第8話 短夜の訪れ

「溝口さん!」

 よく通る少女の声が聞こえ、ぼくは慌てて振り返った。

「お嬢さん、来てはいけません!」

 人通りの多いところで待っているように言ったのに。いや、お嬢さんがそんなの守るわけないんだけど。さすがにぼくも焦る。


 目の端で、瓦斯灯の明かりが少し陰った。

 ぎゅる、と犬神が細く長く伸び、螺子ねじのように回りながら迫ってくる。

 ぼくは必死で後ろに下がった。というかひっくり返った。

 犬神の牙はぼくの頭をかすめ、お嬢さんの方へ向かって行く。お嬢さんは状況が飲み込めないのか、立ちすくんでいた。

 向かってくる凶悪な獣に、悲鳴すらあげられず目を見開いている。


「アカトキ!」

 お嬢さんへ向けて大顎を開いた犬神は、横っ面を真白い塊に激突されて吹き飛んだ。

 路地裏に立ち並ぶ家の塀を引っ掛け、瓦斯灯にぶつかってなぎ倒した。火を覆っていた硝子が割れて、ガシャンと音をたてる。あたりを照らしていた明かりは消え、そのまま犬神は動かなくなった。

 塀は崩れなかったもののひどい亀裂が走っている。これは見つかってはまずい。瓦斯が漏れていないかも気になった。


「お嬢さん、無事ですか?」

 ぼくが大きな声で呼びかけると、弾むような声が戻ってくる。

「溝口さんこそ。どういうことなの、これは!」

 いつもと同じ、令嬢らしからぬ大声がかえってきた。しょんぼりしていた人とは思えない、いつものお嬢さんだった。

 犬神が少女を咥えて去ったのを見てしまった。この犬神持ちが千歌絵さんにつながるかもしれないと思えば、元気にもなるだろう。怪異を見た上、身に危険が迫っているのに、生き生きしてくるのも問題ではあるが、あの調子なら心配はないか。――いや、お嬢さんがいつもの無駄なやる気を出しているのは、まったくもって良いことではない。

 お嬢さんが勇ましく西洋傘を掲げて、水干の少年を睨んでいるのが、ますますぼくの不安をあおる。


 狐はひらりと舞って、お嬢さんの肩に降りた。いつもの笑いを鼻面に貼りつかせて、少年を見ている。明かりが消えたせいで、白い狐はますます夕闇に輝くように見えた。


 少年は下駄を履いた足で、地面を踏みつけた。苛立ちまぎれに、二度三度。

「なんでだ。どういうことだ、けぇは!」

 アカトキのにやにや笑いとお嬢さんを見て、犬神憑きの少年は地団駄を踏む。

 伏していた犬神はむくりと起きあがって宙を舞い、また少年のそばに戻った。肩に頭を乗せ、守るように、締め付けるように、ぐるりと巻き付く。犬神が彼の感情に操られるものなら、彼の不安定で、未熟な情緒はとても危険だ。

「お前、なんで追ってきたんじゃ。なんで狐に怯えんのじゃ。なんで狐憑きを気にかけるんじゃ!」

 お嬢さんは、狐憑き、の言葉に眉をひそめた。

 義憤に駆られた顔で、お嬢さんはいつぞやと同じように背筋を伸ばし、掌を自分の胸におしつけ、はっきりと言い放った。狐を肩に乗せたままで。

「溝口さんは溝口さんだもの。私は、人を攫って行くような心根の輩は許せないけれど、狐憑きだとかは関係ないわ!」

 叱責されて、少年はギリギリと歯を噛んだ。今度はぼくの方を向いてわめいた。

「狐憑きも、犬神持ちも、他の奴らにしたら同じようなもんじゃろうが。なんでお前は、あのお嬢と普通にしゃっべっとる」

 実際のところは違っても、同じ憑き物だというのは、確かにそうだろう。嫌悪される存在に違いはない。狐憑きは気が狂った者として忌避され、犬神憑きは呪いだとかで恐れられる。どちらも群れに入れない存在であることは確かだった。

 ぼくも故郷では人になじめなかったし、狐憑きだということはひたすらに隠して生きてきた。妖怪にやたらと絡まれるのは不便で仕方なかった。

「ぼくに聞かれても」

 ぼくにどういう態度をとるかなんて、それはお嬢さんの側のことだし、お嬢さんの答えは先程のものではっきりしている。

 きっとそういうものに出会うことのなかった少年を不幸だと思うし、ぼくは運が良かったとは思うけれど、それを責められる謂われはない。


 少年は再び地面を踏みつける。ガンと大きな音をたてて。穴でも開けるつもりか。思った瞬間に犬神が宙を舞い、今度はまっすぐぼくの方へ突進してきた。

 ぼくは頭を抱え、慌てて地面に倒れ込む。頭上をごうごうと音をたてて禍々しい気が通り過ぎて行った。


 なんとか目線を上げるが、水色の着物は見えない。

 振り返れば、宙を駆けていく犬神の背に、ひらひらと長い袖を踊らせて乗る少年の姿があった。顔だけ振り返ってぼくを睨んでいた。歯ぎしりの音が聞こえそうなほどに歯を噛みしめているのが、やけにはっきり見える。

 そして少年と黒い犬は、西の端に残った陽の名残の中に、小さな影になって消えて行った。

 逆恨みだとしか思えないが、酷く妬まれたようだ。




「黒い犬、いたわ」

 犬と少年の去ったほうを見ながら、お嬢さんは言った。

「そうですね」

「消えた女学生たちは、駆け落ちじゃないわ」

「そうかもしれません」

「文士は関係なかった。千歌絵さんも、さらわれたんだわ」

「そうかもしれないですし、違うかもしれませんよ。雛菊の会や千歌絵さんに押し付けられた艶書は」

「艶書と、あの犬は関りがあるのかも」

 そんなこと明言できない。全部一緒くたにして、決めつけることはできない。千歌絵さんは違うかもしれない。女学生たちは駆け落ちかもしれない。だけども、だ。


「きっとそうよ、そんな予感がするの」

 残念ながら、今回ばかりは、ぼくもだ。

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