6-1 翼を知った日

 その日の空は、よく色が変わっていたと、キリクは記憶している。時には赤く、時には蒼く。めまぐるしく染まり、そのたびに遠雷のような音が山の方から響いたものである。分厚い雲も相まって、世界の終末を告げるような色合いであった。そのことに人々は不安を抱き、ひたすらに女神への祈りを捧げていた。

 その音は、夜明けの前になって、ようやくやんだ。キリクはそれを覚えている。なぜなら、まだ子どもの身でありながら、掛布かけふにくるまったまま目を開けていたからだ。眠気はまったく、やってこなかった。少年の心を満たしていたのは、災いへの恐怖ではなく、まさに得体の知れぬ緊張であり高ぶりであった。

 暗闇の中、忘れかかっていた静寂が訪れた時分。少年はそっと寝台を抜けだした。すばやく下の服を替え、法衣をまとい、わずらわしい裾を持ち上げて駆ける。我が家の窓から外へ下りたち、舗装のない地面に足がついたとき、いきなり夜の静寂しじまが破られた。

「こんな夜更けにどこへ行くんだ、弟よ」

 わざとおごそかな口調をよそおったその声は、けれどキリクとほとんど変わらぬ少年らしい幼さを帯びている。声の方を振り向けば、自分とよく似た顔の、自分と同じ格好をした少年が立っていた。尊大に腕を組んだ彼は、なぜだか、にやにやしている。

「言わなくたってわかるだろ」

「あの山は今、特に聖なる力が強まっている。勝手に近づいていいところじゃない」

「……っていうのは、父さんのお説教のまねだよな。今さらそんなのきかないよ」

 キリク少年は兄から、つい、と顔をそらす。山の方をにらみつけ、誰に言うでもなく、ささやいた。

「約束したんだ。迎えにいくって」

 たとえそれが、とっさに出た言葉だったとしても。キリクはあのときの言葉にそむくつもりは、なかった。それに応じた少女の笑顔が忘れられなかった。賢者のような。死を悟った老人のような――あの、笑顔が。

 かたくなな少年の耳に、わざとらしいため息が届く。むっとして振り返った少年の目に映ったのは、重みでくったりとした背嚢を負うクランの姿だった。

「止めてもむだだってのは、俺だってわかってたさ」

「なら」

「だから、一緒に行くよ。どうせなら、一緒に親父に怒られようぜ」

 キリクは仰天した。目を見開いて、悪戯っぽく笑う兄を見つめた。彼が適当なことを言っているのでないと子ども心に悟ると、小さく感謝の言葉を述べる。そうして兄弟は、深い闇夜のなか、山を――その頂を目指して歩き出したのだ。

 この少し後、キリクはクランの存在に心から感謝した。標高が低いとはいえ、初春の山である。凍てつく寒さには違いなく、彼が防寒具を持ってこなければ、キリクは凍死していたかもしれない。ふだん、神殿に祈りを捧げにゆくときは防寒具などはおらないが、「今日は特別」と、兄は笑った。

 こうして調子よく山頂までの歩みを進めた兄弟だったが、頂上に近づくにつれ口数が減っていった。一昨日はなかったはずの大穴が目につき、こげたにおいが漂ってきたせいである。あちこちに厳しい顔つきで走り回る神官や軍人とおぼしき人の影があった。彼らは自分たちの仕事に忙しく、小さな兄弟のことなど眼中にないようだった。あるいは、彼らも法衣をまとっているから、同類と思われているのか。

 そして、頂上が見えたとき、二人は言葉を失った。


 山頂は、道中よりひどい有様だった。地面があちこち陥没し、ひどいところでは軽く山肌が崩れている。神殿は形を保っているものの、ところどころ焼け焦げた痕が見受けられた。人々は下山する間も惜しんでか、そこらに座りこんで互いの手当てをしている。

 キリクもクランもしばらくぼうっとしていたが、キリクが先に、我に返った。行き交う人々の間に、見覚えのある背中を見つけたのだ。最初の自己紹介のとき、じゃれあいでキリクの緊張をほぐしてくれた二人だった。

「あのっ!」

 キリクは、喧騒に負けぬ声を張り上げる。すると、片方が振り向いた。黒髪を短く切りそろえた、少年のような少女である。彼女はきつめの目もとを驚きに染めて、こちらへ駆けよってきた。その彼女も、土埃にまみれ、ところどころに傷があった。

「あーっ! 昨日、いや一昨日の神官兄弟! ほんとに来たの!?」

「え、と。はい。約束、したので」

 キリクがうなずけば、少女は目がしらを押さえる。

「うわーけなげ。お姉さん感動」

「約束したの、ナタリーじゃねえじゃん」

「こういうときは黙っているのがいい男ってもんよ。トニー」

 猫目をすがめる少年に、少女が鋭いにらみを利かせる。この二人は、常にそういう関係らしい。兄弟そろって彼らの無事を喜ぶ形式的な挨拶をした後、キリクはおずおずと尋ねた。

「あの……あのときの方は、今、どこに……」

 そう問えば、二人は顔を見合わせ、なんとも悲しそうな表情を見せた。ぎくりとしたキリクが全身に力を入れていると、少女が神殿の方を指さす。

「あの子なら、こっち。ま、来なさい」

 言われるがままについてゆく。すると、崩れかけている神殿の入口の前で、あのときの少女が佇んでいた。傷だらけの体にも、乱れ汚れた髪にも関心を払わず、ただ神殿の方ばかりを見つめているようだった。その彼女に、おさげ髪の少女と、やたら整った顔の少年が話しかける。

「あの、ステラさん。無理はだめですよ」

「ミオンくんの言うとおりだ。君も最前線に立った一人なのだから、少し休んだ方がいい」

 少女は、栗毛を払いのけて、二人を振り返った。その顔に浮かんだ笑みは、淡くはかない。

「うん。ありがと、ごめんね。……でも、今は、落ちついていられなくて」

 そう言うなり、彼女は顔を神殿の方に戻し、それきり彫像のように動かなくなった。少女に声をかけた二人が、困ったように顔を見合わせたところへ、キリクたち四人が近寄った。短髪の少女が、整った顔の少年に話しかける。

「ちょっと団長。あれ、早くどうにかしてよ。このままじゃ手当てもできないじゃん」

「どうにかしようとしているとも。もう、さっきので五回目だ。それでも彼女は動かない」

「五回目ぇ!?」

 短髪の少女が、素っ頓狂な声を上げる。おさげ髪の少女が、心細げにうなずいた。

「わたしたちも、無理に手だしできなくて……。下手なことをしたら、壊れてしまいそうな気がするので」

「ここはもう、彼女のあるじ様が戻ってくるのを待った方がいい」

 陽気さを繕った少年の言葉で、兄弟は初めて、この学生の集団に欠けている一人がいることに気づいた。思わず顔を見合わせてしまう。それから、戸惑いながらも彼らに挨拶をし、それきり無言で少女が動くのを待った。

 しかし、栗毛の少女はてこでも動かないつもりらしい。いい加減、棒立ちの彼女に周りの人々が気づきはじめた。彼らがばらばらと、声をかけにやってくる。短髪の少女がそれを物腰柔らかに追い払っていたが、十回もすると我慢の限界がきたようだ。肩を怒らせて栗毛の少女の隣に立つ。そして、息を吸うと、神殿に向かって思いっきり叫んだ。

「ぬあー、何してんだ! とっとと戻ってこい、馬鹿レクーっ!」

 強気の少女の一声は、虚しくこだまして消えてゆく。いらえはない、と思われた。


「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」


 誰もが肩を落としかけたとき。ぱらぱらと白い破片を落とす神殿の奥から、声は響いた。栗毛の少女を囲んでいた人々は、はっと息をのむ。もちろん、キリクも。

 声から遅れること数秒。学生集団最後の一人は、神官たちに支えられながら出てきた。応急処置の形跡がある彼も、相当に痛々しい姿だ。両腕は包帯だらけ、足もとはおぼつかない。それでも彼は、呆れまじりの笑みを学友たちに向けていた。

「相変わらずだなー、ナタリーは」

 名前を呼ばれた少女は、たっぷり時間を使って呼吸した後、怒声を吐きだす。

「ったりまえだ! いつだってステラの味方だよ、私は」

「そーか。そりゃ、安心だ」

 少年の言葉は冗談っぽく響いたが、それをささやく彼の顔は真剣だった。彼は少女から視線を引きはがすと、神官たちに感謝を述べる。心配そうな彼らのもとを離れ、よろめきながら栗毛の少女に近づいた。ようやく、現状に頭が追いついたと見える少女が、すがるような目で少年を見る。

「レク……」

「お待たせ。そっちも、うまくやってくれたみたいだな」

「う、うん。あの、大丈夫? けがは――してるけど」

「はは。戦った相手の格を考えりゃ、かすり傷だろ、こんなもん」

 軽く笑い飛ばした少年に、少女は口をとがらせた。

「また調子のいいこと言って。立ってるのもつらいくせに」

「それを言うなら、おまえだって似たようなもんだろ。ったく、こんな寒い中、その体で突っ立ってたのか?」

「だって……」

 反論しかけた後、彼女はそのまま黙ってしまった。言葉が出なくなったのだろう。代わりに顔がくしゃりと歪み、両目から涙があふれて、煤けた頬を光の筋が伝い落ちた。

 少女は――ステラはそのまま崩れ落ちるように少年の胸にすがる。わあわあと泣き叫びながら、何度も彼の名前を呼び続けた。少年は、苦笑して、けれど少しだけ若草色の瞳をうるませて、少女の背中をさすっていた。

 それに感化されたらしい。ほかの少年少女たちも、次々と彼のまわりを囲み、その体を支えているのかその体に飛びついているのか分からない有様で、泣き笑いした。

「くそーっ。また私の友達を泣かせやがったなー」

「まったくもう、君ら二人は無茶が好きだよな、こっちの心臓がもたないよ」

「だが、よく帰ってきてくれた、レクシオくん」

 揺らぐ声が飛び交った。ステラとおさげ髪の少女だけは、ひたすらおいおい泣いている。彼らの歓喜の波は、傍観者だったキリクの心にまで打ち付けた。鼻の奥がつんとして、涙がにじむ。それを急いでぬぐった彼は、兄を見上げた。彼はすなおに目もとを押さえていた。

「なに泣いてるの、兄ちゃん」

「これが泣かずにいられるか。おまえだってそうだろ」

「お、おれは別に……!」

 キリクはそっぽを向いた。恐らく赤くなっているだろう鼻を片手で覆いながら。

 細められたハシバミ色の瞳に、光が映りこむ。東の空から昇る朝日が、暗かった空をゆっくりと黄金色に染めはじめた。彼が息をのむと同時、学生たちの間でも歓声がわき起こる。そして、少年――レクシオの声が、彼らを呼んだ。

「おー、一昨日の兄弟、わざわざすまんね。そんな遠くにいないで、こっち来いよ!」

 少年の明るい呼びかけに、兄弟は顔を見合せて笑う。そのあと、ひと息置いて駆けだした。

 少年少女のかたわらに立って見る朝の光は、いつもより目に染みる。少年がぎゅっと渋い顔をしていると、隣でおさげの少女が息を吐いた。

「終わった、ん、ですよね」

「彼女たちの気持ちを考えると、すなおには喜べないけどね……」

 ステラが呟きに答えると、彼女はおさげを揺らしてうなずいた。しんみりとした空気を、強い拍手が打ち破る。

「まあまあ、勝ったは勝ったんだし。今日一日くらいは、難しいこと忘れて、喜ぼうよ。大陸ごと私らを消そうとした神様を倒したんだよ、偉業だって」

 ことさらに明るい少女の声に、団長と呼ばれていた少年が「それはそうだが」と、苦笑する。小さな笑声が火種となって、たちまち温かな笑い声が弾け、ふわりとその場を包み込んだ。キリクとクランも、つられて笑いだした。

 ひとしきり笑って、キリクはふと顔を上げる。青と金に染められた曙の空が、どこまでも澄んで広がっていた。

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