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敵勢力との共闘か…!
当てがある、っていう大哥はかっこいいけど、割り切れない思いはそりゃありますよね…
そして朱子学なんて机上の空論より孫子の兵法を憶えろ、みたいな感覚ってこの時代の軍人の共通認識だったりしたんでしょーか?
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軽い気持ちの質問に超詳細な解説ありがとうございます;;;
恐縮ですm(__)m
作者からの返信
朱子学は完全なる同時代の産物で、この紛争を引き起こした時の宰相、韓侂冑の政敵が、朱子学の祖である朱熹とその一派です。
事実上の首都である臨安では、反体制的な知識人はこぞって朱子学のサロンに集っており、今まさに思想体系として整えられていく最中なのですが。
リアル趙萬年が記録した『襄陽守城録』には、そうした臨安の動きは一切出てきません。
朱子学という言葉も(当時そう呼ばれていたのか?)出てきません。
その一方で、孫子の兵法を前提知識とした言葉はしばしば出てきます。
「兵法では勝ち負けの応酬があるのが常識」@撒速との対談にて
「兵法で言うところの○○の策だ」@金軍が講じてくる手段など
また、現代日本ではマイナーにも程がある魏晋南北朝時代の武将の名前が「知ってて当然」のニュアンスで出てきます。
魏晋南北朝時代は、北方に異民族がおり、漢族は南方(臨安周辺など)に避難して国家を運営しながら異民族の侵攻におびえていました。
南宋の置かれた状況によく似ていることもあってか、魏晋南北朝時代は(現代人の感覚よりずっと)趙萬年たちにとって身近だったようです。
趙萬年が『襄陽守城録』を書き残した背景には、同時代および後世の軍人の参考になるように、という思いがありました。
そのことを踏まえて推測すると、上記の兵法と魏晋南北朝時代は、当時の軍人の共通知識だったのではないかという仮説が立ちます。
この仮説を裏付けるには、同じような日記との比較検証が必要になるでしょう。
南宋代の「守城録」は、私が知る限り3つあって、1つがこの『襄陽守城録』、1つが同じ紛争における徳安で記録された『開禧徳安守城録』、もう1つがこれより80余年前の『徳安守城録』です。
(ちなみに『襄陽』が最も人目に触れたことのなかった史料です)
これらを全て読んでみれば、孫子を始めとする兵法家の論説がどの程度、南宋代の軍人の間で普及していたか、おぼろげながらわかってくると思います。
また、そうした記録の中に魏晋南北朝時代など過去の軍人になぞらえた表現などが出てきたら儲けもので、当時の人々の歴史認識が少しだけ推測できることとなります。
そして守城録シリーズを本気で網羅してまとめたら、私は余裕で論文博士の審査をパスできます(笑)
ついでに。
小説である『三国志演義』の成立は明代にまで下りますが、南宋代でも正史や講談などを通じて『三國志』はよく知られたお話だったようです。
当時の武廟には(関羽ひとりではなく)歴代の有名な武人がズラッと祀られていましたが、その中にも三国時代の有名人が数名いました。
原文の『襄陽守城録』でも、三国時代についての知識があることを前提にサラッと書いてある文章があり、その前提が若干あやしい私にとって調べ物の難易度が異様に高かったりしました。
超絶長くなりました。
超訳版のほうは、こんな感じの注釈が山ほど入っています。
おっ、氷月ゼミだ(笑)
コメント欄の詳細な解説、楽しんでおります!
作者からの返信
ありがとうございます。
コメント欄ではたびたび突っ走っております(笑)