2-3 女神の中隊

――本来の、役目。

 隊長の言葉を少年兵は胸の内で反芻する。得体の知れないざわめきが、胸を満たして焼きついた。

 橙と黄金に染まる廊下には、靴音ばかりが絶えず、響く。

「なぜ、我が隊が『女神のディーリア中隊』と呼ばれているか、分かるかしら」

 歩きながら、ステラは問いかけてきた。キリクは言葉に詰まる。そのような言い方をするということは、特別な意味があるということだろう。けれども、皆目見当がつかなかった。悩んだすえに、正直に答えた。

「……いいえ。女神ラフィアにあやかって、という程度のことと思っておりましたが……」

「新入りさんはだいたいそう言うわね」

 かすかな笑いを刷いてステラは言う。キリクは、嘲笑めいた言葉にたじろいだ。しかし、ステラはあざけるどころか、からかうそぶりすら見せず、前を向いて歩き続ける。

「実際、間違いではないわ。けど、『ラフィア神にあやかった』ことにも理由がある。信仰だとかゲン担ぎだとか、そんな単純な話じゃないの」

「というと」

 キリクは口を開いたが、最後まで問うことはできなかった。ステラが足を止めたからだ。

 いつの間にか、先は行き止まりになっている。いや、正確には閉ざされた扉がある。磨き上げられた木の扉には、繊細かつ壮大な神話の一場面が彫りこまれている。その大きさも相まって、ただ在るというよりはそびえ立っているようにすら思えた。たじろいだキリクがさりげなく扉の横を見ると、壁に打ち付けられた金色の板が目に付く。『第一会議室』の文字が彫り込まれている。

 少年は思わず、不信感もあらわに上官の背中をにらみつけた。彼女は、自分のようないち兵士を会議に連れこむ気なのか。いったい、どういうつもりだろう。

 だが、問いただす前にステラは拳で木の表面を叩き、把手をにぎっていた。高く、低く軋んで扉が開く。とたん、目に飛びこんできたのは鮮やかな色彩。それが、壁紙と壁にかけられた絵画の色だったのだと気づくまでに数秒を要してしまった。キリクがぽかんとしている間に、ステラは鋭い敬礼をする。ため息が出るほど美しい動作だった。

「ステラ・イルフォード中尉、参りました」

「――イルフォード中尉か、ご苦労。突然呼び出して申し訳ない。座ってくれ」

「はっ」

 やり取りをながめながら、キリクは半歩退いていた。空気を切り裂くやり取りは聞いていて心臓が縮みあがりそうだ。このまま踏み込めば、おかしくなってしまうような気がした。

 だが、彼のが気後れしているのを知ってか知らずか、ステラは一度、彼の方へ視線を投げる。「来い」とばかりにそのまま歩いてゆくので慌てて追いかけたが、そのときに改めて中を見て、ぎょっとした。

 やたら豪華な意匠の壁紙や絵画からして、ろくでもない場所だとは思った。だが、ろくでもない、どころの話ではなかったのだ。

 広々とした部屋の中央に並べられている机の前には、すでに数人の人が座っている。多くはしわとしかめっ面を刻みつけた男だ。その、誰もかれもが、軍や警察の高官だった。ただ座っているだけなのに、全身から威厳と圧力がにじみ出ている。

 小心者なら逃げだしたくなるような状況で臆していない若者は、ステラともう一人――一番奥の席にいる、細面の青年だけだ。ほかの高官の名前をキリクは知らないが、彼だけは何者か知っている。

 アーサー・オルディアン。またの名をカンタベル公アーサー。

 近衛歩兵部隊第一連隊の隊長であり、現皇帝の弟である。


 ディーリア中隊は、第一連隊の下にある独立中隊という扱いだ。つまりアーサーは、ステラにとって直接の上官で、キリクにとってはそれ以上に偉い人である。もはや雲の上のお方と言ってもよかった。雲の上の人が目の前にいる、という状況に頭がついていかず、キリクはぼうっとしてしまっていた。ステラに「君も座るのよ」と言葉の冷水を浴びせられ、ようやく我に返る。

「し、失礼いたします!」

 自分でも恥ずかしくなるほどの大声を張りあげて、キリクはステラの隣に座る。会議室にいた者のうち、二人は顔をしかめたが、大半の人は初々しい兵士の態度に微笑を誘われた。連隊長アーサーもその一人であったらしい。からかいたそうにステラとキリクを見比べていたが、ステラが無言で視線を向けると、軽く肩をすくめて、笑いをひっこめた。

「それではさっそく、今回の件について話し合おうと思うが、よろしいか」

 低く、それでいて明朗な声が響き渡る。誰もが無言でうなずくと、アーサーは、ちょうどキリクの向かいに座っている老人を見やった。軍のものと似て非なる制服をまとう彼は、帝都警察の上層部の人だろう。

「では、まずはこの件の概要を説明していただけますかな」

「はっ」

 恭しく一礼したあと、老人は淡々とした口調で、先の件――つまりは、謎の男がキリクに飛びかかってきたときのことをなぞった。当事者として合間で確認を求められたキリクは、ただただ、からくり人形のように、首を縦に振っていた。爆音を立てる心臓に気を取られて、とてものではないが話の内容は頭に入ってこない。

 老人の太い声が途切れると、アーサーは、晴れた空を思わせる碧眼を細めた。

「その者は現在、帝都警察の本部に拘留中だったな」

「は。本日中にも、皇室師団に身柄を引き渡す予定であります」

「よろしく頼む。何か情報は得られたか?」

「ふがいないことでありますが、あまり聞き出せておりませぬ。『ラフィア信徒を皆殺しにするのだ』と、狂ったように叫んでいまして、話にならない。誰の指示かと訊いたら『導師だ』とは言っておりましたが、その導師が何者かはいまだ不明でございます」

 そうか、とうなずいて、連隊長は老人をねぎらった。

 ようやく落ち着いてきたキリクは、違和感をおぼえて首をひねった。違和感の正体をつかむ前に、アーサーがステラの方を向く。

「さて――ステラ・イルフォード中尉」

 呼ばれた本人が目を瞬いた。手先が一瞬震えたが、表情は動かさずに「はい」と応じる。

「貴官は今回の件をどう見る?」

 ステラは少しだけ目を伏せた。すぐに顔を上げると、強い目で上司に向かいあった。

「おそらくは組織的な犯行でしょう。その導師とやらの下に集った者たちが、最低でも数人、関わっているおそれがございます」

「奴が導師とやらの名を借りている可能性もあるだろう?」

 太く黒いひげを生やした男が、しかめっ面で言い放つ。階級章からして陸軍将校の彼は、先ほどキリクを見て、嫌そうな顔をした一人だった。それゆえにひるむキリクをよそに、ステラは泰然として答えた。

「それはあり得ません」

「なぜ言いきれる」

「信徒たちは、神の名を借りることはしても、導師だの主だのと呼んでいる人間の名をかさに着て、勝手に事を起こしたりしない。私がそれを存じているからです。本人の許しもなく名を使えば、いらぬところで目立ってしまい、導師の理想の妨げになりかねませんからね」

 将校はものすごく反論したそうだったが、結局、無愛想に発言を終わらせた。ステラは再び、アーサーを見る。

「あの男は導師の手下の一人か」

「おそらくは」

「教会側は、なんと言っている?」

 少年は、ハシバミ色の目を細めた。ステラは彼をちらりと見たものの、何も言わずに目を戻す。

 ここへきて、ようやく違和感の正体がわかった。皇族を守る軍隊で、なぜこのような議論をしているのか。なぜ、教会という言葉が出てくるのか。先ほど隊長が言っていた『本来の役目』に関わるであろうことは分かるが、今、教えてくれるわけではないらしい。そのまま話は続いた。

「『この件に関して、現在申し上げることはない。介入もしない』とのことです」

「セルフィラ信徒が暴走しているのに、か?」

「教会が動くのは、教会に対して直接宣戦布告があった場合、あるいは彼らが聖者と認める者に危害が加えられた場合のみです。今はそのときではない、と、判断したのでしょう」

 うめく老人に対し、ステラはいっそ冷たいとさえいえる言葉を投げかける。それを見ていたアーサーが目を細めるのを、キリクは確かに見た。碧眼に、一瞬、危険な光が走ったように思えた。まるで、悪だくみをする子どものような光。しかし、不穏な影はすぐ、皇族らしい上品な所作に打ち消されてしまう。

「まずは警察と我が隊とで対処しなくてはならない、というわけだな。とにかく、あの者からもう少し情報を引き出したい。引き渡しのときまで粘っていただけるかな」

「かしこまりました」

 老人が、厳かにこうべを垂れる。きまじめな彼を見やると、アーサーはいたずらっぽい笑みをひらめかせた。

「なに、おぬしらでもだめだったら、我が隊の者がその労苦を引き継ぐまでのことだ」

 まるで他人事だ。ステラが顔をしかめても、言った本人はちっとも気にしていない。


 結局、そんなアーサー公の爽やかな号令で会議はお開きとなり、呼び集められた人々は、粛々と帰ってゆく。それを見送ったあと、アーサーは、キリクとステラだけが残った議場にひょっこり姿を現した。

「いや、わざわざ呼びとめてすまないな、ステラどの」

 がらんどうになった議場に、明るいのか低いのかわからぬ声が響き渡る。ステラが、ひとつため息をついた。

「殿下、一応部下の前ですので、軍人としてお話しになってください」

「彼ひとりくらいなら、私は気にしないが。まあ、お望みとあらばそうしようか、中尉」

 階級で呼ばれると、ようやくステラは表情をゆるめた。

「連隊長、引き渡しまで時間がありませんが……」

「そうだな。だが、彼への説明だけは、済ませてしまおう」

 鋭い碧眼がキリクの顔を捉える。少年は、誰に言われるでもなく、背筋を伸ばした。アーサーはそんな彼をおもしろそうに見おろしている。キリクがあくまでも沈黙を守っていると、ようやく口が開かれた。

「さて、セレスト一等兵。言葉で説明をするよりも見てもらった方が早いだろう、と私の方から呼び出したわけだが……会議の様子から何を読みとった?」

 アーサーの口調は、まるで入隊試験の面接官のそれだった。キリクは軽く唾をのみこんでから、ゆっくり、肩の力を抜いていく。

「ディーリア中隊の本来の役目は、教会と関係がある……と、それはかろうじて分かりました。あとは、隊長が隊と教会の中継ぎをなさっているのではないかと思いましたが、違いますか」

 かたい声を聞き、ステラとアーサーが顔を見合わせる。それから、どちらからともなくほほ笑んだ。思いがけない反応にキリクが呆然としていると、ステラに肩を叩かれた。

「まあ、及第点ね」

「……光栄です」

 なんだかいろいろと言いたくなったが飲みこんで、キリクは一言だけを吐き出す。ステラは彼に向けて軽く笑ったあと、表情からやわらかさを消した。

「ディーリア中隊の本来の役目はね。ラフェイリアス教に関わる事件の調査や、国と教会の間で起きた揉め事の仲裁、宗教闘争がらみの諜報といったことなのよ。だから、教会と関係がある、っていうのは大正解」

 少年は、ハシバミ色の目をみはる。予想外というほかにない答えに、しばし二の句が継げなくなった。ややして、ようやく、うめくように問いをしぼりだす。

「な、なぜ、ディーリア中隊がそのようなことを……」

「理由はいろいろあって、どれもすぐには明かせないものばかりだわ。けど、ひとつには、ラフェイリアス教がただの宗教じゃないっていうのが、関係している」

 ステラが、めったに見せない苦笑をのぞかせ、肩をすくめた。含みのある言いまわしをいぶかったキリクが、首をひねっていると、アーサーが彼の方に顔を突きだしてきた。

「君ならば、思い当たる節があるのではないか?」

 何気ない一言。しかし、その一言に、キリクは慄然として立ちすくんだ。全身が凍りついて、まわりの色すら見えなくなりそうだった。そのうちに、アーサーが優雅に身をひるがえして歩き出す。

「さあ、そろそろ行こう。本当に引き渡しに間に合わん」

 明るい声を豪華な議場に放って、連隊長は去ってゆく。

 キリクは立ちすくんだままでいた。隊長に呼びかけられるまで、彼の世界に色が戻ることはなかった。

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