「どうだろ。俺にとってはあれが普通のことだから」
「はー、言うねえ。そこまでバッサリ言い切られると、腹も立たないや。目がいいのか、空間認識が得意なのか」
ロベールは言いながら、キリクの隣に歩み寄ってきて、同じように壁にもたれた。
「なあ、キリク」
「ん?」
「今日、夕飯、一緒の席で食おうぜ」
唐突な提案に、キリクは目を白黒させた。ロベールは悪戯っぽく笑う。
「おまえ、いっつも一人で食ってんじゃん。シモンが気にしてたぜ」
「気にしてたのか……?」
「だいぶ前から」
ロベールは爽やかに断言すると、キリクをじっと見つめてくる。その瞳が、自分の無茶を咎める兄の瞳にどこか似ている気がして、キリクはぎくりと身をすくめた。少し大げさなしぐさで考えこんだ彼は、うなずく。ゴム弾の音がつかのまやんだときに、ささやいた。
「しょうがないな」
「おっしゃ」
ロベールは拳を胸の前でにぎる。無邪気な男子そのものの姿に、キリクは笑みを誘われた。
クリストファーは戻ってこない。けれど、ロベールたちは隣にいる。当たり前のことに今まで気づかなかった己を恥じつつ、キリクは、そのつながりとぬくもりに、そっと感謝を捧げた。
射撃訓練が終わり、弾倉からゴム弾を抜いて、銃そのものも片付けたあと。雨音響く廊下のまんなかで、キリクは知った声に呼びとめられた。いぶかしく思いつつ、足を止めて振り返れる。案の定、隊長が相変わらず吹雪をまとった表情で立っていた。少年がほとんど条件反射で敬礼をすると、彼女はいきなり切り出した。
「セレスト一等兵。今度の休日、何か予定があるかしら」
「いいえ。特には」
「そう。よかった。ちょっと提案なんだけど、その日の朝、私と少し出かけない?」
「は?」
キリクは、目と口を思いっきり開いた。『氷の女王』と恐れられる中尉の前であることを少しの間忘れていた。我に返り、改めて表情をうかがっても、彼女の顔は真剣そのものだ。そもそも、隊士をからかうような人ではない、と、キリクは思っている。
大きな戸惑いはあった。だが、断る理由はないので、彼女の提案を受け入れることにした。
待ちあわせの時間と場所を決めた後、キリクは夢見心地の意識を抱いて、去りゆく上官の背中を見送る。その彼を正気に戻したのは、夕飯のために彼を呼びにきた、三人の少年たちの声だった。彼らは運悪く――あるいは運よく――先ほどのやり取りを聞いてしまったらしい。キリクが振り向くなり、にやにやと、人の悪い笑みを浮かべた。
「ほーお。
特にあからさまに笑っているヘンリーが、キリクの肩を小突いてくる。彼はわざと、その腕を乱暴に払いのけた。
「そんなわけないだろ。第一、あの人既婚者」
「既婚者ならほかの男と会わねえっつうのは、絶対の法則じゃないぜ、キリク」
暗に「そういう事案」だとほのめかす少年に、キリクは強いまなざしを向けた。
「いい加減にしろよ。隊長がそんな人だと思うか」
「いじりがいがないな。この聖職者ー」
「うるさい! 食堂に行くんだろ、早くしよう」
慌ててにやけ顔から目をそむけたキリクは、彼らの来た方向へ歩きだす。さすがにやりすぎだ、と、ロベールがヘンリーを叱りつける声が近くに聞こえた。
そして、約束の休日。キリクは少年たちのからかい文句に送り出された。彼は、そばにそびえる大きな建物をあおいで嘆息する。その裏側からは黒煙が上がり、汽笛とけたたましい車輪の音が連続した。
待ち合わせ場所に選ばれたのは、駅前だ。駅であることに深い意図はない。一番分かりやすいからそこにしよう、というのがステラの提案だったのである。
キリクはまたひとつ息を吐き、鉄の門扉にもたれかかる。駅前にある神殿を小さくしたような屋根の下には、五台ほどの大きな乗合馬車が停まっていた。彼が馬の一頭一頭の動きを観察していたとき、快活な女性の声が彼を呼ぶ。
「あ、待たせちゃってごめんなさい!」
予想どおり、人混みを器用にすり抜けて、栗毛の女性が駆けてくる。瞳を輝かせ、せかせかと動きまわる様は、娘という言葉がぴったりと当てはまった。服装も濃紺の軍服ではなく、白い長衣の上に薄手の黄色い上着をはおり、黒いズボンをはいていた。
軽やかにキリクの前へたどり着いたステラは、再び両手を合わせて詫びてくる。いつもとまるで違う彼女の姿にキリクはおろおろしながらも、なんとか「いえ、俺が早く来すぎたんで」と返した。これは事実で、彼が最初に時計を見たとき、長針は待ち合わせ時間の二十分前をさしていた。それに隊長は忙しい身である。あまり気遣わせたくはなかった。
ステラは、少し困ったように頭をかいていたが、すぐに背筋を伸ばした。それから、キリクに向けて笑う。
「じゃあ、とりあえず近くでお茶しよう。そこで、いろいろ話したいことがあるの」
「あ……はい。了解しました、隊長」
すっかり気を削がれていたキリクは、ぼうっとしたまま返事をする。すると、ステラはなぜか口を折り曲げた。少年が首をひねっていると、ふてくされた声が飛んでくる。
「外では、とりあえず立場とか階級とか、忘れましょ。普通にしていいし、呼び捨てでいい。あたしも、キリクくんって呼ぶからね」
ステラは、やたら力をこめて宣言する。キリクは目を白黒させたが、彼女の茶色い瞳にじとっとにらまれると、慌てて姿勢を正す。
「わ、わかりました。えっと――ステラ、さん?」
「うん。まあ、よしとしようか」
ふんぞり返って言った彼女は、こっち、と告げるなり背を向けて歩き出す。薄い上衣が舞いあがり、紗のように景色を透かす。その後ろ姿に少年は記憶が刺激された気がして、首をひねった。
「……そうだ」
小走りで追いかけるさなか、その「記憶」に突然思い当たり、思わず大きな声を出す。
ふわふわと舞う栗色の髪。踊るようでいて、その実隙のない足の運び。その姿は、四年前に出会ったあの少女と重なった。
「……なんで……今まで、気づかなかったんだろ」
キリクは呟く。止まりそうになった足をむりやり進めていると、ステラが怪訝そうに振り向いた。
「どうかしたの、キリクくん」
「あ、いえ。なんでもないです」
少年があたふたとごまかすと、彼女は不満げに唇をとがらせる。『氷の女王』とかけ離れた態度に懐かしさをおぼえ、彼はそっと苦笑した。
そうしてステラに連れてこられたのは、駅舎の威容がのぞめる通りに建つ、小さな喫茶店だった。百年近く前の民家を改装して使っているそうで、外壁も屋根も、軒先のつくりさえも古めかしい。石段をのぼって扉を開けた先には、隠れ家のような空間が広がっていた。明るい茶色の壁と床に囲まれた空間に、十にも満たない席がある。人の姿はまばらだが、優しいざわめきに包まれていた。
最奥、西側の角を陣取った二人は、飲み物と菓子を適当に注文した。ステラの注文がなぜか二人分であることに気づき、キリクは目を瞬く。
「あの。まさか、お一人で二人前食べるんですか」
「え?」
きょとんとしたステラは、次には声を立てて笑いだした。
「まさか。あたし、そこまで大食いじゃないわよ。ただ、『もう一人』がもうすぐ来ると思うから、先にあいつのぶんも頼んでおいただけ」
「もう一人……」
キリクがたどたどしく繰り返したとき、彼のすぐ横に影が差した。キリクが顔を上げたその瞬間、伸びた手が、前髪をかきわけて額に触れる。
「よっ。最近どうだい」
「あっ」
明るい声は、しばらくぶりに聞く、魔導技師の青年のものだった。今日の彼は前髪を留めておらず、悪戯っぽい笑みをたたえている。キリクは突然の青年の登場に驚きつつ、挨拶した。
「お久しぶりです。ヴィナードさん」
ああ、と言ったあと、青年は軽く頭をかたむけた。それからほほ笑んで、困ったふうに頭をかく。
「そういえば、君にはちゃんと名乗ってなかったっけな」
軽やかにそう言うと、青年はステラの隣に腰を下ろした。緑の瞳は優しく細って、少年を見つめる。キリクが両手を膝の上で合わせると、青年も居住まいを正し、改まった様子で名乗った。
「
キリクは、目をぱちくりと瞬く。レクシオ――聞き慣れないその名前こそが、青年の本名なのだと、遅れて気がついた。
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