第7話 犬神持ちと狐憑き

 文士の部屋を出た頃には、日も遠く沈みかけていた。

 ぼくらの影が長く伸びている。夏の短夜みぢかよもようやくやってこようかと言う頃合いだった。

 夏の夕暮れは、西の橙と東の藍が頭上で混じりあわない。昼と夜が突然入れ替わるのだ。いつまでも居残った日の明るさを、夜が押しのけようとするかのように。そして夜はすでに天頂を越えて、星がちらほらと輝きだしていた。

 黄昏時の空気はじりじりと暑かったが、文士の部屋の蒸し風呂のような息苦しさに比べればましだ。お嬢さんも胸に手をあてて、息を吸ったり吐いたりしている。

 氷屋にでも寄って冷たい氷を食べて、あの蒸した部屋の臭いやらを忘れたい気持ちにもなったが、日の名残が消える前に帰らなくてはいけない。


「あの人、お仕事間に合うかしら」

 前を歩いていたお嬢さんがぽつりと言った。

「夏の夕刻は長いですからね。真っ暗になる前に点けさえすれば、言い訳は立つでしょう。妻帯でなければと言われるのは、朝の方ですから。朝寝坊さえしなければ問題ありませんよ」

 そして朝寝坊はさすがにぼくらには関係がない。


 今日は行き先が行き先だったのもあったし、お屋敷からそんなに遠くもないので、迎えを頼んでいなかった。どこかで俥を捕まえたほうがいいだろうかと考えていると、悲鳴が聞こえた。昨夜と同じように。

 お嬢さんがビクリとして止まる。そして弾かれたように走り出した。

 冗談ではない。

「お嬢さん!」

 ぼくはまた慌ててお嬢さんの後を追った。無鉄砲なのもいい加減にしてもらわないと困る。自分も狙われるかもしれないということを、考えてほしい。

「お嬢さん、待ってください!」

 お嬢さんはぼくの声になど応えず、皮の靴で身軽に駆けて行く。追いかけるぼくの下駄がざくざくと土の地面を踏みつける音が響いた。走って行く海老茶式部と書生を、道行く人たちが不審そうに見ている。視線が突き刺さるようだが、どうでもいい。

 ごっさいごっさいの掛け声も忙しい車夫を追い越し、お嬢さんはぐんぐんと進んで、ためらわずに路地に足を踏み入れて行く。一体どういう確信があるものなのか。



 ぶわ、と風が吹いた。お嬢さんが駆けて行く先から、重い風が吹いてきて、ぼくの前髪を持ち上げた。じわりと首筋に汗がにじむ。暑さや、走ったせいばかりではない。

 薄暗い路地から流れてくるには、あまりにも暗く、不吉な風だった。

「お嬢さん!」

 思わずまた呼んでいた。先程よりもずっと鋭く焦りのにじんだ声に、さすがにお嬢さんが足を止める。振り返ってぼくを見た。

 大きな道からひとつ入っただけの路地だったが、狭い道には人の姿がない。ぽつんぽつんと立っている瓦斯灯にはすでに火が入って、薄暗い道を照らしていた。


 こちらを見たお嬢さんの向こうから、びゅう、と黒い渦のような、重い風がやってくる。周囲の影とはまるで違う黒さの塊。

 ぼくはとっさにお嬢さんの腕を掴み、道の端に寄せた。風はお嬢さんの髪を少し引っ掛けて、ぼくらの前を横切り、通り過ぎて行った。

 そして黒いつむじ風が瓦斯灯の下を通る、その一瞬だった。

 大きい犬のような、黒い獣が見えた。その口にくわえられた、淡い白地の着物の袖が舞って、瓦斯灯のオレンヂ色の灯りを照り返した。その着物をまとった人の、蒼白の顔を彩る黒髪が広がる。束の間、目があった。お嬢さんと同じ年頃の少女だった。あかい口が開く。

 助けて、と言おうとしたのだろうか。それが声になる前に、黒い獣と少女はぼくらの前を通り過ぎて、夕闇の中に消えて行った。


 唖然としたぼくの手を、お嬢さんが振り払う。

「待ちなさい!」

 勇ましい喚声を上げ、お嬢さんは空を見上げながら駆けだしていた。

「お嬢さん、いけません!」

 これ以上面倒事に首を突っ込まれては困る。手を伸ばしたが、届かなかった。

「放っておけるわけないでしょう! あれは何なの!」

 そんなことぼくに聞かれてもわからない。それよりも、ああもう、だから鉄砲玉みたいにとりあえず走るのやめてほしい。ぼくは大慌てでお嬢さんを追いかけるが、お嬢さんの足の速さと言ったら。

 ひらひらと揺れる袖を追いかけて走る。突然ぼくは襟首を強く掴まれ、宙に浮かび上がった。胃の腑にふわりと妙な感覚が襲ってくる。けけけけと笑い声がする。


「アカトキ! 人目にたつことするなって言ってるだろう」

 咎める声で叫ぶ。

 狐はぼくの襟首を咥えて、ふがふがと言った。

「あんな面白いもの見逃してなるものか、とっとと追うぞ」

 狐のニヤニヤ顔が見えるようだ。まったくもって誰も彼もぼくの都合なんて考えちゃくれない。

 宙に浮いたぼくは、お嬢さんを追い越した。

「溝口さん!?」

「お嬢さん、人の多い通りに戻って、じっとしててください!」

 もう! と憤慨した声が聞こえたが、とりあえず今は気にしないでおく。


 狐は宙をぐんぐん進んでいった。生ぬるい風がぼくを叩きつけて行く。

 黒い獣は素早く、もう姿も見えなくなっている。少女の明るい着物の色も見えないが、あのつむじ風の、あの黒い獣の、不穏な気配はあまりにも鮮烈で、筆でしるしをつけたかのようにはっきりと空気の中に残っている。


 そしてぼくは、奇妙な影を見つけた。細く長い瓦斯灯の小さな屋根の上、小柄な影が立っている。

 狐はぐるりと首をひねって、くわえていたぼくごと空中に急停止した。そして浮かび上がったときの唐突さと同様、ぼくは突然地面に下ろされた。落とされたと言うのがふさわしいか。

 襟をひっぱっていた力が消えて、ずしん、と下駄の裏に地面の堅さが響いた。狐がひらりとぼくの肩に着地する。

 振り回されて目がぐるぐるするし、放り投げられて胃の腑が気持ち悪いし、足がビリビリする。アカトキめ、と内心毒づいたが、そんな場合でもない。


 瓦斯灯の上の人影は軽やかに飛び降りて、灯りの下に姿を見せた。

 橙色のゆるい円の中に照らし出されたのは、長い髪を後ろに結いあげて、時代錯誤な水干をまとった少年だった。まだ幼く、尋常小学校へ通うような年頃だ。やけに赤い唇が吊りあがって、笑いの形を作っていた。

「妙な気配じゃな、お前」

 放たれた声は明るく声変わりもしていない。笑い含みだった。あどけなさと邪気が交じり合って、異様だった。耳慣れない国言葉だ。

 妙な気配とは、こちらの台詞だ。妖怪は小さいころからよく見たが、やつらの気配とはどこか違う。

 まぎれもなく人間の、生き物の気配があるのに、あまりにも黒く重い空気を纏っている。水干の涼やかな薄水色と、少年の纏う雰囲気がそぐわない。不穏な笑顔がそれを際立たせた。

 どこからともなく先程の黒い犬がやってきて少年に寄り添う。犬が攫って行った少女の姿はなかった。

「クロ」

 少年が呼ぶ。庭先を駆け回る犬につけるような名で、邪気を振りまく獰猛な獣にしてはあまりにも平凡だ。だが、まさに「黒」としか呼びようのない犬ではあった。ぞろりとした毛並みは明かりを照り返さず、口からのぞき見える牙だけが際立っている。

「ほう、珍しいものを見たな」

 ぼくの肩の上で、狐がおもしろがった声で言う。ひとり何か悟った様子だが、ぼくには何が何やら分からない。少年がにやにや笑いを顔に貼りつかせたまま、寄り添う犬の首筋を撫でた。

 黒い犬の姿が突然膨れ上がり、大きく伸び、細くなって空をくるくると回って飛んだ。鼻面の細い顔はますます細長くなる。少年の体にぐるぐるとまとわりつくようにして、伸びていく。黒い体に白い斑模様が浮かんでくるが、まとっている黒い邪気が、変わらずその生き物を包んでいた。

 少年の頭の上で鎌首をもたげ、こちらを見る。目があるべきところは黒い空洞になっていたが、こちらを見たのだとわかった。


 少年は、くつくつと喉を鳴らして、笑いをこらえているようだった。

「狐憑きか」

 嘲るような声で言う。

「犬神持ちか」

 アカトキがぼくの肩の上で、せせら笑った。まばゆいばかりの白い狐は夜目にも鮮やかで、邪気をまきちらす犬とは対照的だった。

「犬神?」

 耳慣れない言葉を聞き返すと、狐はおかしみでいっぱいの声で言う。

「犬神は、はるか昔に禁じられた術だ。飢えた犬を地面に埋め、その前に肉を置いておく。餓死する寸前に犬の首を斬ると、首が飛んで行って肉に食らいつくそうだ。その骨を呪術の道具とするそうな。または獰猛な犬同士を戦わせ、残った一匹を殺して使う。人の世ではとっくに禁じられた蠱術だ。もしくは、飢えた犬を殺して、人の通る辻に埋めておく。その上を通る人間の怨嗟やら憎悪を吸わせ祀り、呪詛の道具とする。犬神持ちというのはな、はるか昔にそういった秘術を行い、代々犬神に憑かれた家の人間のことをいうのだ」

「人の手で作った妖怪だっていうことか」

「妖怪だなどと、我らと一緒にするな」

 狐は、口の端をつりあげて笑った。

「人の業の生み出した、あれこそ三毒の極みよ」

 三毒――貪欲さ、怒り、妬み。人の煩悩の塊だと、妖怪とは別のこの世ならざるものだと、狐は言う。

「それがこんなとこで何やってる」

「呪術の目的など決まっておるわ。敵を排除するか、術を使って金儲けをするかよ」

 狐の言葉に、少年が弾かれたように笑った。歪んだ笑い声が、暗い路地を、木魂のように遠くまで通って行った。

「あやかしが説法か、笑かすな。畜生にも劣る妖怪風情が」

 高い声がせせら笑うが、狐のとがった鼻面の、片方の口がつりあがった。

「狐は豊饒の神の使いぞ。ものも知らぬ小童が、よくぞ我に喧嘩をしかけたものよ。鬼魅ちみとも呼べぬ半端ものをっておるくらいで生意気にもほどがある」

 人間のような表情でアカトキは笑った。

 古来より狐は人を化かしだますものだとされているが、そうやって語られるよりもずっと前から、豊饒の神の使い、もしくは神そのものとも言われて人とともにあった。


 少年の笑みが、仮面が落ちたかのように剥がれた。少年は、肩に寄り添って牙をむく犬神と同じような目をして、狐を睨みつけた。

「黙れ、人間に飼われた下賤め」

「わしは己の意思でこやつに憑いておるのだ。人の世の変わりようを見るのは面白いでのう」

「アカトキ」

 ぼくはたしなめるように狐を呼ぶ。面倒くさそうなものに絡むな。老獪な狐は、ふん、と鼻を鳴らす。

「気をつけろよ、犬神は意志ある妖怪とは違う。姿ある妖術のようなものだ。命令を発する必要もない」

「それは、あの子がちょっと腹が立つなと思っただけで、あの犬が殺しにかかってくるということか」

 物騒極まりない話だ。だったらますます挑発するのをやめてほしい。

「そうだ。危険で、それゆえ犬神持ちが忌まれる要因でもある」

 狐は変わらず楽しそうだった。

 人の喉笛を噛み千切る、子牛ほどの黒い犬。まさに、これがそうだった。顔は鼬のようだが。

「お前のような鈍いやつは、逃げることもできんぞ」

 大きなお世話だ。ぼくは狐の含み笑いを無視して、少年に向けて言った。

「その犬が連れて行った人はどうした」

「お前ぇに教えてやるわけがねぇ」

 昼がどんどん西の端に消えていき、空が夜に侵されていく。

 犬神の目に開いた真円の空洞の闇もどんどん深くなっている気がして、ますます不気味だった。ぼくは内心舌打ちした。

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