第6話 再び、文士の言い分
部屋の中に入ると、とんでもなく蒸していた。入った途端に汗が噴き出してくる。そのせいか部屋の中は男くさい汗の臭いで満ちている。障子窓が薄く開けられているだけで風が通らない。
「何故窓を開けないんだ」
空気が悪い。お嬢さんは背筋を伸ばして体の前で拳を握ったまま、口を真一文字に結んで黙っている。相当我慢しているようだ。
「紙が飛ぶだろう」
文鎮を使え、と思ったが。部屋の中には、所狭しと書物が積み上げられていた。その本の塔の中に小さな文机がある。文士はその横に風呂敷包みを置き、どかりと胡座すると、文机に肘をひっかけ、偉そうにぼくらをみた。「座れ」と横柄に言うので、お嬢さんは入口付近の隙間に座った。戸を閉めたくなかったが、話が外に聞こえても困る。ぼくは戸を閉めてからお嬢さんの近くに座った。
お嬢さんは
「何をやっていたの?」
机の上には、たくさんの紙と、ぐしゃぐしゃに丸められた紙屑が散乱していた。紙屑は部屋中に散らばっている。
「懸賞小説に応募する」
「仕事って、これ? 小説のこと馬鹿にしていたくせに」
「これは仕事ではない。まだ。俺の仕事は、町を守る大事な役目だ」
「学生なんでしょ。巡査でもないくせに、大げさね」
「夜道を照らすのは、治安を守るために欠かせぬことである。お前だって、あのとき電気が消えて怯えていただろうが」
「わたしは、電気が消えたくらいでは驚いていません」
確かにお嬢さんの言う通りだし、灯りが消えて怯えていたのはこの腐れ文士の方だが、今はそれを言い争っている時ではない。
新橋で会ったとき、この文士は黒い法被を着ていた。
「あんた、点燈夫か」
ぼくが言うと文士は、返事の代わりに、ふん、と鼻を鳴らした。
なるほど、銀座には電気灯があるが、東京全部がそうではない。むしろごく一部だ。東京の夜を照らすのは瓦斯灯、もしくは瓦斯灯と言う名のアルコール灯だ。
点燈夫というのは、街中にある瓦斯灯に点火棒で火を入れて回り、朝方には栓を閉めて火を消して回る仕事をする人のことだ。「点燈夫方」と書かれた黒い法被が彼らの目印だった。いかに早く街中を駆けまわり、灯りをともすことができるかが彼らの誇りであると聞いたことがある。
この文士は、灯りをつけてまわった帰りに、銀座で悪さをしていたというところだろうか。
「俺の担当区が、他のやつらに後れをとったらどうしてくれる。ただでさえ、妻のおらん俺は、いつ火消しを忘れるかと睨まれているというのに。手短に話せ」
「そういえば、点燈夫は妻がいないとなれないと聞いたことがある気がするな」
ぼくが言うと、お嬢さんはいぶかしげにぼくを見た。
「どうしてそんなこと知っているの」
「教養です」
応えると、お嬢さんはますます疑わしげな顔をする。人を知恵者扱いして面倒事に巻き込むくせに、ひどい扱いだ。そんなぼくらのやりとりなど目に入った様子もなく、文士はふんぞり返っている。
「そうだ、通常は妻帯しておらんと、点燈夫にはなれん。寝坊をすると困るからだ。だが俺は蝋燭代を節約するため夜長ではないし、早起きをして勉学をする習慣がある。学生の本分である故、寝坊などしないと説いて特別に採用してもらった」
「
「そんなもの、使うわけがなかろう!」
なぜか激昂して文士が言った。腰にぶら下げた煙草入れから煙管を取り出してくわえる。すぱすぱと息を吸ってから火が付いていないのに気付いて、苛々とした手つきで煙草入れから箱を取り出した。箱の中の刻み煙草を指先でねじって丸めながら言う。
「お前も、そのような軽薄な格好をして、恥ずかしくないのか」
とばっちりがこちらにやってきた。ぼくは
面倒だったのでぼくは「別に」とだけ応えた。文士が怒りに顔を真っ赤にした。煙管を握りつぶして折ってしまいそうな勢いで。火打ち金を取り出して、カンカン鳴らして、空中に火を散らしながら、煙管の煙草に火をつけた。
「瓦斯灯だって、開明の後に入ってきたものじゃない」
「開明から三十余年、あれは俺の生まれる前から町にあったものだから、国の物だと思っていたのだ。しかも近頃、銀座などではすでに電気灯などに変わっているしな!」
煙を出しながら、ふんぞりかえって文士は言った。なんとも間の抜けた話であるが、張りぼてのような
だけど、ぼくたちの世代には、同じように思っている者も珍しくはない気がした。そういえば、高辻男爵のお屋敷のある上野の駅は、はじめて電灯がつけられた。
それにしても、風も通らないような、蒸し暑い部屋で煙管など吸われてはたまらない。ぼくは顔をしかめてお嬢さんの後ろで、ぱたぱたと手で煙をおいやった。
「おまえたちのような恵まれた奴にはわからないだろう。新しい波に追いやられて、去っていくものの焦りや苛立ちが!」
文士は、煙と一緒に大声を出した。お嬢さんは釣りこまれるように、ごめんなさい、とつぶやいた。誰だって、そう生まれついたのは自分のせいではないのに。今日のお嬢さんは少しばかり気弱だ。
文士はフンと鼻を鳴らす。
「とっとと用件を言え。俺が職を失ったら、お前が学費を出すのか」
そんな道理があるはずもない。お嬢さんにつっかかるくせに、清貧そのものが矜持なのだろう。日銭を稼いで自分で生活し、学問をおさめているそのことが。お前らのようなぬるま湯につかって、黙って与えられている奴とは違うのだということが。
それはもちろん、お嬢さんが恵まれているのも、ぼくが幸運なのも違いない。だけどお嬢さんにはお嬢さんの事情があるし、ぼくにはぼくの事情がある。
自らの生活に誇りがあるくせに、僻みでもあるこの文士はねじくれていて、傲岸なだけに面倒くさい。
「つまらないことで突っかかってくるな。以前、お前たちの
「関わりなどあるわけないだろう。あれ以来、夜の銀座には言っておらんし、俺は小説を書くのに忙しいのだ」
ああ、そうだろう。ぼくはここに来る前からぼんやり予想していたが、狐の悪戯に、真っ先に逃げ出した奴らだ。人をさらう度胸があるとも思えないし、そういうやつが人をさらったところで何かができるとも思えない。
「ほんとうに、知らないの?」
お嬢さんは手巾を握り締めて、身を乗り出して言った。文士はお嬢さんが急に乗り出してきたからか、少しのけぞるようにしてお嬢さんから遠ざかった。
「あなたたちと新橋で会った後に、千歌絵さんの袖に艶書らしきものが入れられていたのよ。あなたたちの仕業じゃないの? 橋本征斉さんに因縁つけていた時よ」
「知らんと言ったら知らん。あの時は、俺はお前たちに近寄ってもおらん」
「あの時急に現れたじゃない、その前にこっそり忍ばせたりできたでしょう。あなたではなくても、お仲間の誰かということはないの」
文士は片眉を吊り上げた。
「そんなことするか! 何故女学生にそんなものを! 女学生など、軽率な知を振りまわして、開国の後の西洋化を焦る政府の広告塔だとしか思っておらん!」
急に再び大声を出し始めた。怪しい。この文士が嘘をついていないとしても、お仲間はどうだかわからない。
「では、何か気付いたことがあったら、うちまで知らせに来てくださらないかしら」
文士のかたくなな態度にもお嬢さんはめげず、言い募った。なにせ、うちのお嬢さんはあきらめが悪い。
「なぜ、俺が!」
「夜に外出することが多いお仕事なら、色々気付くこともあるかもしれないでしょ。上野の高辻という家までお願いするわ」
「そんなので分かるか」
「近くで高辻男爵と言えば分かるわ」
お嬢さんが言うと、文士は、力いっぱい「ケッ」と吐きだした。
「どこのお嬢さまかと思えば男爵様か! 俺を良く見ろ。なんで俺がそんな華族様のお屋敷に行けるんだ。門前払いでつまみだされて終わりだ」
彼は煙管を口にくわえて、両手を伸ばして、木綿の着物の袖を広げた。ところどころほつれが見える。何故か誇らしげで、その態度自体が、お嬢さんたち華族を馬鹿にしている。
「そんなことしたりしないわ。もう、厄介な人ね。それじゃあ、押上の刈谷診療所の先生に言づけて」
今日のお嬢さんは気弱だと思ったが、肝心のところで、お嬢さんはお嬢さんだった。まったく折れない。しかもまた先生のところに行く口実を作ろうとしている。
「医者だと? 病でもないのに病院になど行けるか」
珍しく一理ある意見だったが、お嬢さんにはそんなもの通用しない。お嬢さんは頬をふくらませた。
「うちに来られないのなら仕方がないじゃない! お友達がいなくなって、わたしとても心配しているの。もし犯人でないのなら協力してちょうだい。してくれないのなら、この間の銀座の一件を、巡査に話すわ」
「自分が夜中にうろついていたことを話す羽目にもなるぞ」
「わたし、お友達を助けるためなら、言うわ」
「言えるものか」
そんなことを口にしながらも文士は、胸を張るお嬢さんを憎々しげに見ているあたり、お嬢さんなら構わず告発しかねないと気付いているようだった。どうやらこいつもだんだんお嬢さんという人が分かってきたようだ。
文士は、がり、と煙管を噛んだ。
「もういい、お前たち、とっとと帰れ! 仕事から帰って、陽が落ち着る前に、読まねばならぬ書物が山のようにあるのだ。俺は本当に何も知らん」
ぷうと息を吐き、煙を煙管と口から吐き出しながら、文士は憤慨しきってわめいた。
「二度と来るな。来るときは茶菓子を持ってこい。あんぱんでも良いぞ」
肝が小さいくせに図々しい奴だ。
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