第四章 ハイカラ娘と花火捕り物事変

第1話 美人妻のお目見え

 両国の川開きには、仕事で忙しい旦那さまも戻ってこられている。

 誰もがこの日の花火や縁日を楽しみにしていて、奥様はこの日のための着物の用意に余念がないし、お嬢さんもめかしこんでいる。

 ぼくも一緒に舟に乗せてもらえる予定だったが、着飾るような衣服は持っていないし、特にそういうものを気にする性質たちでもないので、自分の用意はすぐ終わってしまった。


 女中たちが忙しく走り回っている中、ぼくは旦那さまと奥様の履きものを用意していた。

 いつも洋装の旦那さまも今日は袴を着て出かけるそうで、下駄を用意していたのだが、皮靴シューズが良いと言われたので、慌てて用意し直しているところだった。

 夏の夜歩きには暑いのではないかと思ったのだが、旦那さまの御所望なのだからぼくが口を出すことでもない。昨年舟に乗るとき、下駄を川に落としたせいかもしれない。


 ぼくが玄関口に座り込んでごそごそしていると、お嬢さんがやってきて、少し離れた所に座った。

 赤や緑や紺の華やかな市松模様の着物に、撫子の模様の入った緑の帯を締めたお嬢さんは、いつもの袴姿と違うからかどこか娘らしい。


「大丈夫ですか」

 お嬢さんは昨日からあまり元気がない。ぼくのことで犬神持ちの少年に野次られたときはシャンとしていたものの、それも少しのことだった。

 せっかくの川開きも、お嬢さんの楽しみではなくなってしまったようだ。普段なら義憤にかられて肩を怒らせ、「犯人を捕まえる」だとか「やめさせる」だとか大騒ぎするところだけど、それもない。

 目の前で自分と同じ女学生が攫われて、さすがのお嬢さんだって平静でいられるわけがない。

 しかしぼくは、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた巡査に、当たり障りのない事情を話す羽目になり、よもや立て続けに巡査のご厄介になるとは思わず、さすがにげんなりしている。こんなの、いずれぼくが疑われかねない。


「義孝兄さまのところに行きましょう」

 お嬢さんは膝を抱えて言った。

「何おっしゃっているのですか。みなさんもうすぐ出立でしょう」

「今年は舟に乗らないっておっしゃってたから、ご挨拶しておくの。文士の枝並さんから何か言伝があるかもしれないし」

「でも、先生はビヤホールに行くとおっしゃって……」

「だからよ。ビヤホールなんて早い時間から行くものでもないでしょうし、まだ間に合うわ。お父様とお母様も、兄さまの様子を見てきてほしいって言っていたし、あとで溝口さんと二人で両国橋に直に来るようにとおっしゃってたわ」


 もう話をとりつけてきていたのか。落ち込んでいるようでいて、行動力は相変わらずだ。

 あの偏屈な文士が何かに気付いたからといって、わざわざ言伝してくれるとは思えなかったが、じっとしていられないお嬢さんの気持ちも分かる。

 今日ばかりはぼくも素直について行くことにした。

「いいですか、もし何か言伝があっても、無茶をしないこと。この間のようにやり過ごせるとは限りません。妖怪は人とは違うものなんですから、人の道理で考えられませんし、犬神なんて予想がつかないんですから。何が起きるかわかりませんからね。この間のように言いつけを守ってくれないのなら、先生のところには行きませんよ」

「わかったわ。わたしも攫われるかもしれなかったのだし」

 さすがに反省したのだろうか。あれは、攫われるかもというよりは、食われるかも知れなかった方が正しい気はするのだが。




 診療所も今日は早く閉めてしまったようだった。硝子窓から灯りはもれているが、開き戸に鍵がかかっていたので、お嬢さんは軽くノックする。

 はい、と言ってドアを開けてくれた先生は、今日は白衣を着ていなかった。いつもは洋装だけれど、珍しく着流し姿で涼やかだ。眼鏡はいつもと変わらない。


 先生は環蒔さんとぼくを見ると、にこりと笑って、戸を大きく開けてくれた。

「環蒔さん。お召し物、よくお似合いですよ」

 どうぞ、と中に入れてくれる。ほめられたお嬢さんは頬を上気させて、湯気を吹きそうだった。ほころんだ顔に手をあてている。

「あの、義孝兄さま、お邪魔じゃなかったかしら。もうお出かけになるの?」

「まだ出かけませんから大丈夫ですよ。暑いと妻の体に障るので、日が落ちてからにしようと思っていたところです。環蒔さんは、今日は両国に行くのでは?」

「これから花火見物に行くの。今日は、兄さまの顔を見に寄っただけよ。お父様もお母様も気にされているから。お二人とも、兄さまが大好きで仕方がないのですもの」

「今年は我儘を言ってすみませんと伝えてください」

 申し訳なさそうに微笑んでから、先生は診療所に案内してくれる。待合を兼ねた廊下を歩いていると、廊下の先の階段を奥さんが降りてきた。


 束髪に結ってすっきりした首筋が白い。あの気だるい風情のうなじが色っぽいのだと、男の患者が言っているのを聞いたことがある。

 紺地に桔梗が描かれた着物に、落ち着いた赤い色の幾何学模様の帯を締めている。西洋傘を手にしている様は、国粋と欧化が奥さんの装いの中で調和しているようだった。

 先日は具合を悪くして寝込んでいるとのことだったが、今日は奥さんの顔色もいい。


 奥さんは、あら、とのどかに顔を上げて微笑んだ。

「元気なお声が聞こえると思ったら、やっぱり環蒔さんいらしていたのね。嬉しいわ」

 お嬢さんはますます真っ赤になって奥さんを見た。

「ごめんなさい、騒がしくしちゃって。馨子さんのお体に障らなければいいけれど」

 少しばかりもじもじしてお嬢さんは言う。

 お嬢さんは、勉学を積んで働くチャキチャキの看護婦を尊敬しているようだったが、奥さんには憧れているらしい。奥さんは看護婦のように背筋をしゃんとしているわけではなく、もちろんお嬢さんともだいぶ違う。落ち着いた大人の女という風貌で、立ち姿も後れ毛を整えるしぐさも、たいそう絵になる人だった。

「馨子さん」

 先生に呼びかけられて、奥さんはくすくすと楽しげに笑った。

「またそのように。年増女の負い目を刺激する呼び方はおやめください、旦那さま」

「すみません、ええと……馨子、日傘はもういらないんじゃないかな」

 年上の妻に、先生はまだぎこちない。結婚して一年を過ぎようかというのに、変わらず初々しく、見ている方が恥ずかしくなる。奥さんは、あら、と小さく声をあげる。

「出かけるときの常でつい。陽が落ちているのに、恥ずかしいわ」

「とりあえず、待合の傘立てに置いておこう。帰ってきたときに忘れずにね」

 はい、と奥さんは美しく微笑んだ。

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