1-1 軍人の平穏

 珍しいことに、その日は昼前まで雨が降らなかった。ただ、空には白と灰色をかき混ぜた雲がまだら模様を描いていて、快晴にはほど遠い。鉄とほんの少しの蒸気のせいか、よどんだ空気を漂わせる街をぬるい風が吹き抜けてゆく。道を行く紳士淑女も、大声を上げて新聞を配り歩く少年も、車をひく馬の手綱を巧みに操る男性も、街のおりに気づかぬふりをして、せかせかと地上を歩いてゆく。


 人々の騒がしい営みから少し離れた場所にある建物では、物騒な応酬が行われている。その裏から響く甲高い音は、沈殿する空気を切り裂いた。鍛冶屋が鉄を打つにも似た響き。しかし、その音が示すのは、鍛冶よりはるかに生産性の欠如した事柄である。つまりは、剣と剣が交わっているのだった。

 四角く広がり、銀色の柵に囲われているのは、帝国軍本部の演習場だ。時によって役割も配属先も異なる軍人がさまざまに入れ替わるそこで、今は、黒に限りなく近い濃紺の軍服と白い麻衣がひしめきあっていた。


 白銀の光が、空中に細い軌道を描いて衝突する。次の瞬間、細身の剣が無骨な長剣の鍔近くを打ちすえた。見かけに似合わぬ鋭い剣戟に、長剣は震えて、飛ばされる。そのありさまを近くで見ていた兵士は、ハシバミ色の瞳を細めた。

――あ、負けだ。

 キリク・セレストは、なんの感慨もなく胸のうちで呟いた。出かかったため息をこらえる。対戦していたのは、女性と少年。言いかえれば、隊長と新兵だ。最初から、結果など見えていた。最終的に尻もちをついた少年兵へ女性軍人が歩み寄っていき、はきはきと声をかけている。

 構えの姿勢がなっていない。だから、踏みこむときにぶれが生じる。思いきりはいいが、不意打ちや陽動フェイントに弱い。可憐とさえいえる若い女性の口から出るのは、厳しい言葉の数々だ。ここからは見えないが、おそらくは吹雪を瞳に閉じ込めたような視線を兵士に向けているのであろう。その予想はほぼ確信であった。背筋を凍らすほどの気迫は、遠くで立っていても伝わってくる。それが、裏付けだった。

 キリクの同期でもある少年兵は、まっさおになりながら、それに対して返事をしている。あの様子を見るに、どこまで頭に入っているのか怪しいものだが。

 実際の動作をとりながらの指導がしばらく続く。剣の訓練では、毎度数人が、彼女の指導を直接受けるという名誉に与ることになる。そしてその新人たちは、当初のやる気を丸ごと吸い取られて、演習場を去ることになるのだ。

 少しして、直接指導が終わると、少年は敬礼をして隊員の列に戻っていった。訓練用の麻の上下は泥だらけだった。隊長が、姿勢を正した後に振り向いて、キリクを見た。

「次、キリク・セレスト一等兵ね。前へ」

 心胆を冷えさせる、鋭い声が名前を呼んだ。キリクは敬礼でこたえる。淡白な表情の裏で、はりつめた糸のような緊張感を抱いていた。

 なるべく音を立てず、隊長の前に立つ。豊かな栗色の髪を無造作に束ねた女隊長は、獲物を見つけた鷹のような目をしている。もう、すでに、逃げだしたくてしかたがなかった。それでも、キリクは、いつものように「よろしくお願いいたします」と、決まり文句を述べる。二人同時に剣を抜いて、構え、にらみあった。細い刃のむこうで隊長がほほ笑んだ。それは娘の微笑ではなく、悪名高き女帝の冷笑だ。

「君、この訓練に出たこと、あったっけ」

「……いえ。今回が初めてです」

 こうして向かい合った人の顔は全部覚えてるくせに、今さら何を訊くのか。キリクは思いながらも、馬鹿正直に思ったことを言ったりはしなかった。口に出したのは慇懃な否定である。

 すると、彼女は笑みを深くした。それを追うように、殺意に近い気配が濃くなった。衣服をやすやとす貫いて、人の気が皮膚を突き刺してくる。

 キリクは息をのんだ。

 これは失神した方がまだ幸せだと思う。しかし無情にも、少年の意識は保たれていた。

 しかたがない。

 腹をくくったわけではない。嘆くことを放棄した。そしてキリクは、上官に向き合った。

「お手並み拝見といきましょう。セレスト一等兵」

 しかし、彼女が口を開いた瞬間、奇妙な色が茶色の瞳ににじんだ。木の棒を剣に見立てて遊ぶ少年のような、愉快そうな色だった。おや、と思いながらも、キリクは冷めた表情を崩さない。

「お手柔らかに、お願いします。イルフォード隊長」

「保証できかねる」

 最後の抵抗は一瞬で粉砕された。

 しかし、同時に少年兵は確信する。

 隊長は楽しんでいる。子どもみたいにわくわくしているのが、冷たい気迫の裏側から伝わってくる。

「だからと言って、俺たちをこてんぱんにするのはやめてほしいんだけどなあ」という、少年のひそかな願いは、きっと届かない。

 短いやり取りの後、一瞬の沈黙。そして、軍靴がかたい土を蹴り、剣と剣が交差した。

 新兵の同期、ということは、キリクもまたこのなかでは新兵である。

 十五で軍門を叩いてから二年。十七の初春より、突然、皇室師団に転属となったのだ。近衛兵の新入りが基礎を学ぶための訓練期間を終えて、同じ隊に正式配属された。

 それからまだ十日あまりだ。相手は、女だてらに剣を振るうこと十余年の熟練者。先ほどの新兵と同じく、結果は最初から見えていた。


「うっわ、えげつな……」

 昼を告げる鐘を聴き、演習場から「迅速に撤収」したあと。本部の灰色一色の廊下を歩くキリクは、己の手首に丸い痣を見つけて顔をしかめた。同じような痣が、数えるのも馬鹿らしくなる数あることは想像がつく。全身がじんじんと痛みを訴えていたが、無視して足を進めてゆく。今後、これが日常になるのだ。構っていてはきりがない。

 漏れ出かかったため息を、かろうじてこらえた。今日、何度これを繰り返しただろうと、考えかけてやめる。そのとき、背後から騒がしい足音がした。

「キリク」

 彼の名を呼ぶ声がする。少年は、気だるさもあらわに後ろを向いた。

 赤毛にそばかす、愛嬌のある笑顔を見せて手を振る少年が、彼から少し離れたところにいた。キリクのひとつ前に、隊長に打ちのめされた新兵だ。気づいたキリクは足を止める。

「クリス、お疲れ」

「おう、お疲れさま。お互い、大変だったなあ」

 会うなり握手を求めてくる彼、クリストファー・ノーマン一等兵に応じてから、キリクは肩をすくめた。

「まあ、大変だったけど。いい勉強になった」

「本当に? キリクはまじめだな。俺なんて、隊長が怖すぎて、言われたこと覚えてないよ」

「おまえな……そんなことだろうと思ったけど」

 予想どおりのことをあっけらかんと言う同期の肩を小突いた。それからふっと、彼の背中越しに、もう扉すら見えない演習場をのぞんだ。不思議と、女性軍人の不敵な笑みが思い浮かぶ。

「なんだっけ、隊長のあだ名」

「『氷の女王』? そのとおり、って感じだよね」

「いや。俺は『やんちゃ隊長』に改めた方がいいと思う」

 キリクが言うと、クリストファーは首をかしげた。どうも、上官が訓練を楽しんでいた、と見抜いたのはキリクだけらしい。ほかの隊士がどうかはわからないが、聞いてまわるほどのことでもない気がする。

 ひとけもまばらな廊下で、上官の噂話に花を咲かせていたとき。大きな窓のむこうから、低く、大きな声が聞こえてきた。耳にするだけで身がひきしまる号令と、それに応じる声のあと、少しして、音楽が奏でられはじめた。

「あれ? なんだ?」

「何って。どう考えても軍楽隊だろ。……そうか、今日、衛兵交代式か」

 二日に一度行われる、宮殿の衛兵交代式。キリクもクリストファーも立ちあったことはない。しかし、きっと、華やかな隊列に彼らが加わるのも間もなくのことだろうと思われた。そのときを想像しているのか、クリストファーが気の抜けた笑顔を見せる。

「俺も、早く宮殿警備やりてえなあ」

「楽しいもんじゃないと思う。ずっと立ってなきゃいけないし」

 宮殿のそばを通るたび、直立不動で警備にあたっている衛兵たちが必ず目につく。暑かろうが寒かろうが、雨や雪が降ろうが、身じろぎひとつせず立っている姿は、かっこいいというより異様だ。あれを自分がやると考えると、げんなりする。キリクは、自分が重い衣装を着てしかめっ面で立っているさまを想像して、眉をひそめた。

「やめやめ、今考えてもしょうがない」

 頭を振って、すぐに嫌な想像を追い出す。そして、同期の背中を叩き、急かした。

「ほら、未来のお話をするのは後にして、先にお昼食べよう。時間がなくなる」

「おっと、そうだな」

「昼からはクリスの嫌いな射撃訓練だし。……そういえば、隊長の指導と射撃だったら、どっちがいいの?」

「うわああ余計なこと言うなよおおお! どっちも嫌に決まってらぁ!」

 意義のない会話を慰めにして、二人の少年兵は無機質な廊下を進んだ。

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