第2話 血まみれ、顔がない

 夕焼けの空が血の色に見える。


 その理由は、人生において絶対に体験したくはなかったような悲劇を想像してしまったからかもしれません。宙を舞う人間、子供に投げ捨てられた人形のように力のないその身体が十七階建地上七十メートルの高さから落下し、真夏の高温で熱せられたアスファルトの地面に激突してぐしゃり、肉片と鮮血が潰れたトマトみたいに辺り一面に飛び散っていく。そんな想像です。吐き気を通り越し、意識が混濁しそうな不快感から逃れるために空を見上げます。やけに濃い雲は早送りをしているみたいに足早に空を駆け抜けて行きます。この場から一刻も早く逃れたい。そんな意志を持っているかのようでした。


 この場所には二人の人間がいました。

 わたしと彼女。


 高さ二メートルを超えるフェンスの上にはカラスやハトが止まっていることはありません。コンクリートの床には餌を探す野良猫もいません。昆虫くらいならいたかもしれませんが、わたしの目にその姿が映ることはありませんでした。気温は三十度をゆうに超えているはずなのに、熱さというものを感じません。汗をかいているのかどうかすらわかりません。音があるはずなのに音はなく、匂いがあるはずなのに匂いも感じられず、身体が世界に存在しているという実感も上手く伝わってきません。わたしの感覚。その九割以上が眼に集中していました。


 お願い、やめて。


 そう自分に言い聞かせながら目蓋を閉じて首を振ったわたしに、強い風が吹きつけて来ました。身体にぶつかって来る風。それは巨大な悪魔が薙ぎ払う手の風圧のようでした。わたしがそう感じてしまったのは、おそらく恐怖で全身が覆いつくされていたからでしょう。膝が震え、確かに自分の足で立っているのにその感覚はなく、膝から下が麻痺し、天上から吊るされたロープで宙吊りにされているような違和感が、わたしの意識を恐怖へと突き落としていくのです。前に進もうと思っても進めませんし、後ろに下がろうと思っても下がりません。痛みを感じない事だけが唯一の救いのような気がしました。まるでわたしの意識だけがこの場所にあって、身体は別の人のもののように感じられたのです。


 喉の奥の方に何かが詰まっているような不快感が襲ってきます。具体的にそれが何なのか、何が身体の安寧を妨げているのか、わたしにはわかりませんでした。ただ苦しいのです。痛いのです。両手で強く首を絞められているみたいに呼吸は強制的に遮られ、声を出すことを禁じられているかのように舌は硬直してしまっています。どうやったらその苦しみや痛みから解放されるのか、どうすれば楽になれるのか、どのようなことを行えばすべてがなかったことにできるのか、何を償えば許されるのか。その答がわからず、思いつかず、事態を好転させる術を得られないまま、わたしは苦しみと痛みに耐えていることしかできないのでした。いや、もしかしたら、痛みに耐えていたのではなく、逃げ出す術を死に物狂いで探していたのかもしれません。わたしはこの場から、この空気から、この世界から、一刻も早く解放されたかったのです。


「ねえ、マナカ」彼女は言います。「仕方のないことなのかもしれないけどね、この世界は、わたしに優しくはなかったよ。痛みと、絶望と、残酷。それだけしかなかったよ」

「そんなことないよ。優しい人だって――」

「誰? 誰よ、それ?」

「え、えっと……」

「答えられるわけないよ。だって、存在しないんだから。世界の裏側まで行ったっているはずがないよ。いるとしたらたぶん、想像という世界の中にだけ。目蓋を閉じた時にだけ現れるんだよ。でも、想像の中に現れる人はわたしを助けてはくれないよ。ただ、仏像みたいににっこりと微笑んでるだけで手を差し伸ばしてもくれない」

「そ、そんなこと」

 わたしが口ごもると、彼女は苛立った様子で口を開きました。

「もういいよっ。綺麗ごとなんて聞きたくないっ。いなかったよっ。みんな、みんな優しくなかったよっ。意地悪で、汚くて……冷たかったよ」

「……っ」

「ごめんね、マナカ。別にマナカを責めたいわけじゃないの。でもね、わたしはもう嫌だよ。疲れたよ。電池が今にも切れそうな玩具みたいに、身体が重たいんだよ。無理に動かそうとすると、魂がすり減っていく感覚が襲ってくるの。どんどん、どんどん、自分が削り取られていく感じがするの。きっと、このまま時間が進んだら、わたしは空気に溶けちゃうくらい脆くなっちゃう」

「ま、待って」

「大丈夫。痛い思いをするかもしれないけど、それはマナカの身体が傷つくわけじゃないから。きっとすぐに忘れるよ。時間が解決してくれる」

「だ、ダメだよ」

「ばいばい」

「お、お願い」

「マナカは幸せになってね。それだけは本気で祈ってる」

「ま、待ってえぇええぇえぇぇぇぇぇえええええ――ッ!」


「――ッ」

 まるでしばらく呼吸を強制的に止められていたような感覚でした。激しい動悸と喉の渇き。それらを伴いながら目を覚ましたわたしが真っ先に確認したもの。それは目の前に映し出されているこの世界が本物かどうかということでした。はじめて見たものに恐る恐る指先を触れるように意識的にゆっくりと呼吸をしながら、眼球を動かし周囲を見回します。白い壁紙の天井には仕事をしていないLEDの照明が貼りつき、窓では緑色のカーテンが太陽の光を受けて薄く輝いていました。壁際にある本棚の一番上には昨日買ってきた推理小説が収められ、その横には高校の制服がハンガーにかけられています。その状況を確認し、わたしはわたしが見ている世界が本物であることを実感し、ようやく動悸が治まっていくのを感じることができました。ゆっくりと深呼吸をしたわたしはベッドから這い出て、冷蔵庫へと向かうことにします。動悸は治まりましたが、喉の渇きは依然として続いていたのです。


「痛――っ」

 フローリングの床に足をついたわたしに突如、激痛が襲い掛かってきます。相手はボールペンでした。

「もう、誰がこんなところに」

 犯人がわかりきっている問を口にし、床に落ちているボールペンを忌々しく睨んだわたしは、同じように床に落ちている赤いフレームの眼鏡を拾って装着し、気を取り直して歩を進めます。すると、

「ん」

 どこからかケータイの着信を知らせる音が聞こえてきました。音と言ってもアラームやメロディーではなく、虫の羽音のような振動音です。ケータイの音が生理的にあまり好きではないわたしは、授業中の教室や電車内のようにマナーを守らなければならない場所ではなくても常にマナーモードなのです。わたしは実験に使われるマウスのように振動音の発信元を探し求め、床に落ちていた参考書の下にあったケータイを手に取りました。ディスプレイに表示されている相手の名前を見て、少し面倒だと思いながらも通話ボタンを押します。


『ああ、マナカ。わたしよ、わたし。あなたにとって世界で最も偉大な人物と言ったら大げさだけど、二番目くらいに尊敬できる人物っていう表現なら間違いではない女性よ』

 朝からテンションの高い女性の声が聞こえてきます。わたしは面倒だという気持ちを隠さずに口を開きました。

「どしたの? こんな時間に」

『いや、ちょっと訊きたいことがあってね。まあ、たいしたことじゃないんだけどね。ケータイに話しかければ解決できる類の問題なんだけど、どうせケータイに向かって話しかけるなら相手はアプリじゃなくてかわいい愛娘の方がいいなかって』

「ああ、そう。で、なに?」

『これからガチャを引こうかと思ってるんだけど、十連と単発だとどっちがいいと思う?』

 一瞬、母が何を言っているのかわからなくて固まってしまいます。思考を巡らせ、推測した答えを口にしました。

「もしかしてガチャって、ケータイゲームの?」

『そうそう。ザッツライト』

「何千、何万ってお金をつぎ込まないと慢心できないと言われている、あのケータイゲームのガチャ?」

『イエス』

 もうすぐ四十歳を迎える母は、最近になってケータイゲームにはまり出したのでした。子育てがひと段落したせいかもしれません。巷で囁かれているように無駄な課金をしていなければいいと思うのですが。

「知らないよ、そんなの。ゲームやんないし」

『わかってるわよ、そんなことは。あんたゲーム好きの友達ができたって言ってたじゃない。その子に訊いてよ』

「えー」

『文句言わないの。親孝行は親が生きているうちにしかできないんだからね。明日が来ると盲目的に信じるのは若者が抱く幻想よ』

「ああ、もう。わかったよ。訊いたら電話かメールするよ。じゃあね」

 わたしはそそくさと通話を切ろうとします。しかし、そんなわたしを慌てた母の声が遮りました。

『ちょ、ちょっと待ってよ』

「なに?」

『なに、じゃないわよ』まったく、とため息をついてから母は続けます。『一緒に暮らしていない母がこうやって電話をかけてるのに、すぐに切ろうとするなんて想像力のない子供だね。ちょとくらいは近況を聞かせてくれてもいいじゃない。高校生の娘を一人暮らしさせている親の気持ちを考えたら無下に扱うことなんてできないはずでしょ』

「すみませんね。想像力がなくって。でも、遺伝だから仕方がないよ」

『ああ、死んだお父さんのね。良い人だったけど、頭が悪くて顔も悪い』

「いやいや、死んでないし」

『後半部分は否定しないのね。酷い娘』

「遺伝だから仕方がないよ」


 面倒くさい気持ちを抱えたままわたしは冷蔵庫へと歩きはじめます。わたしが住んでいる寮の間取りは八畳の1K。故に、目的地までは徒歩数秒で辿り着きます。


「で、なにを話せばいいの? 大御所が司会を務めるテレビ番組に出る若手芸人みたいに、話を振られたときの準備なんてしてないけど」

『なんでもいいわよ。昨日食べた夕ご飯が美味しかったとか、今朝の朝食がまずかったとか、おやつのお菓子に感動したとか』

「食べ物ばっかじゃん。まるで人を食いしん坊みたいに扱って」

『じゃあ他に何があるっていうのよ。天気の話しでもしろっていうの? そんなもの窓の外を見ればわかるでしょ。それに、どうせ部屋の片づけをしたなんていう話は聞けないんでしょうし』

「そんなことないよ。失礼な。そうそう。昨日は部屋の掃除をしたの。今、すごい綺麗だから。びっくりするよ。モデルルームとしてみせてもいいくらい。一人暮らしをはじめてからなぜかお掃除が趣味になったんだよね。一国一城の主という自覚が芽生えたからかもしれないよ。かわいい子には旅をさせよっていう言葉は的を射てるね」

『はいはい。どうせ嘘なんでしょ。あんたが片づけなんてするわけがないんだから。千里眼のないわたしにだってわかるわよ』

「そ、そんなことないって。わたしだって成長してるんだから。環境が人を変えるってことを実感してる最中だし。てか、千里眼ってゲームのやりすぎだよ」


 冷蔵庫を開けたわたしにひんやりとした空気が漂ってきます。ほぼ買ったままの状態を保っているその冷蔵庫の中から二リットルのペットボトルを取り出し、シンクの上部分に備え付けられている棚から取り出したマグカップに水を注ぎこんで、一気に飲み干しました。口に入った水が喉と食道を通り胃袋へと落ちて行く冷たい感触に心地よさを味わいます。


『で、どうなの? 日本屈指のエリート校である朝陽城学園の生活には慣れた? 片目を閉じても学園内を歩ける感じ?』

「まあね。少なくともすぐに学園を辞めて涙ながらに実家に帰ることはなさそうだよ。勉強もまあ、ちゃんとついていけてるし」

『まさか、平凡だったあんたが朝陽城学園をトップの成績でパスするなんてね。今でも信じられないわよ。遺伝かしら』

「死んだお父さんのね」わたしは笑ってから続けます。「まあ、自分で自分をほめてあげたいって言葉の使用資格を得られるくらいには頑張ったからね。文字通り死ぬほど勉強したし。自慢していいよ。近所のおばちゃんたちに」

『あんたバカなの。やっぱり想像力がないわね。そんなことしないわよ。子供を自殺に追い込んだ母親だと思われても仕方がないレベルであんたは勉強してたんだから。ある意味、虐待。万が一、あんたが倒れて病院にでも運ばれたら、わたしは警察に捕まっているわよ。てか、今でもあんな勉強を続けてるわけ?』

「いやいや。さすがに今は受験の時ほどはしてないよ。委員会の仕事だってあるし」

『あのときのあんたはほんと頭がおかしかったからね。悪魔に取りつかれたみたいに勉強してたから。仏壇に向かって仏になったお父さんにお祓いをしたほうがいいんじゃないかって相談したくらいよ。睡眠とトイレ以外の時間は常に何か勉強をしてたじゃない。ご飯を食べながら英単語を覚えてたし。おかずと間違えて単語カードを口に入れたことだってあるのよ』

「さすがに単語カードを口には入れないでしょ」

『あんたが覚えてないだけよ。基本的にはポンコツなんだから』

「ポンコツって……まあ、それは否定できないけど。あの頃は、ご飯を食べた記憶すらあいまいだったし。てか、お父さん死んでないし。一応、つっこんでおくけどね」

『あんたのじゃないわ。わたしのお父さんよ』

「ああ、なるほどね。たしかにおじいちゃんはわたしが幼い頃に召されました」わたしは軽く息を吐きます。「まあ、あのときはそういう気分だったんだよ。さっきも言ったけど、今はそこまで勉強にのめりこんでないから。悪魔は出てったみたい」

『そう。だったらいいけど。で、友達とは上手くやれてるの?』

「まあね。委員会もその子と一緒にやってるし、問題ないよ。心配しないで」

『心配なんてしてないわよ。ちょっと気になっただけで。電車の中刷り広告をチラリと見るようなものよ』

「そっか。ありがと」

『どうしてお礼を言うのよ?』

「まあ、なんとなくね」


 わたしと母との間に沈黙が訪れます。気まずいと言うわけではないのですが、お互いにお互いの腹の中を探っているという感覚がありました。そんな沈黙を破ったのは母の一言でした。


『ああ——っ。来たっ』

「来た?」

『レアキャラが来たのよっ。今、ガチャを引いたらっ」

「ああ、そう……」

『早く育てたいから電話切るわね。じゃあ、身体に気を付けて生活するのよ。また電話するわね』

「はい。ばいばい」

『あんたも電話しなさいよ』

「わかったって」

『それじゃあね』


 相手の都合で一方的に切られた電話。急に静かになったその手のひらサイズの機械の姿に何とも言えない虚しさを覚えます。まだ一人暮らしをはじめて一ヶ月と少しだというに、もしかしたら少しホームシックにかかっているのかもしれません。


「いやいや、それはないよね……って、なんか独り言が増えたような気がするのは気のせいでしょうか、いや、そんなはずはない」


 そう呟きつつ、わたしはケータイを片手に台所からリビングへと戻ります。ケータイを適当に床に置くと、あくびが出ました。


「うー……、どないしよう」


 微かにだるさを感じる身体にわずらわしさを覚えながら床に転がっているデジタル時計に目を向けると、まだ学校へ向うにはかなり早い時間でした。二時間くらいは二度寝ができそうです。どうしようか、と少し考えたわたしは、二度寝をすることをやめ、いつもよりゆっくりとシャワーを浴びることを選択し、お風呂場へと向かいました。心地の良い夢を見ることができなかったせいで大量にかいてしまった汗をすっきりと洗い流し、空いた時間は読書にでもあてようかと思ったのです。


 脱衣所に向かい、汗ばんだパジャマを洗濯機に放り込んだわたしは、洗面台の大きな鏡に映る自分の姿を見ます。一糸まとわぬ自分の姿を見てほれぼれとしていた、というわけではありません。むしろ、逆です。


「うう……今という時間が夢であって欲しいと願わずにはいられない」


 少し太ってしまったかな、と落胆と焦りを抱えながらお腹をつまみます。案の定、いつもよりも増量された肉の感触が指に伝わってきました。先月、高校に入学して以来、お昼ご飯は学食を利用しているのですが、そこで出てくるご飯がとても美味しいので、たくさん食べてしまうのです。今後は、自制を働かせなければならないようです。欲望に支配されてはいけません。欲望を支配しなければならないのです。


「どうして、お腹にばっかり……」


 もう少し違う部分に分配されてもいいのに。たとえば胸とか胸とか。ため息をつきつつ、浴室の扉を開けたときでした。ケータイの振動音が、わたしのシャワータイムを遮ったのです。こんな朝早く誰だろう。まさか、またお母さんだったりして。全裸のまま床に落ちていたケータイを手に取ります。クリスタル製のイルカのストラップが揺れるのを見て、わたしの心が少しざわつきました。いや、心がざわついたのはストラップを見たからではなく、ディスプレイの表示を目に入れたからかもしれませんが。通話ボタンを押します。相手の話を聞いたわたしは驚愕の声を上げてしまいました。


「ええっ。血まみれっ。顔がないっ」

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