第3話 お嬢さんの心意

 乗り捨ててきた自転車は、そのまま転がっていた。盗まれなくてよかった。

 それを狐が咥えて回収してから、診療所に戻る。診療所の前につくと、狐は自転車を放り出し、ぼくを放り出した。

 ぼくは下駄でたたらを踏みながら、なんとか着地する。自転車はがしゃんと大きな音で診療所の前に落っこちた。


「自転車が壊れたらどうしてくれるんだ」

「知ったことか」

 狐はくるりと回って小さくなると、ぼくの肩に乗る。にやにや笑っている。

 ぼくはため息交じりに、自転車を診療所の入り口横に立てかけた。


 すっかり日は暮れてしまい、時折遠くで花火の明かりが見える他は、診療所の入り口は真っ暗だった。吹き飛ばされた扉は中に立てかけられて、飛び散った硝子の破片は隅に寄せられている。

 診察室に入ると、先生の机の上には西洋電燈ランプがともされて、ちいさく部屋を照らしていた。先生はそのオレンヂの明かりの前、椅子に腰かけて、難しい顔をしている。


 そしてぼくの肩の上の白い狐を見て、目を見開いた。

 狐め、姿を消さなかったのか。

「ぼくは狐憑きなんです」

 つい先日もこんな台詞を言った気がする。


 さすがに先生は教養のある大人だから、大騒ぎしたりぼくを詰ったりしない。ただ驚いた顔で狐を見ている。そしてため息をついた。

「環蒔さんが、人を貶めるようなことを言うはずがなかった。ぼくはあの子をもっとちゃんと信じるべきだった」

「あたらしき女ですからね」

 ただ、いつもおかしな噂を聞きつけてきたり、なんでもないものをおもしろがったりするようなお嬢さんだ。先生がお嬢さんの言うことを真に受けなかったからと言って責められることでもない。ましてや、狐憑きだなどと。


 先生は苦笑した。

「とにかくまずは座って、手を見せなさい。硝子の破片で手を切ったろう」

 言われてぼくは、右の掌を大きな赤い線が走っているのに気がついた。突風で倒れこんだ時だろうか。

 血がどくどくと流れているのも気づかなかった。長着や着物にも血の滲みがついてしまっていた。

「馨子さんは、大事ないですか」

「驚いただけだと思う。寝かしつけてきたから、気にしなくていいよ」

「先生、冷静ですね」

 先生の前に座りながら言うと、いや、と先生は苦笑する。

「何が起こったのか分からなくて、正直とても戸惑ってるんだよ。警察に連絡すべきかどうか、迷っていたんだ。でも患者さんが前にいるときは、慌てるわけにいかないからね。それに君は何か知っているようだし」

 先生は鑷子ピンセットで、消毒液をしみ込ませた綿をつまんで、傷口をなでた。正直ひどく滲みたが、そんなことを言っている場合でもないので、じっと我慢した。


「ぼくがもともと、子供に恵まれなかった男爵家の養子だったのは知っているね。数年後に環蒔さんが生まれて、微妙な立場になった。だけど女の子は爵位を継げないから、とりあえずぼくは留め置かれたんだ。一時期はお身内から、ぼくを離縁してから、環蒔さんと結婚させてはどうかという声もあったらしい」

 つぶやくように話す先生の笑みは、少し愉快そうなものに変わる。

「環蒔さんは、他の者の言うことは気にしない、あたらしき女なのだから、とちいさな頃から言っていたよ。ぼくを守ろうとしてくれたんだろう」

 だけど結局、男爵家に男児が誕生して、先生は離縁されることになった。お嬢さんと結婚させるという話も立ち消えて、本当に用済みになったのだろう。

 でも旦那様は、先生を書生として家にとめおいて、我が子同然に育て、勉学の援助をした。

「環蒔さんは幼い頃から、そういう微妙な空気を感じ取っていたんだと思う。ぼくのことを気にかけて、面白いものを聞きつけては、一緒に行こうと騒いで連れ出されたよ。人魚の木乃伊ミイラの見世物があるとか、浅草の十二階を見に行こうとか。ぼくは環蒔さんを膝にのせて俥に乗って、あちらこちらに出かけたものだよ。近頃の君みたいにね。――ぼくは、義父にも環蒔さんにも、本当に感謝している」

 子供の頃のお嬢さんが、簡単に想像できる。今とまったく変わらず、強引で、活発で、もっと遠慮がなかっただろう。

 今は先生はお屋敷を出て、あちこちに連れ出されるのは、ぼくに代替わりした。


「ぼくはてっきり、お嬢さんの好奇心のお供をさせられているものだとばかり思っていましたが」

「せっかく東京に出てきたのに、君が家にこもってばかりいるのを心配しているんだろう」

「ぼくは、こもりたくてお屋敷にこもっているんですが……」

 勉学をするために東京に出てきたのだから。外に出て狐が悪戯をしたり妖怪にからまれたりするのも面倒だ。

 ぼくのことは気にしないでもらいたいけど、お嬢さんからすれば、引きこもって元気が無いように思えるのかもしれない。

 人の様子がおかしいのを気にしたり、変なものを見つけたりして首を突っ込むのは、昔からのお嬢さんの性分らしい。

 他人を放っておけず、おせっかいで優しい旦那様の娘らしい人だ。そういう家風でなければ、先生もぼくもここにいるかわからない。

「昔から危なっかしいところはあったけれど、環蒔さんがさらわれるなんて、起きていることの実感がないんだ」

 静かに言う先生に、ぼくは何から話すべきか迷った。先生はぼくなんかよりよほどお嬢さんが心配でたまらないはずだった。けれど先生は、平静を装って手当をしてくれる。

 ぼくは先生の手際を見ながら、先日からのいきさつをかいつまんで先生に話した。先生はただ相槌を打ちながら、傷口に綿紗ガーゼを当てて、ぐるぐると包帯を撒いてくれた。


「妖怪の話は、にわかには信じがたいけれど……。変なものがうちを壊して、環蒔さんを攫って行ったばかりだし、狐もいるしなあ」

 ぎゅっと包帯を縛って、先生は顔を上げた。狐を見てから、苦笑しながら椅子の背もたれに体を預ける。

「女学生が行方不明になっているなんて話も知らなかった。いろいろと状況の変わるご時世だから、もっと気にしておかないといけないね」

「犬神持ちが、自分で企てて女学生を攫っていると思えないんです。先日、犬は女学生をどこかへ連れて行って、少年を守るために手ぶらで戻ってきた。西の方のお国言葉でしたし、東京の人間ではないはずなのに、今日この日を狙うなんて周到です。犬神筋は妖術のようなものだそうですし、誰かに命じられているような気がします」


 いったい、誰の仕業なのか。誰が何の目的で女学生を攫っているのか。

 先生は顎に手をあて、宙を睨むようにして言った。


「考えられることは色々あるね。まず環蒔さんの前にも、女学生が行方知れずになっていること」

「新進を嫌う一派だと思いますか」

 先頃の文士崩れや学生たちの顔が浮かぶ。

 あの変に真っすぐで臆病な男だけが、新進を嫌っているのではない。

 急激な西洋化を嫌う一派にしても、さまざまな権利主張をする一派にしても、過激派の活動は、思い出したように新聞を騒がせる。襲撃事件だったり、逆に集会場への警察の弾圧だったり、あたらしき女である女学生などは、批判の対象になることもある。

 あの文士がわめていたように。海老茶式部という呼び名は、憧れであり、同時に「軽薄な知」を振りかざすとして、蔑称でもあった。

「分からないよ。海外に売り飛ばす気だとも考えられる。人身売買は幾度法律で禁じられても、なくなってはいないようだから。貧しい女性が売られていくのとは別に、環蒔さんのように躾けられて教育を受けている子は、労働力とは別の高値がつくのかもしれない」

 先生は悔しそうに言うが、考えられないことではない。故郷の港で働いていた時に、そういった話は聞いたことがある。


「もしくは、最初からお嬢さんを狙っていて、さらわれた女学生は間違えられただけということもあり得ます」

「そうだね。たとえそうだとしても、環蒔さん自身が恨まれた末というのは考えにくい。それでここまでするかどうか」

 お嬢さんは考えなしで鉄砲玉だから、人様に迷惑をかけたり苛立たせたりすることは多々あるが、間違いを間違いのままにはしておかないし、非があると気付けば何よりも前に謝罪をする。

 何より、お嬢さんはとても真っすぐで、忌々しいくらいに眩しい人ではあるので、恨みとかそういうものと結びつくのが想像できない。――妬まれることは、あるかもしれない。


「もし怨恨ならば、お義父さんへの恨み、もしくは商売敵へのいやがらせとか。貧富の差はどんどん大きくなるし、富裕層への羨望や妬みは、誰が持っても不思議じゃない。士族だとか華族だとか言ったところで、身分だけあって実際は貧困にあえいでいる人も多いし」

 そういう先生自身、貧しい武家の生まれだと聞いている。遠縁である男爵へ養子に出されたのは、ていのいい口減らしでもあっただろう。

 新しい世になって、士族や華族が俸禄をもらえなくなった。だからと商売をしてみても、彼らはそういったことに慣れていない。旦那様のように、商売を広げていける人など一握りだ。


 思ったところに、下駄の音が外から聞こえてきた。せわしなく駆ける音は、しんとした診察所にやたらと響いてくる。

 しかも、うお、と驚いた声がした。

「おい、刈谷診療所というのはここか」

 暗い廊下に向かってわめく声がして、ぼくは慌てて立ち上がった。


 診療所の入り口で出迎えると、文士は宵の空を背にふんぞり返っていた。そしてぼくを見ると、いきなりひっくり返った。

「なんだそれは。なんで光ってる」

 光ってはいないのだが、白い狐は、確かに夕闇に浮かんで見える。そう言えば、文士はまだ狐を見たことがないのだった。

「臆病者め」

 狐はいつもの底意地の悪い声で笑った。文士が悲鳴を上げる。

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