第3話 人間の盾を平気で使うタイプだよ

 ケータイで呼び出されたわたしは、急いで顔を洗って歯を磨き、赤いフレームのメガネを外してコンタクトレンズを装着し、制服に着替えて寮の部屋を飛び出しました。目的地は部室棟。寮があるこの場所からは歩いて五分ほどの距離です。目覚ましの運動と考えれば丁度いいかもしれません。


 私立朝陽城学園。


 わたしが通っているその高校は野球が行われるドーム二十個分もの広大な敷地を有していて、その中に学業や部活動、委員会活動などを行う建物の他に、生徒たちが暮らす学生寮が建っています。さらに美味しい食事を提供してくれる食堂や文房具や本を扱っている売店もあらゆる棟に併設されているので、まるで学生ばかりが住む一つの街という感じでした。ショッピングやカラオケなど、若い人が好む遊びをほとんどたしなまないわたしは、この学園に入学してから一ヶ月と少しの間、一度も学園の敷地から出ていません。わたしのような生徒がどれくらいいるのかわかりませんが、とにかく過度な娯楽を求めなければ在学中の三年間、ずっとこの場所で過ごせてしまうのではないかと思えるほど、学園のインフラは充実しているのです。


 どうやらこの学園を運営してる理事会のメンバーは政財界を裏で牛耳っている陰の実力者たち……なんて噂もまことしやかに囁かれているのですが、真偽のほどはわかりません。ただ、この学園に所属している生徒や卒業生に優秀な功績を残している――オリンピックでメダル、あらゆる芸術分野での賞の獲得、芸能人、プレジデント、政治家等々――ので、学園に出資をすることは、リターンの大きな投資ということになるらしく、本当に陰の実力者たちというものがこの朝陽城学園を支えているのかもしれません。


 そんな学園の敷地内を歩いて目的地である部活棟へと向う途中、猫背でよたよたと歩いている背中を目にしました。女の子です。近づいて声をかけると、たった今起きたばかりだと大げさに主張するかの如く、立ち止まった彼女の口から気だるげな声が返ってきます。


「相変わらずやる気満々ですね」

「満々ってわけじゃないけど、仕事だし、しっかりやらないと」

「ああ、そう。そのやる気というか義務感みたいなものがわたしに少しでもあればこんな身体の状態じゃなかったのかもしれないよ。神の悪戯か、悪魔の罠か、もしかしたら呪いの類かもしれない。下手したら死ぬよ、これ。モチベーションの低下がこんなにも身体に害をもたらすなんて」

「サクラも相変わらずだね」

「まあね」


 わたしたちは並んで歩きはじめました。朝陽を浴びてきらりと輝く金髪のポニーテールが印象的なサクラは、普段はぱっちりと開かれている二重の瞳を、今は半分ほどしか働かせていません。艶のある色っぽい唇も中途半端に開かれ、その価値を激減させていました。艶っぽいのはよだれのせいでは、と思わなくもありません。背筋を伸ばせばスラリとしたモデル級のスタイルの良さを堂々と自慢できるのに、その努力に興味がないと言わんばかりに背中は丸まり、両腕はゾンビのようにだらりと垂れ下っています。猫に小判、豚に真珠。少し使い方は違うかもしれませんが、今の彼女を見たわたしには、そんなことわざが頭の中に浮かび上がって来るのでした。


「……大丈夫?」

 わたしが訊くと、サクラは力なく首を振ります。

「無理。もう、アレだよ。生きることが苦行だと実感できるレベルだよ。つまり、死んだ方がマシ。てかてか、だいじょばないって言ったらあの人はわたしを家に帰してくれると思う?」

「あー、無理だろうね。望み薄」

「でしょ。だから行くしかないよ。所詮、わたしたちは社畜みたいなもんだからね。わたしたちは生徒のために命を削って働く風紀委員。仕事が入れば、眠いくらいで休ませてくれないよ。たとえ、ベッドから這い出ることすら難しいほど疲れていても、目蓋を開けることが恋人に別れを切り出されることよりも辛かったとしてもね。あー、帰りたい。暖かいベッドの中で永遠の眠りにつきたい」

「永遠って。死ぬつもり?」

「それもいいかもね。気持ちよく眠ったまま逝けるなら。ところでさあ、マナカは眠くないの?」


 風紀委員の仕事は学園の風紀を守ること。故に、その風紀が乱されるようなことが起これば、すぐさまそれを沈めなければなりません。

 今朝、シャワーを浴びようとしたわたしを妨げたケータイの着信。その内容は学園内でとある事件が起こったという連絡でした。当然、その連絡はわたしと同じ風紀委員であるサクラにも容赦なく来たのです。


「たまたま起きてたからね」わたしは言います。「突然、起こされたわけじゃないから、そんなに辛くはないかな。ノンレム睡眠時に強制的に覚醒を促されたわけじゃないし」

「なるほどね。そりゃ、ようございました」うわあ、と大きなあくびをしてからサクラが言います。「てかね、実はわたしも起きてたんだけどね。ノンレムどころかレムでもないわけ。自慢じゃないけど眠ってたわけじゃないのよ、これが」

「まあ、たしかに起きてたとしても、朝早くは誰だって眠いか。ナポレオンだってきっと朝は眠かったはず。テンションだって低かったかもしれないよ」

「いやいや、そうじゃなくってね」サクラは首を振ってから言います。「忘れちゃったのがいけないんだよ。忘れちゃったのが、ね。忘却失念ってやつ。ああ、忘れてしまうとは情けない」

「忘れた? 何を?」

「そんなの決まってるじゃん。寝るのを、だよ」

「え? 寝るのを忘れた?」

「そう。イベントがね、始まったんだよ。夜通しパーリータイムだよ。頭の中は常に覚醒状態。眠ろうとしてもアドレナリンが邪魔をするんだよ。『お前、眠っちゃっていいのか?』ってね」


 なるほど、とわたしは納得しました。隣を歩く金髪でスタイル抜群の見目麗しい少女は、休日に繁華街を歩けば何人もの男の人に声をかけられ、お洒落な街で信号待ちをしていれば読者モデルとしてスカウトされるような女の子なのですが、当の彼女は休日には家から一歩も出ることはせず、ずっと部屋の中にいるインドア派なのです。そのインドア派のサクラが家で何をやっているのかというと。


「ゲームを作った人は」サクラは言います。「人々に幸せを与えているかもしれないけど、それは同時に不幸を生み出していると言えなくもないね。うん、哲学的だ」

「ケータイゲームや、テレビでやる据え置き機、パソコンでやるオンラインゲームなんかにも手を出してると、睡眠時間が削られちゃうわけか。睡眠時間の減少。それはつまり、命の摩耗。自殺みたいなもんだね」

「もう鬼畜なんだよ……」サクラは嘆きます。「寝てたら素材なんて集まりきらないんだよーっ。もう、やめたいっ、とわたしは声高に叫んでみたい」

「じゃあ、やめればいいのに」

「うう……、それができたら苦労しないんだって。わかってないなぁ。たとえるなら、アレだよ。タバコだよ。タバコっていうのはね、飲んでる人の多くがやめたいと思ってて、『もうタバコやめたい』って言いながら生活してるんだけど、結局、気づいたらタバコを飲んでるんだよ。お金を払って病院で診てもらわなくちゃいけないくらいの人だっているわけだし。ああー、どうしてゲーム脳を診てくれる病院はないのっ」

 ゲーム脳って……と思いつつ、わたしは話を続けます。

「タバコを飲む? タバコは吸うものでしょ?」

 わたしの言葉を聞き、サクラはにやりと口元を緩めます。

「あれれ、知らないの? タバコってのはね、飲むとも表現するんだよ」

「嘘でしょ。わたしは創作物に出てくるおっちょこちょいなヒロインみたいに簡単に騙される女じゃないよ」

「ほんとだって。調べてみなよ」

 そんなわけ、と呟きつつわたしはケータイを取り出し、調べてみました。すると、

「あ、ほんとだ」

「でしょ。わたしは嘘つきだけど、嘘ばっかついてるわけじゃないんだから」

「なるほどね。嘘はたまにつくから真実味があるんだもんね」

「そゆこと。嘘は計画的にってね」

「で、タバコ吸ったことあるの? 風紀委員のくせに」

「ないよ。でも、なんとなく気持ちはわかるんだよ。依存症被害者の会、だよ。みんなで集まって、お互いの胸の内をさらけだすんだよ。わたしはゲーム中毒です。人生は終わらせられても、ゲームは終わらせられませんってね」ああー、とうなだれながらサクラは漏らします。「もう……、やめたい」

「やめたくてもやめられないんだよね。うん。さっき聞いた」

「いやいや、そうじゃなくて」

「ん?」

「今言った『やめたい』はね、ゲームじゃなくて委員会の方」

「ああ……」

 はあ、と大きくため息をついてからサクラは言います。

「お姉ちゃんが悪いんだよ。無理矢理、わたしを風紀委員に入れるから。シスハラだよ、シスハラ。委員会さえなければもう少し健康な生活を送れるのに。ちゃんと睡眠時間だって取れるだろうし」

「自由な時間が増えたら、ゲームの時間が増えるだけでしょ。てか、シスハラって。たしか、風紀委員に入らないと、お小遣いをくれないんだっけ?」

「そう。だからやるしかない。お小遣いがないと課金できないしっ。うう、まさに社畜だよー。会社を辞めたいけど、辞めたら課金できなくなるから辞められない社員の気持ちが痛いほどわかるのデスっ」


 両手で頭を抱えながら嘆くサクラ。このような彼女の姿を見るのはもはや日課となっているので、驚くどころかむしろ安心してしまうわたしがいます。ルーティンで気持ちを落ち着かせる行為と似ているのかもしれません、なんて思ったら本気でルーティンを取り入れているスポーツ選手に失礼かもしれませんが。


「ねえ、マナカ」大げさに嘆いて交感神経が刺激されたせいでしょうか。元気を取り戻してきたサクラがぱっちりと開いた瞳をわたしに向けてきます。「マナカもお姉ちゃんに誘われたんだよね? たしか、人間力を磨くため、だっけ」

「うん。本当は勉強を頑張りたいから委員会はやるつもりなかったんだけど、人と関わるのも勉強だってモミジさんに言われて、ね」

「まあ、こんなことを言うのはアレだけど」サクラが笑いながら言います。「人間力を磨くためって、意味わかんないよね。まったく共感できないし。シンパシーゼロ。ゼロシンパシーだよ」

「別に共感なんて求めてないし」わたしはさらりと言います。「それに共感したっていいことなんてないよ。この場合は」

「え? なにそれ」サクラが食いついてきました。「わたしに惚れると火傷するぜ、みたいな感じ?」

「火傷どころじゃないよ。心神喪失もんだよ。下手したら生きる屍だね」

 目の前で友人を失う気持ち。そんなものを、共感という想像とはいえ、味わいたい人がいるでしょうか。

「ちょっと、どいうこと? 教えてよ」

 わたしの二の腕を掴んで、すがってくるサクラにわたしははぐらかすように答えます。

「時が来たらね」

「ええー、今でしょ、話す時は。時は来たっ」

「来てないし」

「ううー、まあいいや」サクラはあっさりと引き下がります。もともとたいして興味がなかったのでしょう。わたしの二の腕から手を離し、話題を変えます。「で、どうなの? この一ヶ月ちょっとで人間力は磨けた?」

「わかんない。まだ、たいした仕事をしてないし」

「だよね。わたしたち一年は、結局、雑用係だもんね。お姉ちゃん、わたしが相手だったら遠慮しなくてもいいからわたしを風紀委員に入れたんだよ。雑用を押しつけるために。そうに決まってる。間違いないっ。訴えてやるっ」

「そうかなあ。わたしはちゃんと意味があると思うけどな。お姉さんがサクラを風紀委員に入れたのは」

「意味って? たとえば?」

「え?」

 実を言うと、意味がある、と言ったのは脳を通さずに口から勝手に出てきてしまった適当な言葉でした。まさかそこを深く突っ込まれるとは思わなかったわたしは慌てて言葉を見つけます。

「ええっと……、きっと仲間が欲しいんだよ。ほら、うちの学園っていろいろ複雑だし。風紀委員はそんな学園の猛者たちを相手にしなきゃいけないわけだし」

「まあ、たしかに」

「でしょ」

「でも、そういうのに巻き込まないで欲しいんだけどね。てか、普通は大切な妹を危険に巻き込みたくはないっていうのが、優しい姉のテンプレだと思うんだけど。わたしは傷ついてもいい。でも、妹だけは傷つけないで。みたいな」

「風紀委員会に入ったくらいじゃ傷つかないと思ってるんだよ。信頼の証じゃないかな。本当に危ない目に遭うと思ってるなら、巻き込んだりしないって。きっと」

「そっかなあ。あの人は自分の利益のためなら妹くらい平気で利用しそうだけど。人間の盾を平気で使タイプだよ。あの人は」


 こんな会話をしているうちに、わたしたちは朝陽城学園の正門までたどり着きました。高さ二メートルほどのレンガの塀に挟まれた鉄格子の門は既に開いています。門の目の前には芝生の広場が敷かれていて、その中央には高さ十メートル以上の長方形のオブジェが建てられていました。


 ――時の担い手。


 そんな名前が付けられている時計塔。我が朝陽城学園を語るうえで欠かせないランドマークのような存在として君臨しています。朝陽を浴びて縁が金色に輝く時計の針は午前六時頃を指していました。普段ならばこの時間に目を覚ましてテレビをつける時刻です。わたしはいつも見ている朝のテレビ番組でスポーツニュースを伝えている女子アナウンサーの顔を思い浮かべました。

「血まみれかあ……」

 ぽつりと漏らすサクラにわたしは言います。

「血、苦手なの?」

 わたしの問いに、サクラはニヤリと口元を緩め、舌で唇を妖艶に舐めてから口を開きました。

「大好物。毎日、飲みたいくらいだよ。健康にも良さそうだし」

 ふいに朝のテレビ番組でスポーツニュースを伝えてくれる女子アナウンサーの首元に、サクラががぶりと噛みついてその生き血を啜っている姿を想像してしまいました。美女同士が交わっているせいでしょうか、その姿は映画のワンシーンで使えそうなほど妖艶な雰囲気を醸し出しています。

「どしたの?」

 サクラの問いかけに、わたしの意識が空想から現実へと戻ってきます。

「いや、なんでもないよ。ちょっと血まみれの死体を想像しただけ。ああ、そう言えば」わたしは好奇心ゼロの気持ちがこもっていない声音で問います。「ケータイゲームのガチャなんだけど、単発と十連ってどっちがいいの?」



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