第5話 小鬼と小物

 明日の朝一番でふかふかの麺麭パンが食べたいという奥様の希望で、ぼくは築地まで英吉利麺麭イギリスパンを買いに行く羽目になった。

 お嬢さんの気まぐれは奥様ゆずりか。しかしお世話になっている方のご要望なので、「行ってくれないかしら」と言われれば、行く。


 日本橋にさしかかったあたりで、磯の香りが漂ってくる。そういえば、黒い犬が出るという噂はこのあたりにもあったのだった。あれは、ただの外国の猟犬だったが。

 途中どこかのミルクホールに立ち寄って、新聞に目を通そうかと思ったが、やめておいた。

 夕刻、人の多い東京はどこもごった返している。

「おい、小僧」

 人ごみの中からキイキイと声が聞こえて、ぼくは振り返った。

「おい、小僧、お前だ。そこの死にそうな奴」

 知らない声だが、どうもぼくを呼んでいるような、余分な指摘がついている。だが人々は立ち止ることなく、橋の上を忙しく歩いている。途切れることのない人の波から、ぼくを呼んだ何者かを見つけるのは至難の技だった。しかも急に立ち止まったせいで、もみくちゃにされる羽目になった。

 くるくるとまわるようにして人波を泳ぎ、なんとか欄干までたどり着つく。ひやりとした手触りが、火照りきった体に心地が良い。


「お前、犬を追っておるのか」

 だから、犬はもう解決した。

 間近から声がして顔をあげると、目の前は川。人がいるはずもない。やれやれと思いながら横を見ると、欄干の上に、拳ほどの大きさの小鬼が座っていた。

 ぼくは一気に疲れが増して、大仰にため息をついた。狐が近くを離れるとこれだ。だからミルクホールに寄るのをやめたのだ。さっさとお屋敷に帰っておとなしくしているに限る。特に、橋だとか辻はいけない。

 こいつは小物だからまだいいけども、人の多いところには、紛れ込んだあやかしも多い。

 振り返って欄干に背を預け、橋の人波をよく見てみれば、うまく化けた者どもがひしめく人の流れに並んで歩いていたりして、どれが人だか化け物だか分からなくなってきた。

 ただでさえ人の顔を見分けるのも難しいような夕闇で、まさに誰そ彼だ。

「おい、なんだその態度は。犬を追っておるのだろうが」

「追ってない」

 むくれて欄干の上で飛び跳ねる小鬼に、ぼくは吐き捨てた。これだけの人ごみならば、ぼくが独り言を言っているように見えても、誰も気にしないだろうし、そもそも気付かれないだろう。

「何を言うておる。とっとと捕まえて何とかしろ」

 甲高い声で鬼がまだジタバタしている。

「だから、犬は掴まえた」

「たわけが。何を捕まえたというのだ、うろうろしとるじゃないか」

 ぼくは欄干から背を起こした。

「どういうことだ。何故それをぼくに教える。ぼくがお前の言うことを信じる道理がどこにあるか」

 妖怪どもには昔から悪戯されたり、化かされたり、食われかけたりしてきた。いい関係などではまったくないし、奴らの言うことなど信じる方が馬鹿だ。

「お前っ。信じないのか!」

「お前らは人を騙すのが性分だろうが」

「それはそうだが、今回だけはそうとは言えない」

 言い聞かせるには説得力の欠ける口ぶりだ。馬鹿にしているとしか思えない。こんなのに構っている暇もないので、ぼくは欄干に預けていた背を起こした。

「あっ、こら、だから話を聞けと!」

「ぼくに教えてお前が得することを言え。そうすれば信じてやる。お前らが得なしに動くわけないからな」

「なんと疑り深い小僧だ」

 小鬼はぷりぷりと憤慨していて、お嬢さんの相手をしている気がしてくる。さすがにお嬢さんは地団駄を踏んだりはしないが。

「あの犬は目ざわりだ。ああいうものがおると、余計なものまでやってきて、町を荒らす。人間たちのごたごたでもう充分じゃ。瓦斯灯だとか電気だとかで夜まで奪われかけるわ、鉄の塊が大きな音で走り回って空気を乱すわで、江戸の妖怪はすっかり疲弊しておると言うのに」

「江戸じゃなくて東京だ」

「ついこの間まで江戸だったわい。人間の都合でころころ変えられてもつまらんものよ」

 この土地が東京と名前が変わってとっくに三十余年だ。この間のことでもない。小鬼は小鬼のくせに、見かけによらず年寄りのようだ。針のような細い腕を組むと、偉そうに小鬼は言う。

「あの犬はよそ者で、我々妖怪とも筋を違えるものだ。我が物顔でうろつかれるのは楽しいことではない。穢れだ」

 よそ者と言えばぼくもそうだが、狐は妖怪たちからそこそこ一目おかれているのか、からまれたことがない。

 それよりも、穢れ、とは。妖怪のくせによくも口にしたものだ。

「良いか小僧、さっさとあの犬を追いだせ。追い出そうとして妖怪たちが動き出す前に、お前が始末をつけろ。わしは自分の居場所でのんびりするのが良いのだ。西洋化だなんだとただでさえ時流が早ようて疲れるのに、面倒事は御免だ」

「だから、何の話だ。ぼくはお前たちに振り回されるのは御免だ」

「のんきな奴め。お前の都合などはどうでも良い。わしのような考えの妖怪ばかりではないぞ。夜は我々の領域だ。侵そうとするのは人間の方だろう。人間どもは、日の元だけでなく夜をも支配していい気になっているやもしれぬが、領分を侵され、狂気と怒りにかられた妖怪を、あなどらぬ方が良い。夜ではなくとも、闇を作り出すことはできるのだからな」


 言われなくても、幼いころからよく妖怪を見て恐い思いをしてきた。やがて開き直りもしたが、やつらをあえて怒らせたいとは思わない。人の理で量れないやつらだ。

 そう思って、もう一度橋を見てみて、ゾッとした。人間の波に紛れた妖怪が増えている気がする。小鬼がぼくに話しかけてきたのは、狐がぼくの近くを離れたからというだけではないのか。

 考えたくもない。ぼくは、キーキーとわめいている小鬼をほったらかして、人の波にもぐりこんだ。




 狐は出かけたかと思うと、日が落ちる前にさっさと帰ってきた。もっと寄り道をして遅くなるかと思ったのに。

 狐の話によると、銀座や新橋で大騒ぎしてお嬢さんと言いあっていた学生の首領格は、本郷に間借りしていて、枝並章聡えだなみあきさとというらしい。

 もう夕刻だし、今から出かけるのは避けたかったが、千歌絵さんの行方について問い詰めるなら少しでも早い方がいい。結局ぼくはまた出かける羽目になった。ちっとも勉学する暇がない。


 いつものようにお嬢さんが前を、少し離れてぼくが後ろを歩いている。

 お嬢さんは袴姿に西洋傘をさして、くるくる回している。狐は姿を消していて、時々ぼくに右に曲がれだとか左に曲がれだとか指示を出す。それをぼくは後ろからお嬢さんに指示するので、ひどく滑稽な気がするが、致し方がない。

 狐がここだと言ったのは、店先に赤と白の螺旋模様の有平あるへい棒が置かれた西洋理髪店バーバーだった。金色の玉が眩しい。西洋化を嫌う攘夷派の文士の下宿としては、皮肉だとしか言いようがない。


 ぼくたちはお店の髭の旦那さまに断って、文士が間借りしているという二階の部屋へ向かった。理髪店の旦那は、ぼくたちのような小奇麗な若者が訪ねてくるのは珍しい、お嬢さんが来るなどともっと珍しい、と吃驚していた。

 教えてもらった一番奥の部屋は、襖の引き戸だった。先に立ったお嬢さんが少し迷ってから西洋式にノックしようと拳をあげたところで、突然戸が開いた。

 いつかの文士が、仁王立ちしていた。

 かき回したようにもじゃもじゃの髪に、継ぎのあたった長着としわしわで膝の白くなった小倉袴を履いて、ふんぞり返っていた。けれど彼はぼくたちを見て、ぎょっとした顔をして、くるりと踵を返した。ピシャッと音を立てて襖が閉まる。お嬢さんは拳をあげたまま、身動きする隙すらなかった。


「ちょっと、お話があるのだけど、聞いていただけないの」

 お嬢さんは襖に向かって大声をあげた。甲高い声が、二階の冷えた木の床やら土壁をやたら反響している。さすがに人の家の中なので、ぼくはお嬢さんの袖を引いて止めた。だけどお嬢さんはまったく気にした風もなかった。

「誰だお前らは。知らん。勝手に入ってくるな!」

 文士も気にしていないようだった。大声でわめき返してくる。

「先日銀座で会ったわ」

「それは分かっとる。どうやってここを嗅ぎつけたのだ、化け物め!」

 どうやらあの夜の出来事と一緒くたにされているようだ。あれは狐の仕業だし、ぼくらのせいではないので間違いなのだが、ここを嗅ぎつけたのは妖怪なので、あながち全部が見当違いと言うわけでもない。

「化け物じゃないわ。とある方に教えていただきました」

 とある方が化け物なのだが、お嬢さんはすましている。

「俺は仕事がある。すぐ出かけねばならん。帰れ」

「仕事?」

「お前には関係がない」

 聞き返したお嬢さんに、文士は横柄だ。しかしそんなことでめげるお嬢さんではない。

「お尋ねしたいことがあるの。お話を聞いたらすぐに帰るわ。京都から取り寄せた半生菓子をお持ちしたんだけど」


 パンと大きな音をたてて、襖が開いた。どうやらこの文士には、人の家に下宿している認識は薄いらしい。手土産を持って行くようにとはぼくの案だが、ものの見事に釣られてくれた。

「婦女子が男と二人で夜歩きなどと、巷を騒がせている女学生のようにかどわかされても知らんぞ!」

 開口一番、言い放った。

「まだ日は落ちていないし、暗くなる前に帰るわ。溝口さんがうるさいから」

 どうにも最近お嬢さんは口が悪くなってきた気がする。

 あきれながらぼくが風呂敷包みを差し出すと、文士はサッと受け取った。

「食べ物に罪はない故もらってやる」

 ふんぞり返って言うと、襖を開けたまま踵を返す。

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