第4話 美人妻の秘密

「修治くん、お客さんかい」

 先生が後ろからやってくる。文士は慌てて起き上がり、小さくなって会釈した。西洋化は嫌いでも、目上の人に対する礼節は持っているらしい。


 しかしぼくに視線を戻すと、もとのようにふんぞり返った。

「橋本を見たぞ」

 無駄に大きな声で言った。橋本、とは近頃よく聞く名だ。しかも、ずっとどこかで引っかかっていた。

「まさか、橋本子爵の御曹司か」

 新橋で会った、すっきりとした風体の青年。

「そうだ。橋本征斉 まさなりだ。洋行する前は俺と同じ大学で、理財を学んでいた。子爵家の御曹司で有名人だ。折り目正しく、奢り高く、矜持も強く、いつも火斗アイロンのあたったシャツと洋袴ズボンを穿いている」

 最後のほうは僻みにしか聞こえなかった。


「あいつを築地で見た。思い出したんだが、前に女学生がいなくなったとお前たちが大騒ぎしてやってきた前の日も、夕刻にあいつの姿を築地で見た気がする。築地の、元外国人居留地のあたりに、倉庫があるだろう。橋本の倉庫もあったはずだ」

 ……築地か。

 築地はその名の通り、海を埋め立てて造られた土地だ。開国の時、東京に外国人居留地を作る必要があって、ここに造った。

 外国人を閉じ込めておくための場所であるとか言われているが、今年治外法権が撤廃されて、彼らは自由に行き来できるようになった。それを嫌ってまた国内の攘夷派が大騒ぎしているらしい。


 外国人居留地があった関係で、築地には、天主堂だとか、外国語学校だとかが多くある。

 しかし開港地ではないし、近くの横浜が栄えているから、築地はさほど発展しなかったと聞いたことがある。家の倉庫があるのなら別に御曹司がうろついても問題はない気はするが。気にかかるのは確かだ。

「千歌絵さんは基督学校だとお嬢さんが言っていた。もし千歌絵さんの学校が築地なのだとしたら、なんとなくつながる気がする」

 橋で会った小鬼も、海、と言っていた。犬神も、確かに海の方へ向かっていた。ぼくをひっかけたのでなければ。


 先生を振り返ると、先生は文士を見て、茫然として立ちつくしていた。

「……ぼくか」

 思わずのように言葉がこぼれおちる。

「ぼくへの恨みが、まさか環蒔さんへ行くなんて」

「先生?」

 そのまま倒れてしまいそうなくらい、先生は蒼白になっていた。夜目にも分かるくらい。

「征斉さんは英吉利へ留学されたと聞いたけれど、戻ってこられたのか」

「休暇中だと。お知合いですか?」

 ぼくの問いに、先生は苦い表情で首を横に振る。

「とにかく、君も中に入って。中で話そう」

 文士は釈然としないような、面倒くさそうな顔をしたが、ぼくらの様子に何か感じるところがあったのだろう。



「小娘はどうした?」

 椅子に腰を落ち着け、先生からもらった麦茶を一気に飲み干して、文士は開口一番に言った。

「攫われました」

 文士は驚いた顔をして、先生に洋盃コップを返しながら、フンと鼻を鳴らした。

「夜歩きばかりしているからだ」

 それは文士の言う通りだが、皆が夜歩きをする川開きの今日ばかりは、お嬢さんがかわいそうな気もする。家のみなさんと一緒に行動しなかったのは迂闊だったかもしれないが。


 先生は文士から受け取った洋盃コップを、机に置いた。先生はどっと疲れた様子で、いつもの椅子に座る。橙の明かりに顔を照らし出されているが、眼鏡に光があたって、先生の表情はよく見えない。

「ぼくの妻の馨子が、もともとぼくの患者だったことは、修治くんは知っているね」

「……はい」

 急に話し始めた先生に少し戸惑う。でも、先生が言おうとしていることは、分かっている気もした。

「馨子は、高辻の父の紹介だった。義父は別の方から医者を紹介してほしいと言われて、ぼくを推したんだ。その方が、橋本子爵だ」

 押しが弱く、優しく人の好い先生だが、奥さんは略奪愛だと聞いた。

「馨子は橋本子爵の縁だったけれど、色々あってぼくらは結婚することになった。お義父さんにはたくさん迷惑をかけてしまったが、また、ここでこんなことになるなんて」

 縁、とは歪曲な言い方だけれど、つまりは橋本子爵の妾だったということだ。

「橋本子爵のご子息も、馨子のことを好いていらしてね。彼女のために医学の勉学もなさろうとしていた。けれど、橋本様の奥方がさすがにそれは許せないとお怒りになって、外国へ留学されることになったんだ」


 先生は眼鏡をはずして、両手で顔を覆い、ため息をついた。

 ぼくは高辻男爵に大きな恩義を感じているけれど、先生はきっとそれ以上だろう。

 世間から見れば、先生は男爵の養子に入って、家の都合で離縁されたかわいそうな人だけれど、男爵夫妻も先生もそんなこと気にしていないし、お嬢さんがたびたび言っているように、おふたりとも先生をとても大切にされている。


「橋本様は、何のお仕事をされているんですか。貿易とは聞きましたが」

 そう、と先生はつぶやく。複雑な表情で語った。

「国の物を外へ出して、外から有益なものを持ってくる。お義父さんは海運をやっているから、橋本子爵とは関わりが深いんだ」

 先生の言葉が終わるよりも早く、文士が食ってかかった。

「貿易だなどと、綺麗事だ。橋本家は、廃仏毀釈で排出された神仏を、日本に興味のある諸外国に売りつけ、代わりに諸外国から西洋家具を仕入れる仕事をしていると聞いた。国の文化を切り売りし、西洋のもので日本を浸食しようとする者の先鋒を担っているわけだ」

「そう切り捨てるものじゃない。日本が海外と対等であるためには、海外のものを取り入れる必要もあるんだよ。もともと持っていたものをこんなに簡単に捨てて行くのはどうかとも思うけれど」

 国が開いてから三十余年、あまりにも多くの物や考え方が怒涛のように押し寄せ、人々の考え方や文化をかき乱している。

 小さな島の国の中で、渦潮に巻き込まれたかのように誰もがぐるぐるとまわりながら、捨てられないものを抱え込んで、ぶつかりあっているようなものだ。

 文士がまた鼻を鳴らした。

「売国奴が!」

 この国粋主義の文士が、橋本子爵を嫌うのも、なんとなく分かる。

 とはいえ、ぼくは西洋から入ってくるものを否定はしない。そもそも外国の言葉を学びはじめたのは、この小さな国にうんざりしていたからだ。


 古いものは常に、狐や子鬼たちのようにぼくの近くにあった。人がぼくを卑しい目で見るその心情も、古くて疎ましいものだった。外国への思いを強くしたし、いつか捨ててやると思っていた。

 だけど、国文化を忘れたくない人たちのことも分かる。古いものは偏屈で曲がらず疎ましく、でも同時に、幼いころから馴染んだ親しいものであった。そう言ったものがないまぜになって、ぼくはいつも狐たちが嫌いだし、同時に切り捨てられないものでもあった。

 そういったものを、簡単に切り売りしていいとはあまり思えない。ぼくらの国はここで、ここがあるから、外に行けるのだ。


 ぼくは肩の上でふさふさの尻尾を揺らしている狐を見た。

「お前、犬神はどこへ向かったか見たんだろう」

「東京には疎いから、どことは言うてやれんがな。赤い煉瓦の倉庫やらとんがり屋根が並んで、赤毛の髭やらがうろついておるあたりだ」

 狐は得意げに言う。

 ――築地だ。




 ぼくは再び外を走る羽目になった。

 橋本家の倉庫のあたりを文士に案内してもらうことになったが、自転車は一台しかない。狐が運んでやろうかとニタニタ笑っていたが、文士が嫌がった。

 時折、花火の音が響く。明かりが空に上がり、ちらちらと照らし出されるが、見ている余裕などない。

 人混みを避けながら、日本橋の瓦斯灯の下を渡り、洋風の海運橋を渡る。楓川の河岸の柳が、幽霊のように揺れて、川面からひやりとした空気が流れてくる。

 いつもならばこの川べりには、飴売りやら氷売りがいるはずなのだが、夜だからか、川開きへ出稼ぎに出たのか、人の姿もあまりない。石畳の川べりに河童が座っているだけだった。


 ようやく花街の新富町にたどり着いた頃、ぼくは息が上がってまともに立っていられなかった。

 ここは夜の町だからか、煌々と瓦斯灯が照って、人の通りも多い。灯りの中をよれよれと走るぼくと、ふんぞりかえって走る文士を、細長い幟の下を行きかう芝居小屋の人や花柳界の女たちが不思議そうに見ている。


 へろへろのぼくに気づき、文士が立ち止まった。

大和男児やまとおのこがこれしきのことでなんとする」

 文士は顎を上げて、完全に見下した風で言った。さすが点灯夫として走り回っているだけあって、息が乱れた様子もない。

 近頃の文士というのは、肉体をも鍛えなければならないものなのか。

「いいんだ、ぼくは頭と口がたつんだから」

 膝に手をついて、喉をぜえぜえ鳴らしながら言い返すぼくに、文士は唾を吐くような仕草をして言った。

「天狗め」

「高慢ちきに言われたくない」

 文士はケッと吐き捨てる。そして容赦なく再び駆けだした。ぼくはつんのめりそうになりながら後に続く。


 新島原の遊郭があったという新富座のあたりは和装の人ばかりだったが、進むにつれて、街並みが変わってくる。

 西洋菓子や麺麭パンの店の前を駆け抜けると、潮の香りが徐々に強くなってくる。天主堂のとがった屋根が遠くに見えた。

 赤煉瓦の異国風の建物が並ぶ様は、故郷を思い出させた。ここは開港地ではないし、横浜に人気が偏ってしまっている分、長崎の方がホテルや商館で賑わっている気がするが、国にいながら外国に出てきたような違和感は同じだ。

 違和感と同時に、好奇心をくすぐられる感じ。

「あの二つ目の倉庫だ。……人がいるな」

 赤煉瓦の倉庫の一つに背をつけて、文士が言った。

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