1-4 変動の兆し

 それから二日後。キリクと数人の新兵は、隊長に呼び出された。そのほとんどは、隊長の執務室に向かう途中で不思議そうに顔を見合わせたり、いぶかしげにささやきあったりしている。ただ一人、キリクだけが、半歩ほど離れたところを黙々と歩いていた。呼び出しを受けた理由に見当がついたのだ。

 執務室に入ると、隊長が一人で待っていた。顔を上げたステラ・イルフォードは、感情を氷の壁に閉じ込めたような表情である。

 新兵たちは全身を緊張させて敬礼し、それぞれに名乗った。キリクも一応、彼らにならった。

「これで全員ね」

 隊長はかたい声で呟き、顎を小さく動かす。黒茶の瞳が新兵たちを見渡し終えると、彼女は単刀直入に切り出した。

「あなたたちには、明日から順番に、宮殿警備の任についてもらうわ」

 ざわめきの声は起きない。しかし、新兵たちは明らかに驚いていた。直立姿勢を崩さなかったのは、彼らの忍耐の賜物だろう。

 キリクをはさんで立っている少年二人が、何か言いたそうな顔をする。しかし、ステラに鋭くにらみつけられると、声にならぬ悲鳴を上げて引き下がった。こういうときのステラは、しかめっ面を通り越して無表情だ。石像みたいに動じない、と、からかわれる一等兵でも、さすがに恐怖を抱く。

 新兵たちが沈黙したことを確かめると、ステラは再び口を開く。

「期間は次の衛兵交代式まで。警備の場所は正門と東門。在任二年以上の衛兵と組んで、二人一組で警備にあたること」

 それから隊長は半身をひねって、何やら分厚い紙束を手に取った。キリクたちの方に突きつけられたそれは、宮殿警備に関する資料だ。この場でざっと目を通せと隊長が仰るので、言われたとおりにする。警備にあたっての注意事項、宮殿外周の見取り図、そして人員交代の日時などが記されていた。

 キリクは黙して、めくった紙束を元に戻した。膨大な情報が目から頭へ流れてきて、くらくらしそうだ。

 さりげなくほかの兵士たちの様子をうかがう。反応は様々だ。冷静沈着な人もいれば、内容が頭に入っていなさそうな人もいる。ただ一様に困惑しているようではあった。

 ステラは新兵たちの反応など歯牙にもかけず、声を張った。

「資料の確認は済んだかしら」

「はっ」

「よろしい」

 陸軍時代の鬼教官を思わせる口調で、ステラは言う。これが「気合の入れすぎ」の結果であるというのなら、キリクとしてはおかしみを通り越してうすら寒さを感じるところである。

 そんな思考を頭の隅で弄んでいたキリクだったが、すぐに遊んでいる場合ではなくなった。隊長から、次なる命令が下ったのだ。

「あなたたちは今日、訓練に出なくていいわ。その代わり、『先輩』から宮殿警備のことを教わりなさい」


 キリクに警備のを教えてくれる衛兵は、太陽みたいな笑顔が印象的な軍曹だった。褐色の肌に、たびたびのぞく白い歯がよく映える。本人いわく今年で四十二になるらしいが、そうは思えぬ若々しさがあふれていた。

 明るい軍曹に、まずは言葉で基礎を教わった。その内容が、さっそく少年をげんなりさせる。予想どおり、非常時以外は直立不動で見張っていないといけないらしい。

「動いたらどうなるんですか?」

「どうなるって、罰がある。持ち場を離れたら、罰金三百ルタ。正確には、その月の給料から罰金ぶんが引かれる。ま、身じろぎしたくらいじゃあ誰も咎めやしねえから、大丈夫さ」

「うわ」

 三百ルタといえば、任務に着いた衛兵の給料十日ぶんに相当する。考えただけで頭痛がしてくる話だ。

 座学が終われば、次は実践だ。姿勢から、警備中に携帯する銃剣の持ち方まで教わったが、それだけでも足腰や指が痛くなりそうだった。当日の重装備を思うと、今から気が滅入ってくる。警備中の近衛兵は華やかな帽子とそれに似合う外衣コートを身にまとう。その格好こそが憧れの的でもあるのだが、肝心の帽子と外衣コートは見かけ以上に重たいという。

「しかも、めちゃくちゃ蒸れるから覚悟しとけ。あと、熱射病には気をつけろよ」

「……はい」

 キリクは陽気な軍曹のささやきに短く応じる。喉元までせりあがった不快感をせめて顔に出さずにいるのが、彼にできる精いっぱいの我慢だった。


 どう考えても苦労しかない警備の任務だが、選ばれなかった同期たちにはかなりうらやましがられた。洒落た制服と制帽を身に着けて、背筋を伸ばして立つ姿は、やはり華やかに見えるのだ。

「まあ、セレスト一等兵は優秀ですからねー」

 独身寮の一室。キリクと、同部屋の少年兵たちは、狭い寝台に寝転がったまま、夜の雑談に興じていた。上段の寝台から厭味ったらしい笑い声を投げつけてきた坊主頭の少年に、キリクは冷やかな一瞥をくれてやる。彼は悪びれた様子もなく頭をかいたが、その後、「がんばれよ」と優しく言ってきた。空気が読めないところはあるが、根はいい奴なのである。

 明かりは、向かいの寝台のかたわらで灯っている小さな行燈ランプの光のみ。夜の暗がりのなか、身を潜めてコソコソ話すのは、彼らのささやかな楽しみでもあった。

「宮殿警備につくってことは、交代式にも出るんだろ。いいなあ」

「……ま、そうだね」

「親には伝えたのか、そのこと」

「いや? そもそも、帝都に来てから年に一回連絡とるかとらないか、って感じだし」

 腕を組んで枕の代わりにしたまま、キリクはかぶりを振る。ふーん、と向かいの少年が唇をとがらせたとき、また坊主頭が顔を出した。

「キリクの実家って、確かラフェイリアス教会だっけ」

 キリクは、無言でうなずいた。

 金銀の翼を持つ女神ラフィアを「世界を統べる神」として崇め、彼女の旗下の神々をも敬う――ラフェイリアス教。ほとんどの帝国民が入信している宗教であり、セレスト家の者は、代々司祭として教会を守っている。今、教会を継いでいるのは兄のクランだ。父の指導のもと、なんとか務めを果たしているらしい。

 少年たちは相槌を打ったあと、一斉に身を乗り出してくる。

「なあー。教会とか神様とかの、おもしろい話ってないのか?」

「なんだよ、それ」

「神父様しか知らない話とか」

「あったとしても教えるわけないだろ」

 吐き捨てて、キリクは寝がえりを打つ。まわりの少年たちから「つまんねー」「カタブツめー」などと非難の声が飛んできた。キリクは自分のまわりに「無視」という防壁を貼り、そのすべてを跳ね返す。そうしていると、うるさい同期はあきらめて静かになった。

 自分の手がぼんやり見えるだけの、夜の中。ハシバミ色の瞳は、穏やかに故郷の日々をなぞる。闇に浸るうちに、ふと、教会の者にのみ伝えられる秘密の話を思い出した。


 それは、女神ラフィアと人にまつわる壮大な神話だ。聖職者以外が聞けば、作り話だと笑い飛ばすような、荒唐無稽な物語。しかし、それはなぜか、口外してはならない機密事項として、水面下で受け継がれている。


「そこまでやるからには、あの神話にも何かしらの意味があるんだろうな」

 ほほ笑みながら、彼の兄はそう語っていた。

「……どのみち、そんな話を教えるわけがないんだけど」

 闇夜の中、キリクはひとり微笑する。明かりの消えた部屋をながめたあと、ゆっくりと目を閉じた。明日からは新しい仕事が始まる。いつも以上に、気を引き締めなければならなかった。



     ※



 街灯の明かりに沈んでいた星たちが、ようやく姿を見せはじめる。始まったばかりの夜の中を、一人の若者が路地を駆けていた。空色の法衣が、暗がりでも鮮やかに浮き立って、波打つ。

 帝都ほどの大都市で、夜道を一人で歩くことは、自殺行為に等しい。路地裏に潜んだ不逞の輩に何をされるか分からない。それだけでなく、街の裏では好ましくない商売や不穏な取引なども、わずかながら行われていた。その現場を目にしてしまえば最後、日の当たる場所には戻れない。けれども、今の若者にとっては、そのような可能性などは瑣末なことだった。背後に迫っている、明らかな死の気配に比べれば。

 一瞬だけ振り返る。すべてを飲みこみそうな黒の中、恐れていた姿はない。それでも空気が冷たいと感じるのは、夜だからか、また別の理由からか。震えあがった若者は、いまだぽつりと灯っている街灯の下まで走ると、一度、膝に手をおいて、息を整えた。

 そのときだ。闇が、ひたひたと、忍び寄ってきた。

「おや。止まってしまっていいのかい」

 やわらかい声が空気を揺らす。若者は、全身を震わせ、細い悲鳴を漏らした。ほのかに黄色い光の下、頬から血の気がひいて、蒼白くなってゆく。彼は、声のした方に目を向けて、すぐに後悔した。なにかが、鈍く光った。刃物か。銃か。いずれにしろ、自分を殺すものだ。

 あまりの恐怖に喉がひきつった。口が開いたり閉じたりするばかりで、まともな音が出てこない。声は笑った。紳士といえばこんな声、と連想するような優しい響きは、狂気と愉悦を含んで、若者にまとわりついてきた。


 闇が動く。法衣が揺れる。

 鈍色が光り、突き出された。

 それが猛威を振るう直前。

 別の影が両者の間に割り込んで、光と影を明確にわかった。


 よろめいた若者が見たのは、ひるがえる外套の黒い裾。そして、わずかに散った蒼白い火花。火花が消えると、およそ人とは思えぬ獰猛な絶叫が、帝都の路地を駆け抜けた。おぞましい叫びはすぐに消え、冷えた死の気配がどこか遠くへ去ってゆく。

 沈黙の先で、鳥の声が控えめに響いてきた。危機が去ったのを知った若者は、その場にへたりこみかけた。しかし、黒い外套の人物が、若者の腕をつかむ。

「……あ」

「悪いけど、安心するにはまだ早いんだ。あんた、家どこ? 送ってくぜ」

 若者は、目を瞬いた。彼も二十五歳になったばかりだが、相手はさらに年下の者かもしれない。快活な、子どもらしささえ残る声の提案に戸惑ったものの、若者はうなずいていた。このまま一人になっても、何もよいことはないと、彼は分かっていたのだ。「よし」と黒い外套の人物は呟く。かすかに、笑いを含んでいた。


 黒い外套をまとう者は、最後まで若者に正体を知られないまま、彼を家に送り届けた。若者の家の明かりがついて、消えたのを見届けた後、軽やかに身をひるがえし、整然と敷き詰められた石畳の道を走り抜ける。彼は、すべてが眠るはずの時間に唯一白い光を灯す建物を目指していた。

 彼はあっという間に建物の外縁へたどり着くと、警備の者を一瞥する。彼らはぎょっとした顔をしたが、不審者を止めようとはしなかった。外套はそのまま草葉の陰に消え、ややして身軽に塀と壁をつたって、建物の窓に手をかけるにまでいたった。そこで、通りがかった一人の女性と視線がぶつかる。長い栗色の髪を結い上げ、近衛の制服をきっちり着こなした軍人。つまりは、ステラ・イルフォード中尉である。

 たまたま遅くまで残って仕事をしていたステラは、今から帰ろうという折に遭遇した不審者を見ても、表情を変えなかった。煌々と光を振りまく天井の照明をちらりと見たあと、黒い外套をながめる。

「神出鬼没」

「会って最初の言葉がそれとは、ご挨拶だな、ステラ」

「本当のことでしょ」

 外套の下で彼が苦笑する。ステラはため息混じりに呟いた。容赦のない切り返しに何を思ったか、まっ黒い布に覆われた肩がわずかに上がる。

「まったく。もうちょっとこう、けなげに働く男をねぎらおうとか、そういう心がけはないもんかね」

に何を期待してんだか。――それで? 何かあったの?」

 ステラが問いを向けると、黒い外套のまとう空気が、いくらか真剣なものになる。一拍の沈黙の後、わずかにのぞく唇が動いた。

「さっき、見習い神官が一人、襲われてた」

 形のよい眉が跳ね上がる。ステラは頭に浮かんだ言葉たちを押しこめて、先をうながした。

「ぎりぎり間にあった。犯人は逃しちまったけど、被害者は家に送っといたよ。

 でも、だいぶきな臭いことになってんぜ。犯人はおそらく過激派だ。女神さまの味方をする人間となれば、誰であろうと牙をむく」

 ステラが、とうとう息を吸う。

「ちょっと。それじゃあ、帝国人のほとんどが標的じゃない」

「だぁからきな臭いっつってんだ。せいぜい身辺に気をつけろよ。また体制が動くんだろ」

 けだるげに体を伸ばす彼を、ステラは呆れてにらみつける。

「あのね。皇室師団や近衛部隊は皇族を守る軍隊であって、あたしを守るわけじゃないのよ。むしろそれを指揮する側なんだけど?」

「分かってるって。……それとも、どういう意味か言わなきゃだめか?」

 ステラは、つかのま声を詰まらせたあと、首を振る。彼の言葉の意味を知るのは、今のところ、彼とステラと、ごく少数の人間のみだ。そしてそれはできるならば、外へ吐きだしたくはない。

 黒い外套の人物は、短く息を吐いた。

「じゃ、俺は帰る」

 手短に告げた彼は、ステラが返答するひまも与えず、元来た道をそのままたどっていった。草葉をかきわけ、皇室師団の本部から遠ざかる彼の姿を見おろしたステラが、「相変わらずね……」と頭を抱えたことを、彼は知らなかった。

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