1-2 氷の女王

 食堂が近くなると、さすがに人通りが増える。腹をすかせた兵士たちで廊下は埋め尽くされていた。彼らの話し声は絶えることなく、不思議と好ましい騒音を少年たちの耳元へ連れてくる。ほとんどが男性だが、キリクたちの隊長のような女性がまったくいないわけでもない。ときどき、凛とした女性の横顔が目について、そのたくましさに息をのむ。

 昼時とあって、食堂の扉は開け放たれたままだ。そこから軍服の群が吐き出されたり吸いこまれたりしている。食欲をそそる香りが流れてきて、少年たちの腹をくすぐった。

 食堂に入った後、キリクはクリストファーと別れた。彼は、同じ年頃の兵士に混じって食べるのだが、キリクの方はその集団がどうにも苦手だ。だから、いつも一人で適当な席に座って食べるのだった。黒パンに、くず肉と豆の煮物、野菜が入った塩味のスープ。変化にとぼしい食事を盆に載せて、あいた椅子を探す。

 喧騒の中で目についたのは、窓際の一角だった。まわりに人がおらず、静かに食べるにはうってつけである。キリクは早足でそばへ行くと、木のテーブルにいそいそと盆を載せて場所取りを済ませた。そこまでやってようやく、落ちついて長椅子に腰を下ろした。

 短く食前の祈りを済ませたあと、とりあえずさじでスープをすくった。薄味のそれを口に含んだとき、野獣じみた笑い声をさえぎって、軍靴の音がする。キリクのすぐ前に客が来たらしい。キリクはしかし、他人の様子をうかがおうとは思わない。無言でスープを二口飲んだ後、煮物に手をつけた。

 前に来た軍人たちは、短く言葉を交わしたあと、少年のななめ右前に座った。どちらも、女性のようだ。

 とうとう好奇心をくすぐられて顔を上げたキリクは、そのまま硬直した。匙を落としそうになって、慌てて指に力をこめる。

 そこにいたのは、どちらも、キリクと同じディーリア中隊の隊士だった。片方は、古参のアリシア・ブレンダ軍曹。そして、もう片方は――隊長、ステラ・イルフォード中尉である。

 二人は、なごやかに会話している。とりわけステラの快活な笑顔は、訓練のときとは大違いだ。猛獣じみた覇気と、町娘の活気、どちらが彼女の本物だろうか。

 キリクは女性たちをせわしなく見比べてしまう。しかし、どこかで弾けた粗野な笑い声のおかげで我に返り、再びスープに手をつける。白く濁った汁に意識を集中していたおかげで、あっという間に皿の残りは少なくなった。かたい黒パンをやや乱暴にちぎって、そこへひたす。

 キリクはパンのかけらを口に運びながらも、聞き耳を立てていた。けれども、女性たちの会話は分かるところも、分からないところもある。新しいお店がどうのとか、いい男がどうのとか、そういう浮ついた話はしていない。逆に、いち兵士にはついていけない、仕事関係の難しい言葉が飛び交っている。それでも、話し声や笑い声は華やかで、ともすればむさくるしい軍部の食堂に、やわらかい色を落としている。だからこそ、明らかに場違いな少年は、己がみじめに思えた。

 なんと居心地の悪いことか。早く食べ終えて、訓練までの間は昼寝でもしよう。

 心に決めたキリクは、食べる手を速めた。そのとき、意外な言葉が耳に入る。

「軍曹。毎年思うんだけど、なんで新入りのみんなは、私を見ておびえるんだろう」

 キリクは、パンを口に入れたまま、動きを止めた。丸くした目をななめ右前に向ける。ステラ・イルフォード中尉は、まつ毛を伏せて肩を落としていた。隣に座るアリシアは、隊長をあわれんでいるようにも、あきれているようにもとれる顔をしていた。

「隊長。ご自分の、訓練中の言動をどうお思いになりますか」

「え……どうって。いえ、まあ、ふだんよりきつい自覚はあるよ。でも、あれって普通でしょう。あれくらいやらないと舐められる、って教えられたんだけど」

「イルフォード家の常識は世間の非常識です。厳しくすることも必要ではありますが、過ぎれば兵士は委縮します。我々のような古参の者はともかく、入隊したばかりの新兵となれば、なおさら」

 目をすがめて言いきった軍曹は、こぼれてきた金髪のひと房を指ですくった。

「しかし、隊長の場合は厳しくなさっているというよりも、気合の入れ過ぎでしょう。剣術指導のは、はりきりすぎです。もう少し自重なさってください……と、再三申し上げていますよね」

 中尉の補佐役も兼ねているのであろう軍曹の物言いは、丁寧さの中にかなりの棘を含んでいる。その棘が全身に刺さっているのか、ステラは目に見えて落ちこんでいた。「ごめんなさい」とささやき、うなだれる姿は、教師に叱られている学生のそれである。アリシアはそんな上官を冷やかに見ていたが、ややして口もとをほころばせる。

「しかし、彼らがあなたのそういう一面に気づくのも時間の問題でしょう。なにしろ、中隊を任されるほどのお人なのですから、ただ怖いだけの人間ではない。一度任務をともにすれば、おのずとわかるものです。私たちがそうであったように」

「……褒められてるのか、そうではないのか。軍曹の私に対する第一印象は、どうだったの」

「どうもこうも。初々しい隊長だと思いました」

 さらりとした切り返し。ステラが目をみはり、口を半開きにして見つめると、アリシアはすまし顔で「人の本質を見抜く目はある、と自負しております」などとのたまった。女性中尉は小さく吹き出し、相手の胸に拳を突きだしながらも感謝の言葉を述べている。言葉の応酬はつかのま途切れて、再び始まった。また会話についていけなくなったキリクは、パンのかけらで、皿に膜を張ったスープをなめとってゆく。

 いつもどおりの昼食は、いつもと違った気分で終わらせることとなった。いろいろと混乱する出来事はあったが、ひとつだけ、はっきりしたことがある。――ステラ・イルフォード中尉は、決して氷の女王でも悪鬼あっき羅刹らせつの類でもなく、一人の女性だということだ。

 クリストファーが今のやりとりを聞いたらどんな反応をするのか。キリクは、ちらりと考えて、口の端を持ち上げた。


 結局のところ、キリク・セレスト一等兵に、昼寝をするひまは与えられなかった。食事が終わってから少しして、本部の外庭にある巨大な倉庫へ呼び出されたのである。何事か、と行ってみれば、ディーリア中隊の兵士がさかんに出入りして、大きなものを運び出していた。それが訓練に使うまとなどであることは、すぐに知れた。

「おら、そこの新兵も手伝え!」

 怒鳴ったのは、下級兵士の監督を務める伍長だ。いかつくひげを生やす彼に、まじめくさって敬礼したあと、キリクは男どもの中に飛びこんだ。

 二、三人がかりで的を運びだしては倉庫に戻り、また別の物を運び出す。それをしばらく繰り返していたキリクはけれど、ある兵士に肩を叩かれた。

「キリク。次はこちらを手伝ってほしいんだが」

「分かりました」

 キリクより数年先輩の兵士は、人好きのする笑顔で話しかけてくる。突然の声掛けに首をかしげつつも、少年は彼に応じて、ついていった。

 連れていかれた先は、倉庫の奥。そこには、なぜか彼らの隊長がいて、台座に乗った球形の物体に手をかけていた。

「隊長、連れてまいりました。この者でよろしかったですか」

「うん。そう、彼よ。ありがとう」

 いちいち短く切りながら言ったステラ・イルフォードは、キリクをぞんざいに手招いた。彼は困惑しながらも、大人しくステラのそばまで駆けよってゆく。

「やあ、よかった、よかった。これはそんなに重くないんだけどね。一人で運ぶのはちょっときついから」

「はあ……」

 キリクは、返事をしつつも眉を寄せる。彼女の言い方だと兵士なら誰でもよいような感じだが、先ほどのやり取りでは、明らかにキリク個人を探していたふうだった。おまけに、今は氷の女王の態度ではなくなっている。この状況をどう判断すればいいものか。

「じゃ、とりあえず、手伝って」

 悩んだ末、キリクはディーリア中隊入隊よりさらに前――陸軍訓練時代の教官の言葉に従うことにした。「おまえたちには命令を理解する頭は必要だが、命令の意味を考える頭はいらぬ」という、兵士にとっての金言である。

 ステラの向かい、物体を挟んで反対側に立ち、台座の部分についている持ち手に手をかけ、かけ声とともに運びはじめる。銀色のつるりとした球体は、見かけよりも軽かった。ただの球にしか見えないそれをしばし見つめ、キリクはとうとう、口を開いた。

「隊長。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「何?」

「これは、いったいなんなのですか」

「訓練用の的」

 感情の薄い声で切り返されて、キリクは続けるべき言葉を見失う。的には見えない。どう見ても銀色の球だ。砲弾をうんと大きくしたような。しかし、そう反論したくても、なぜかできない。少年が呆然としている間に、ステラは球のむこうで言葉を続けた。

「そうは見えないって言いたいんでしょう。分かる、分かる。でもね、これ、魔導具まどうぐだから。使いはじめたら、ちゃんと的として機能するわよ」

「はっ……?」

 キリクは、今度こそ唖然とした。


 魔導具。太古の昔より大陸に伝わる魔導まどうじゅつと呼ばれるわざを道具に書きこんで、それに近い効果を得られるようにしたものだ。魔導に通じていないキリクは詳しいしくみを知らなかったが、どうやら、この内部には術の動力となる力をためこむものと、術の効果を数式化したものを刻む板が埋めこまれているらしい。ひとつ作るのに手間と時間が馬鹿みたいにかかるうえ、魔導具を作り出せる技師や職人の数がまだまだ少ないため、魔導具は高級品だ。先ほど怒鳴っていた伍長が、以前、「魔導具が一個あれば小さな家が一軒建つぞ」と真剣に言っていたのを聞いたことがある。


「そ、それを、射撃訓練の道具に……?」

 キリクが震え声で呟くと、ステラはどこか少女めいた笑い声を立てた。

「ふつうなら、そういう反応よねえ」

「い、いいんですか、そんな物を使って」

「いいんじゃないかしら。これは、私の知り合いの魔導技師が『ひまつぶしに作ったから使ってみてくれ』って譲ってくれたものだし」

「一応、軍部御用達の工房の人だから、腕は確かよ」ステラは明るい口調でそう言ったが、少年兵にはどうも信じがたいことであった。魔導具を支える両手に、知らず力がこもる。

「手間暇かけて作ったものをわざわざ譲るなんて、どんな技師ですか」というようなことをキリクが訊くと、彼の上官は明るいままで返した。ここで詮索しなくても、きっとすぐ会えるだろう、と。

 隊長は言動こそ厳しいが、気休めのようなことは言わない人だ。その隊長が「すぐ会える」と言うのだから、機会は遠からず巡ってくるだろう。

 キリクはそう結論付けた。そして、謎の技師のことを頭の片隅にとどめたまま、射撃訓練へ向かうこととなったのである。

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