第2話 白い彗星にあがる花火

「ええと、わたしたち、もう戻ろうかしら」

 お嬢さんは、少しもじもじしながらぼくに言った。文士のことを聞きに来たはずだが、先生は何も言わないし、文士はやはり姿を見せていないのだろう。


 先生は驚いた顔でお嬢さんに振り返る。

「もう戻るんですか? 何か冷たいものを飲んで行かれては。外は暑いでしょう」

「あまり遅くなると混雑して舟に乗れなくなるわ」

 ねえ、溝口さん、とお嬢さんがぼくを見た時だった。


 突然、診療所の扉が内側に倒れ、硝子が大きな音をたてて割れた。疾風が診療所を襲う。髪も袖ももみくちゃにされ、ぼくもお嬢さんもなぎ倒された。

 黒いものが暴風のように入ってきて、ぬるりとした動きお嬢さんに巻き付く。ちらりと、鼬のような顔と、どす黒い目が見えた。

 ぼくが一番入口近くにいたのに、禍々しい気は、はっきりとお嬢さんを選んでいた。


「環蒔さん!」

 先生が叫ぶ。お嬢さんは驚いた顔をぼくらの目に焼き付けて、黒いものに吸いだされるように、ぽっかり開いた入口の向こうに消えていった。


「アカトキ!」

 ぼくの顔の横に毛玉が現れる。ぼくの肩を蹴るや否や、細い針のようになって夕闇の中に飛び出して行った。


 後ろで、どさりという音がする。

 振り返ると、先生の奥さんがうずくまるようにして座り込んでいた。腕は投げ出されるようにして力がない。

「馨子!」

 慌てて先生が駆け寄る。

 しまった。気持ちの動き一つ体に響く奥さんには、毒だったに違いない。だけど今そちらを気にしている余裕はない。ぼくは狐を追って駆けだそうとしたが、後ろから先生が声を上げた。

「修治君、今のは一体」

 追いすがるような声に、ぼくは足を止める。下駄で踏みつぶした硝子の破片が、ヂリと音を立てる。

「先生、説明は後で」

 呆然とぼくを見ていた先生は、すぐに厳しい顔になった。

「自転車が診療所の脇にあるから、使いなさい」

「ありがとうございます!」

 ぼくは叫ぶように言って、四角く開いた診療所の入口を飛び出す。診療所の脇に置かれていた自転車に飛び乗った。たぶん先生が往診に使うためのものだろう。


 路地の奥からゴロゴロと物が転がる音が聞こえる。見遣ると、大きな車輪と明かりが見えた。あの明かりは、西洋灯ランプでも蝋燭でもない。

 狐が離れた途端、また妖怪だ。

 ぼくはげんなりしながら、自転車を漕ぎだした。燃えながら追いかけてくる車輪から、ガハガハと笑い声が聞こえる。車輪にはつるりと頭をそり上げた大きな顔がついていた。

「妙な臭いのする鉄じゃと思ったが、お前の物か、狐憑き」

「ぼくが臭いみたいな言い方をするのはやめろ」

 転がってくる輪入道に言い捨て、とにかく先を急ぐ。



 夕闇の中、狐の白い姿が彗星のように空を走っていた。

 ぼくはひたすら強い妖気を追いかけてペダルを漕ぐ。宙を翔ける狐はまっすぐ飛べるが、ぼくは道沿いに走らなければならない。見失わないように上を気にしているせいで、幾度となく人にぶつかりかけた。

 花火見物や、露店目当ての人たちが、どんどん橋へ向かっている。罵声を浴びせられながら、なんとか進み続ける。

 しかし流れ星はすいすいと宙を飛んで南へ下り、海の方へ向かっている。しかも一番人の多い、両国橋の方向だ。舌打ちが漏れる。

 両国橋でなくたって、川開きの今日この時刻、橋を渡るのは簡単なことではない。


 宙を翔ける犬神にしてみれば、この人出は追手を足止めするのに都合がいい。狙っているとしか思えない。だが、犬神持ちの少年の言葉には訛りがあった。川開きを利用しようなんて、彼の発想ではないだろう。誰の入れ知恵か変わらないが、小狡い。


 進むにつれて人出が増え、とうとうまっすぐ進めなくなった。自転車がかえって邪魔になって、ぼくは路地裏に乗り捨てた。

 人をかき分けるようにして走る。下駄の音が雑踏に吸い込まれていく。汗が噴き出して、あっというまに呼吸が乱れた。ぜえぜえと喉が鳴る。胸が痛い。

 もともと体を動かすのは不得手だが、東京に出てきてから乗合馬車やら鉄道に頼りすぎたか、やはり運動が足らないようだ。

 襟首のあたりから、体中の熱があふれてくるようで、着物の下に着ていた立て襟スタンドカラー襯衣シャツのボタンをはずした。

 前髪や襟首のあたり、髪を伝って汗がしたたってくる。もう狐の白い姿は見えなくなってしまった。少し離されたくらいなら気配を追うことができるが、人が多すぎて気が散る。

 ぼくはすっかり人の波に吸い込まれてしまっていた。

 警備の巡査が交通整備をしているが、人がひしめいていて、かきわけて走れるような状況ではない。

 もはや狐を追うこともできず、人の流れにもみくちゃにされながら歩くしかなかった。一度診療所に戻りたかったが、戻ることもできない。二進も三進も行かなくなってしまった。


「おい、小僧」

 いつぞやの声がキイキイと聞こえて、ぼくはあたりを振り返った。だが姿が見えない。

「犬は海の方へ行ったぞ。とっとと捕まえて何とかしろ」

 そうしたいのはやまやまだ。

 ピーっと甲高い笛の音が小鬼の声をかき消した。

「そこのお前ッ。立ち止まって流れを止めるな!」

 雑踏など何のその、人々のざわめきを跳び越すようにして、怒号が聞こえた。

 声のした方を向くと、警笛を手にした巡査が人をかき分けかき分けしながらやってくるのが、人波の向こうにちらちらと見える。

 この暑さと人の多さに辟易しているのか、苛立っているのか、真っ赤な顔をしていた。こんなところで捕まってなどいられない。しかもこの数日で三度目だ、妙な事件の首謀者だと疑われてはたまらない。

 おしくらまんじゅうのような様相の橋を進もうとしたところだった。



 明かりが空で弾けて、どん、と大きな音がした。人々が足を止め、空を見上げて、歓声を上げた。

 暑さに苛立ち、汗のにおいが充満し、そして妖気が満ちていた。人のふりをした妖怪たちが、相変わらずに混ざりこんでいる。妖怪たちも、天で火の粉が舞うのを面白がり、人がわめきながらひしめくのを面白がっていた。


 突然、歓声とは違う悲鳴が上がった。人の波が崩れてなぎ倒されていく。

「欄干が折れた!」

 誰かが叫ぶ声がした。空を照らす色とりどりの明かり。響く轟音、そして悲鳴。水音がそれに交じって聞こえる。橋に入って花火を見たい人たちが次から次へと押してきて、支えを失った人たちが次々に川へ落ちた。

「押すな! 子供がつぶれる!」

「やめて、腕が折れる!」

 次々に水柱があがり、花火の音の合間に水音が上がる。落ちまいとする人と、そんなこと気づきもせずに押してくる人と、面白がって四方を押して回る妖怪たちと、押し合いへし合いの様子は、阿鼻叫喚の様相になった。

 ああまずいまずい。ぼくは流れに逆らえず、ずるずると端に追いやられた。踏ん張ろうとした下駄が空を切る。

 ふわりと体が宙に浮いて、橋から零れ落ちた。


 港町の生まれだから、泳げるけど。落ちていくぼくの視界でも、次から次に人が川に落ちている。

 人の上に落ちたら誰かを殺しかねないし、上から落ちてきた人に殺されかねない。花火見物の船に落ちたら、どうなるか。

 なんで東京に来てまでこんな目に。

 ぼくが思ったところ、後ろ首をぐいと引っ張られて、体がぐいぐいと上に持ち上げられた。

 仔馬ほどの大きさになった狐が、ぼくの襟首を咥えて飛び上がる。ぼくは思わずわめいた。

「お前、こがん人の前で何やっとらす!」

「助けてやったのに、減らず口ばかりたたく小僧だの。焦って国言葉が出ておるぞ」

 狐はケケケと嘲笑う。だが、花火の轟音で半分も聞こえない。唐突に宙へ放り投げられ、ふわりと臓腑が浮かぶような感覚がして、吐きそうになった。狐は背中でぼくを受け止める。

 胃の腑の中身と文句が口から出そうだが、抑え込む。唾を飲み込み、ぼくは狐の耳元に顔を寄せて叫んだ。

「どこへ行ったか分かったのか!」

「どこに降りたかは見たぞ」

「急げ!」

「仕方がないのう、あとで何をしてもらおうかのう」

 狐はニヤニヤ笑いながら、すいすいと夜空を進んだ。


 花火が次々に空に上がり、目の前を火の塊が飛び、轟音が鳴り響く。ぼくたちは花火の只中を突き進んでいた。

 熱と音の圧が襲い掛かってくる。目がチカチカして、頭がおかしくなりそうだ。狐の背に伏せって毛を掴む。

「おいおい、人間は軟弱だのう。勝手に死んでくれるなよ、つまらんぞ」

 狐が嘲笑うのが聞こえてくる。

 急いで駆けつけないと、お嬢さんが何をされるかわからない。だがこれでは、迂回しなくては向かえない。


 眼下では暗い川に落ちた人たちがもがき、橋の上でなぎ倒された人たちがもがき、人の波をかき分けて巡査たちが駆けつけようとしているところだった。甲高い笛の音が、花火の音の合間に響く。そして、笑い声があちらこちらから聞こえる。妖怪たちだ。

 人のお祭りは、妖怪たちにとってもお祭りだ。だが、はしゃぎようが、なんだかおかしい気がした。やつらがおかしいのはいつものことだが。

 妖怪を見慣れているはずなのに、気味が悪い、と思った。

 ――何かが引っかかる。

 妖怪のことだけではない、あの犬神のこともだ。単独で動いているとは思えない。

 今日のお嬢さんは海老茶の袴ではなかった。漠然と女学生を狙う誘拐だとしたらおかしい。明らかに、お嬢さんを狙っていた。

 先日の恨みだとしても、それなら何故さらっていくのか。ぼくへの嫌がらせなのか。だが、そうでないとしたら。

「一度、診療所に戻る」

 騒ぎで考えがまとまらないし、音で頭がおかしくなりそうだ。へろへろになったぼくを、狐は鼻で笑った。

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