4-3 導師の笑み

 風の声、木々のさざめきが、やけに遠く聞こえる。

 愕然としているキリクに、クリストファーは笑いかけてきた。いつもどおりの――いつもどおりすぎる笑顔だった。

「やあ、キリク。もしかして、探しにきてくれたのか。心配かけてごめんな」

 爽やかな言葉と、笑顔。眼前に広がる事実。その齟齬が、少年の脳を揺さぶった。

「でも、もうその必要はないよ」

 薄闇の先に見える、健康的な色の唇が、弧を描く。

「――こいつら全員、俺たちで殺したからな」

 ぞわり、と背筋が震えた。血の気が引き、体の末端が冷えていく。逆に、心臓は早鐘を打っていた。暴れ狂うそれをなんとか黙らせ、キリクは両手に力をこめる。

「殺した? いきなり、そんな、なんの冗談だよ」

「冗談じゃない」

 クリストファーは断言した。彼らしくない、冷やかな語調だった。

「俺がじきじきに手を下したんだ。セルフィラ様を敵と呼んだ彼らへの罰であり、少しの慈悲さ。

 そして今宵、俺たちはセルフィラ様の眷族として、ラフィアの下僕どもに宣戦をしに来たんだよ。分かるか?」

 戦場に不釣り合いな神の名が、夜の森をかすかに揺らす。キリクは、空気を吸いこんだあと、奥歯を噛んだ。そのときちょうど、木々の先にいた人々が闇から顔を出す。いずれも濃い夜色の長衣をまとっていた。彼らはクリストファーに向け、一度、深く礼をする。彼らのしぐさが示すのは、おそらく、ひとつの事実だ。

「まさか……おまえが『導師』なのか?」

 キリクが青ざめて指摘すると、クリストファーは低く笑った。

「今さら気づいたのか。まあ、あのカンタベル公ですら、内通者が俺だとは見抜けなかったんだ。しかたがないよね」

『クリス』の声には馴染まないアーサーの呼び名に、少年の肩は小さく跳ねた。

「内通者? 連隊長は、気づいてたのか?」

「言ったろう、俺だとは見抜けなかった。けれど、導師が軍部にいることは分かっていたんだろう。俺も目をつけられてはいた。危ないところだったよ。存外に鼻がいい。それに、優秀な手駒もいたようだ」

 クリストファーは、気味が悪いほどよくしゃべる。その一語一語が、キリクの心に言いようのない不快な雫を落とす。

 落ち着け。惑わされるな。

 キリクは自分を叱咤する。『敵』の一言にいちいち動じていては、何にもならない。

 動揺したって、事実は動かない。

 おかしいところはあったはずだ。クリストファーは、祈りの言葉に平然と返した。それなのに、食事の前はともに祈らず、ただほほ笑んで彼らを見ていたではないか。違和感を認めるべきだった。もっと早く、疑うべきだった。わき出る後悔を噛みつぶし、少年は、友だった少年をとにらみつける。

「ひょっとして、セルフィラ派の男が自害したのにも関わってるのか」

「さすがキリク。察しがいいや。俺が彼に短剣を渡したんだ。付き添いの魔導士に、見張り番の記憶を少しいじってもらってね」

「そんな、さらっと……! おまえ、自分が何をしたのか分かってるのか!?」

 拳をにぎりしめてキリクがうなると、クリストファーは心外だと言わんばかりに手を振った。

「言っておくけど、自害したのは彼の意志だ。彼は最期まで、セルフィラ様への信心と忠誠を貫いたのさ。立派な殉教者だ、称えられてしかるべきだ」

 彼のしぐさは芝居がかっていたが、声には真実、悲しげな響きがあった。死へいざなった相手を、心の底から憐れんでいるかのようで。

 何もかもがちぐはぐな友人の姿に、キリクはちりちりとしたいら立ちを覚えた。熱された感情が喉元にまで出かかっていた。

 それが吐き出される前に、クリストファーの言葉が彼を揺るがす。

「君には分からないと思うよ。司祭の下に生まれながら、信仰を軽んじた君にはね」

「なっ――」

 キリクはうめく。激情は蒸発して、小さな音にしかならなかった。

 だがすぐに、体の奥で別のものが弾ける。怒りだった。

 拳をにぎる。力強く。

 理性が焼き切られそうになった。何もかもを忘れて、怒鳴りそうになった。

 けれども、それはかなわない。口は夜気を取り入れあえぐばかりで、肝心の音が出ない。図星を突かれたのだと、遅れて気づいた。

 信仰を軽んじたつもりはなかった。しかし、それはキリク自身の中でのことだ。敬虔な信者の目に自分がどう映るかなど、今まで考えたこともなかったのだ。反論の言葉は見つからない。結局、少年にできることといったら、唇を震わせて黙り込むことだけだ。

 クリストファーは少年を見て、意外にも悲しそうに目を細めた。キリクが強く眉根を寄せると、突然、手を差し伸べてくる。

「ねえ、キリク。こちらへ来る気はない?」

「は?」

 思いがけない提案に、キリクは状況を忘れて呆けてしまった。まわりの人影もにわかにざわついた。しかし、小さな導師は彼らを視線で黙らせると、続ける。

「軍部に取り入るためだったとはいえ、君たちとの生活は、それなりに楽しかったんだ。特に、キリク、君はね……無用に人の心に踏みこんでくることをしなかった。ずけずけ質問してこなかったし、やかましく騒いだりもしなかっただろ。それが俺には心地よかったし、そんな君は好きだった。だから、正直、殺したくないんだよ。

 キリクがラフィアへの信仰心を捨てて、セルフィラに味方すると言ってくれるなら……俺は、まわりに何を言われても、君を助ける」

 キリクは呆れを通り越して唖然とした。ここへ来て、この少年は何を言い出すのか。

 同時に、クリストファーの言葉は、強く心をくすぐった。キリクにとっても「クリス」は、数少ない友達だった。その友達を悪者にしたくない気持ちは、確かにある。

「君は、ラフェイリアスの司祭のもとに生まれついたせいで、心の置き場がわからなくなってるんじゃない? だったら、ラフィアにこだわる理由もないよな」

 穏やかな声は、心の空隙をひとつ、ひとつ、正確についてくる。キリクは口を引き結び、剣の柄に手をのばす。

 目を閉じた。甘い誘い文句に身をゆだねれば、さぞかし気は楽だろう。クリストファーと決裂せずに済むし、教会の息子という呪縛もいくぶんかましなものになる。

 暗い方へ流れかけた思考を止めたのは――古い思い出、かつての夜明けの色だった。


 とうに忘れたと思っていた、古い記憶。

 聖なる山の頂上に、不思議な六人を案内した、翌々日の朝の空。

 その風景は、少年少女の笑顔は、彼に女神への尊崇を思い出させるには十分だった。

『また、迎えにきますから』

 そう、彼ががむしゃらに口にしたとき、栗色の髪を持つ少女はほほ笑んだ。幼い少年の、口から出まかせの言葉を心から信頼しているかのように。そして、約束どおり迎えにいったとき、彼らは――


「……確かに俺は、ラフェイリアス教について、真剣に考えたことなかったよ」

 目を開く。映るのは変わらぬ闇だ。それでも、ほんの少し視界がひらけたような気がした。怪訝そうな顔をする少年を見すえ、キリクは自虐めいた微笑を浮かべる。

「でも、それは、ラフィア神を裏切っていい理由にはならないだろ?」

 十七年、身に刻みつづけた信仰だ。それを捨てるというのは、少年にとっては重すぎた。それに――

「それにさ。考えてもみろよ。今の信仰にそむくってことは、神様だけじゃなく、関わってきた人たち全員を裏切るってことだ。親父も、おふくろも、兄貴も、俺を信じてくれた『あの人たち』も。ごめんけど、俺にはそこまでして寝返るほどの度胸はない」

 おどけて頬をかいたキリクは、少しの間、クリストファーの反応をうかがった。顔をしかめているが、動きだす様子はない。彼も、まわりの人々も。だからキリクは息を吸う。まだ引き返せる、そう信じて言葉を紡ぐ。

「ラフェイリアス教の聖典には、セルフィラのことってあんま書かれてないから、分かんないけど。でも、俺はセルフィラ神を『邪神』だって言いきりたくはない。セルフィラにはセルフィラの考え方があるんだろ。おまえに、おまえなりの考え方があるみたいに。だからさ、クリス」

「もういい」

 冷たい一声が、訴えを打ち砕く。おぼろな光と濃い闇の中にいる少年は、かつてない怒気を漂わせていた。

「もういいよ。君の考えは、よくわかった。あくまでも、ラフィアの犬として死ぬ気なんだな」

「クリス――」

 少年の願いは、導師の嘲笑に打ち砕かれた。

「残念だ。君がラフィアにつくというのなら、どうあっても殺さなきゃいけない。キリク・セレスト、君は――ラフィアの声に近すぎる」

 言われたことの意味は、今の彼には理解できない。

 ただ、何もかもが崩れてしまったのだと悟らされた。

 まっ黒い絶望によろめきかけたキリクはけれど、ざわめく人影をとらえると、反射的に剣を抜いた。クリストファーも彼にならった。暗闇に、二本の白い筋がきらめいた。

「悪いけど、まだやりたいことが結構あるんだよ。俺」

「あがく気か? ま、いいよ。少しならつきあってあげる。ああー、でも、加減できないから」

 軽い口調で言うクリストファーは、しかし鋭利な殺気をまとっていた。小心者のクリスの影は、どこにもない。唾をのみこみ、一瞬の静寂に身をゆだねたキリクは、直後に軽く地面を蹴った。そして、ふた振りの剣は交差する。

 澄んだ音色が夜空に響く。衝撃とともに火花が散った。キリクは短く息を吐く。三合ほど打ちあい、クリストファーの一撃を受けとめた。剣身と肩がきしむのを感じ、歯を食いしばった。

「重っ……!」

 両手で柄をにぎりこみ、力任せに腕をひねる。高い音を立てて、刃は互いを弾いた。いったん後ろに跳んだキリクは、今度はクリストファーの剣戟を横に流す。指がしびれる。汗が噴き出る。すべてを無視して彼は導師に飛びかかった。

 少年が全力をこめた一撃は、強固な剣に止められた。押しあう力は拮抗し、金属が低く鳴く。キリクは、交わる刃のむこうにいる導師をにらみつけた。けれど、その顔に緊張が走る。――闇夜の影で、彼が笑った気がしたのだ。

 ぞくり、と全身がわなないた。うめきと力をしぼりだしたキリクは、剣を捨てて跳躍する。しかし、遅すぎた。キリクの剣が黒い宙に放り出されたときには、あたりをまばゆい光が包んでいた。

 帝都の歓楽街もかくやという輝きが、煌々とあたりを照らし出す。一瞬後、元素エレメル、否、魔力の塊が少年めがけて飛来した。

 それは炎であり、氷であり、岩石であり、刃だった。自分に吸い寄せられる魔導術に青ざめて、キリクは地面に身を投げ出す。一波をぎりぎりかわした彼は、転がって敵から距離をとる。草が軍服にまとわりつくのを気にしていられなかった。

 跳ね起きる。肩で息をする少年の頬を凶暴な熱がなでてゆく。

「魔導術とか、卑怯だろ!」

「えー? 正々堂々勝負する、なんて言ったおぼえはないけどなー」

「こん……の、野郎!」

 キリクが悪態をついている間にも、魔導士たちは次々術を完成させていた。舌打ちしたキリクは、ひとまず逃げに転ずる。だがそのとき、凍りついた軍曹のすぐ横の木に刃が刺さった。刃に映る木々を見て、少年は状況の悪さを呪った。

 キリクは魔導士をよく知らない。ディーリア中隊には軍属魔導士がいなかったし、魔導術への対応を学ぶための合同演習に立ち会った経験もなかった。だから、どんな術があるのか、何をすれば打ち破れるのか、とっさに判断できないのだ。

 暗中模索。ひらめきはなく、思考は意識を上滑りしてばかりだった。とにかく命を守るしかない。低いところを滑ってきた岩の刃をかわし、飛来する火球の群を転げて避ける。

 どれほどそんなやり取りが続いたか。時の感覚が完全に麻痺した頃、キリクは藪に飛びこんだ。荒くなった呼吸を整える。そのとき、暗い草葉の陰に、鋼のきらめきを見つけて息をのんだ。先ほど跳ね飛ばされた剣が、ぽつんとそこに転がっていたのである。

 キリクは導師たちの動きをうかがいながら、そろりと剣に手をのばした。彼はそのとき、導師がまわりの魔導士たちに何事かをささやいたことに、気がつかなかった。

 手袋に覆われた指が、剣の柄頭に触れた瞬間、背後で青色の光が弾ける。キリクは振り向き、歯噛みした。氷の刃が飛んでいたのだ。――魔導術によって縛された、金髪の青年に向かって。

「くそ!」

 悪態をついたキリクは、音を立てて剣をにぎり、藪を飛び越えて走った。上背の青年を突き飛ばす勢いで氷と彼の間に割り込み、氷に剣を叩きつける。氷はあっけなく割れて透明な破片を宙に散らした。キリクはひとつ、安堵の息をつく。

 乾いた音が空気を裂いた。同時、左肩に衝撃を受けて、少年は大きくよろめいた。

「うっ……!」

 無意識にうなる。硝煙のにおいが、つんと鼻を刺激した。遅れて、血の臭いが立ち込める。撃たれた、と、キリクはようやく察した。正面を見れば、クリストファーが、見覚えのある銃を構えていた。

「見事にひっかかったね、お優しいキリク君」

 小さな導師は、少年兵をけたけたと嘲笑う。キリクは言い返せなかった。熱と痛みをこらえるのに必死で、言葉が浮かぶ以前に声が出ない。そんな彼を少しながめたあと、クリストファーが、魔導士たちを振り返る。キリクのところからでは、命令は聞こえなかったが、何を言ったかは想像がついた。

 あちらこちらで瞬く光をとらえ、少年は、薄暗い諦観を抱いてほほ笑んだ。

 これは死ぬな、と他人事のように呟いて。せめて同僚だけは守ろうと、ほんの少し右に動いた。左肩に強烈な痛みが走る。

 光が広がり、ひとつになった。

 肌がぴりぴりする。見えもしない元素エレメルの震動を、その身で感じていた。

 終わりを見越して、それでも少年は目を開いたままだった。

 闇のさらに深いところから、炎の塊が放たれる。

 ――瞬間、キリクの目の前を、薄い金色の幕が覆った。

「え?」

 金色の幕は、炎を跡かたもなく打ち消した。薄い光のむこう側で、クリストファーが目を見開く。導師の彼が動揺した、最初の時だった。とはいえ、キリクも他人の表情を観察している場合ではない。何が起きたのか、と、戸惑ってあたりに視線を投げかけた。

 音もなく、目前に人の影が現れる。まっ黒な背中をキリクは何も言えぬまま見つめた。

「あんたは……」

 夜風になびいたのは、見覚えのない黒い外套。顔の上半分までをも漆黒の布で覆ったその人物は、口の端を笑みの形につりあげた。

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