2-2 邪神の名
突撃する男を見据え、キリクは横に跳んだ。避けたと思ったが避けきれず、足をもつれさせて倒れた。しかしとっさに手をのばし、相手の右手首をつかんでひねる。今度は相手の方にのしかかり、手の中で光る短剣を取り上げようと、もがいた。
そのとき、男は、笑みを浮かべた。優しい笑顔はかえってぶきみだ。
「君、ラフィアの犬か。見たところ、子犬かね」
「――な」
唐突な言葉に、キリクは意表を突かれて固まった。その間に、灰色のひげに覆われた男の口もとが歪む。
「軍服などで覆い隠していても分かる。君からは忌まわしいラフィアのにおいがする。生かしてはおけないなあ」
自分こそが追いつめられているこの状況で、男はそう言い、一瞬だけ目を閉じる。その目が開かれたときには、キリクの視界の隅で緑色の光が瞬いていた。彼の左手で、ゆっくりと『形』をつくる光。それの正体を認め、キリクは戦慄する。その間にも光は――光を放つ、緑色の水晶に似たものは、剣となって輝いた。
魔導術。その単語が脳裏に浮かんだとて、少年にはどうすることもできなかった。この至近距離では銃剣を使うわけにもいかず、抑え込もうとすればその前に魔導の剣が彼を貫くだろう。
思考は一瞬。キリクは決めた。息をつめ、緑の剣へ手をのばす。
けれども手袋に覆われた彼の指が触れる寸前で、それは砕け散った。どこかから飛来した、さらに鋭い透明な刃によって砕かれた。
男は驚いていた。キリクも驚いた。しかし、今度は我を失っているひまなどない。今度こそ男の手から短剣を取り上げ、もう一人の衛兵の方へ思いきり滑らせる。回りながら地を滑る短剣を足で止めたのは、彼ではなく、いつの間にかそこにいた赤毛の少年だった。
「キリク、大丈夫か? 人、呼んできた」
「クリス!? なんで……」
男をがっちり捕らえたままで、キリクはクリストファーに問いを投げかける。彼は、はにかみつつも、笑った。そばかすだらけの顔を彩る笑みは、どことなく頼りない印象を抱かせる。
「いや、たまたま東門の方に歩いてたときに、キリクの声がしたからさ。伍長には止められたけど、つい、来ちゃった」
「つい、じゃないだろ。絶対後で怒られるって」
キリクが苦い顔で咎めても、クリストファーに悪びれた様子はない。話をしているうちに、彼が呼んできたらしい軍人たちが駆けつけてきた。数人がかりで男を立たせて拘束する。その中には、彼と一緒に警備をしていた兵士の姿もあった。彼は、キリクを見やると胸に拳を叩きつけてくる。
「お手柄だが、突っ走りすぎだ、一等兵」
「……申し訳ありません」
キリクがうめきながら謝罪をひねり出すと、彼は悪戯っぽく笑う。その後ろでは、黒服の不審者が兵士たちに脇を固められ、連行されていた。ハシバミ色の瞳はその後ろ姿をぼうっと追いかけていたが、振り向いた男の顔を映し出したとき、そこに驚きと、恐怖と、不信感が灯る。
「我らが主、セルフィラに栄光あれ!」
ひび割れた叫びが空気を裂いた。紳士の品は影もない。
一声は、沈黙を呼んだ。居合わせた軍人たちの多くが、ものも言えず凍りつく。キリクですら、わめきたてる男をまじまじと見つめてしまった。ただ一人、クリストファーだけが、きょろきょろと彼らを見ている。
引きずられた男が軍部方面へ姿を消すと、軍人たちはやっと立ち直った。苦々しさをかみしめながらも、役目のために動き出す。けれども、キリクは兵士にもう一度胸を叩かれるまで、立ちすくんでいた。不審者の去り際の一言が、いつまでも耳にこびりついていた。
セルフィラ。それは忌避された神の名だ。
彼女はラフィアの妹であると言われている。人に干渉しようとしない姉とは反対に、人を管理すべきだと主張し続け――やがて、姉妹は
キリクはセルフィラが邪だ、とまでは考えていなかったが、なんとなく怖い神様だという印象は、昔からある。
そしてほとんどの信徒は、セルフィラの名前すらも嫌い、遠ざけているのだった。
黒服の男は、公務執行妨害と不法侵入未遂の罪に問われることとなるだろう。一方、キリクも警備を交代してすぐに、軍警察とディーリア中隊に事情を聴かれた。淡々と続いた事情聴取は、午後いっぱいかかってしまい、解放された頃には夕刻の鐘が響いていた。
事情聴取を受けたのは、皇室師団本部の隣の建物だ。灰色の扉を閉じるなり、キリクは肩をほぐしながら歩く。夕日に目を細めていると、意識せずともため息がこぼれた。
「最初の警備でいきなり事情聴取って……これから大丈夫かな、俺……」
不安が言葉となってこぼれ落ちる。言葉はたちまち、虚しさを生み出した。ようやっと探り当てた道が、また暗闇に包まれてしまったかのようだ。
強い希望も熱意もありはしない。ただ、軍人でいられなくなっても困る。
窮屈な場所へ帰ることを、当たり前に考えるのは、もう嫌なのだ。
足もとから伸びる己の影に目を落とし、彼はもう一度、息を吐いた。ひたすらふさぎこんでいたから、靴の音が自分の前で止まったことに、気がつかなかった。
「君、大丈夫?」
キリクは弾かれたように顔を上げた。いつの間にか、黒髪の青年が目の前に立っていた。太陽を背にした青年の姿は、黒い影そのものだ。穏やかに光る若草色の瞳だけが、その影に生命の火を灯していた。
見覚えのある姿に、キリクは目をみはった。
「ヴィナードさん?」
「えっ」
名前を呼べば、彼は半歩退いた。それから、考えこむように目をすがめる。
「どこかでお会いしましたっけ」
「あ、えっと、俺があなたを見かけたんです。ほら、皇室師団の本部で」
おたおたしながら言葉を重ねると、魔導技師はうなずいた。
「もしかして、イルフォード中尉の部下の方?」
「はい。ディーリア中隊所属、キリク・セレスト一等兵です」
「なるほど、どうりで」
ヴィナードはほほ笑む。とりあえず警戒されずに済んだらしい。キリクもようやく、肩の力を抜いた。その後ヴィナードに「お疲れみたいでしたけど、大丈夫ですか」と心配されて、キリクの方が戸惑った。
「今日は少し、忙しかったもので」
「そうですか……。そういえば、宮殿の東門前で不審者が衛兵に襲いかかった、なんて騒ぎにもなってましたしね。大変ですね」
「はは……」
まさか、襲われたの俺です、と言えるはずもなく。少年は、作り笑いでごまかした。
「ヴィナードさんは、お仕事中ですか」
すばやく相手に問いを返し、話題をそらす。ヴィナードは不審がることもなく答えてくれた。
「さっきまで軍の技術者の方と魔導具提供についての交渉をしてました。これから、工房に報告に行くんです」
彼の工房は軍部御用達だ、というようなことを言っていたのは、キリクの上官だ。決して誇張ではなかったらしい。そして、軍とのやりとりを任されているのがヴィナードなのだろう。隊長といい彼といい、ひとつ上の世代はすごい人ばかりだ、と、少年は感心する。
一言、二言、会話をしたあと、ヴィナードとは別れた。その後、東門の前を通ったとき、キリクはふと足を止める。嫌でも昼間の光景がよみがえる。けれども、記憶と共にキリクが抱いたのは、不快感でなく疑問だった。
男ともみあったとき、別の場所から魔導術が飛んできた。あれを放ったのはいったいどこの魔導士だったのか。
ささくれのような考えを、少年はすぐに振り払う。今はひとまず、本部に戻らねばならない。自分に言い聞かせて、わずかに煙る空の下を歩いた。
本部に到着したそのとき、キリクは凍りついてしまった。たまたま、ステラ・イルフォードと鉢合わせたのである。けれども、軍人の性だろうか。動揺したからといってそのまま固まることはなく、次の瞬間には身にしみついた敬礼をしていた。
「セレスト一等兵、ただ今戻りました!」
「ええ、ご苦労さま」
隊長は、少しばかりうわずった声で答える。しかし、一瞬後には軍人然とした冷たい表情になっていた。わずかに眉をひそめ、少年兵をにらんでくる。
キリクが首をかしげていると、彼女は大股で歩み寄ってきた。キリクは反射的に姿勢を正す。
「ちょうどよかったわ。戻ってすぐに申し訳ないけど、一緒に来てくれないかしら」
「――はっ」
キリクは、一も二もなく彼女の言葉を受け入れた。お願いの形をとっていても、大抵、上官の言葉は命令だ。ステラは少し気まずそうにしたものの、すぐに表情を消して彼に背を向ける。言葉少なに、狭い廊下を進みはじめた。
どこに行くのか分からないままついていく。何度も角を曲がり、本部の奥へ歩いてゆく。進むごとに兵士の活気は遠ざかり、はりつめて冷たい空気が肌をなでた。
小さく震えたキリクは、なんとなく胸に手を当てた。薄黒い不安が胸に満ちる。思わず隊長の背に呼びかけていた。
「あの、いったいどこへ」
「着けば分かるわ」
にべもない。今の彼女は氷の女王だ。キリクが喉を詰まらせうめいていると、ステラはさすがに足を止め、顔半分だけ振り返った。
「本当は、新兵へ伝えるのはもう少し後にしようと思っていたの。せめて、全員が宮殿の警備についてから、と。でも、あなたは当事者になってしまったから、教えておこうと思って」
夕日に照らされた女の顔は、どことなく冷たく、切なげだ。光を弾き、影に縁どられた瞳を見つめて、少年は息をのむ。
「教える……とは、何をですか」
揺らぐ心を押し殺して問う。女は眉ひとつ動かさない。黄金色がさしこむ廊下に伸びる影は、凪いだ海のごとく沈黙している。黒い海に、冷たい声が落とされる。
「ディーリア中隊の、本来の役目」
投じられた一石は、影の水面に小さな波紋を生み出した。
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