第4話 頑固と気まぐれ

「警察には」

「我が家だと思っていたから、お家の方も安心していて通報はしていないそうなの。そうでないにしても、きちんと報せが来たのだから様子を見るって」

「艶書のことは」

「きっとご存知ないし、言えなかったわ。だから、溝口さんの知恵を借りたいの」

 ぼくはため息ひとつ、本を懐にしまった。


「あなたたち、また何か隠し事をしていませんか」

「なんのこと」

 お嬢さんの表情がますます硬くなる。

「最前だって、夜中に抜け出したことを黙っていたじゃないですか。ぼくの意見を求めるなら、妙な隠しごとはやめてくださいよ」

「先日は、それは、そうだったけれど……。仕方ないじゃない。外聞がいいとは言えないことだもの。それくらいわかっています。今回は本当に何も知らないの」

 分かっていたのか。ぼくは内心あきれたが、表に出さなかった。お嬢さんがズレているのはいつものことだし、まぜっかえすような空気でもない。


 千歌絵さんは、お嬢さんと違って、ぼくの言葉を素直に聞き入れていたし、冷静な人のようにも思う。

 でもその実、お嬢さんより困った人かもしれない。

 狼藉者の噂を聞きつけて、ひとりで見に行ってしまうような、妙に活動的な人だ。しかもあわよくばつかまえようなんて無謀なところもある。

 ついでに言うと、艶書を押し付けられた後、家まで送るというお嬢さんの申し出を頑として断るほど頑固な人だ。


 鉄砲玉のようなお嬢さんも困りものだが、冷静に考えて行動に移す人のほうが、より厄介かもしれない。

 それにどれだけ真面目で冷静な人でも、うちのお嬢さんと同じく、箱入りのお嬢さんだ。また何かに首を突っ込んで問題に巻き込まれたのか、どこかへ出かけていって帰れなくなっていることも考えられる。

 それに、ぼくが隠し事と言ったのには、もうひとつある。ぼくはさすがに少しためらったが、お嬢さんに言った。


「……駆け落ちでは」

「そんなことはないはずよ。聞いたことがないもの」

 お嬢さんはやけにはっきりと言った。

「お嬢さんたちにも隠していたということはないですか」

「そんなはずないわ。私たち、もしそういうことがあったら、真っ先にお互いに相談をして、手助けをする約束をしていたもの」

 お嬢さんは、似合わない固い表情をしている。


 お嬢さんたちの結婚と言えば、たいていが政略結婚だ。

 だからこそ大人は、外国文学や、外国文学に影響を受けた小説を読んで、彼女たちが恋愛ごとに興味を持つことを禁止したいのだ。風紀の乱れなどと言って、女性の自我を認めることを嫌っている。

 道具にできなくなると困るからだ。

 お嬢さんは世間知らずで、鉄砲玉でも、馬鹿ではない。小説が禁じられる理由も、憧れだけで動いてしまえば、たくさんの人に迷惑をかけることも、知っているはずだ。

 だからこそ、協力する、というのは相当な覚悟の元での約束……なのだと思いたい。もし、行動に移すとしたら尚更。


 しかし今回は確かに、艶書を見ている千歌絵さんの冷静な表情は、恋ゆえになりふり構わず、という行動に出そうな人には思えなかった。自分の袖に忍ばされたものなのに。

 いや千歌絵さんなら、冷静に行動に出そうな気もするのが怖いところだが。


「女学生が失踪したっていう噂があったし。……先日の悲鳴」

 お嬢さんはうつむいて、ぽつりと言葉を落とした。結い流しにした黒髪が、うつむいた首筋に汗ではりついている。

「探して駆けつけるのだったわ」

「千歌絵さんのお家とは方角が違いますし、あれは一昨日のことです」

「そうだけど。やっぱり何か起きているのよ」

「悲鳴が聞こえただけで、女学生とは限りません。攫われたとは限りません。リボンが落ちていただけです。悲鳴の人が落としたとも限りません。それこそ、野犬に行きあったのかもしれないですし」

 あの時は狐も何言わなかった。獣がいれば何か言うだろう。……言わないかもしれないが。

 何が起きたか知るために持ち主を探そうにも、道に落ちていたリボンは巡査が持って行ってしまったし、狐は今更犬の真似ごとなんてしやしない。

「一晩戻っておられないだけでしょう。悲観するには早すぎます」

 うん、とお嬢さんはうなづくが、表情は暗いままだ。

「雛菊会のみんなと別れたあと、わたしも家でおとなしくしているのだった。千歌絵さんをお誘いしなければこのようなことにはならなかったのかも知れないわ。あの日、新橋で揉め事にかかわらなければ。何にでもでしゃばって首をつっ込んだりしなければ」

 お嬢さんは、考えるより前に突っ走る人だ。そんな人が悔やんでしょんぼりしているのも居心地が悪い。

 困惑するぼくに、お嬢さんは顔をあげた。


「ねえ、この間のあれが関わっているのではないかしら」

「あれって? この間のあれですか?」

 はっきりしない物言いに、ぼくは眉を片方あげた。いや、お嬢さんの言いたいことはわかるけども。

「銀座や新橋で会った狼藉者たちよ。艶書を忍ばせたのは、あの中の誰かでしょう。本物の百鬼夜行が出て、千歌絵さんを連れて行ったのでなければ」

 風評にすぎない女学生の失踪事件だとか、駆け落ちを心配して、もやもやしているよりは実のある意見ではある。でもぼくは膝を打って賛同しかねた。

 個人に恨みを向けるような連中のところに突撃しては、お嬢さんも標的になるかもしれない。

「それはそうですが、どこの誰だか分かりませんよ。あの中の誰とも知れませんし。そもそも、人品卑しからぬ使者がやってきたのでしょう。彼らはどう見ても人品卑しい感じがありましたが」

「変装したのかもしれないじゃない。あの口ぶり、どこかの大学の国文学科に通っている学生たちだと思うわ。一番大騒ぎしてた人が首領格だと思うの」

 変装で隠せるものだろうか。

「しかし東京には、車夫と同じくらい学生がいるんですから」

 人は職にあぶれたら車夫になる、と言われるくらい、東京に俥は多い。小回りが利くし馬のように世話をする必要がないからだ。そして、あの文士のような学生も、やたらと多い。

「あちこちの学校を回って、張り込んでいたら見つかるんじゃないかしら」

 過激派の国粋主義者なら目立つだろうから、探しやすいかもしれないが、そうは言っても。

「先程ご自分で、おとなしくしているのだったと言われたばかりじゃないですか」

 余計な危険を招くことになりはしないか。お嬢さんがしょんぼりしているのは居心地が悪いが、しかしだからといって、なりふり構わず突っ走って行かれるのは、とても困る。

「あの時は、そうよ。でももう何かが起きているのよ。もし何かに巻き込まれたのだとしたら、今動かなければ手遅れになるかもしれないわ。そんなことになったら、後悔してもしきれない。わたしの責任なのだから、わたしがなんとかしないと!」

 問題を大きくするかもしれないとは考えてくれないのだろうか。

「とんでもなく時がかかりますよ。大学も今は休暇中なのですし」

 朝から夜まで、大学の門に張り付いていることなどできないだろう。……やりそうだけど。

 それよりも、気にかかったことと言えば、もう一つある。

「まさか、橋本家の御曹司が千歌絵さんに文を忍ばせたということはないですよね」

「きっと、そういうことはないと思うわ」

 お嬢さんはやけにきっぱりと言った。

 どういうことなのだろうか。

 思ったところで、くつくつと笑い声がぼくの耳元で聞こえた。


「わしが見つけてきてやろう」

 狐がするりとぼくの首の後ろから顔を出して、お嬢さんがぎょっとした顔をする。ふさふさとした毛がぼくの首や頬をかすめた。暑くてくすぐったい。


 狐は、ぼくのような「見える」者にだけ見える時と、普通の人にも見えるように姿を現している時がある。今は、お嬢さんの顔を見るに、ぼくにしか見えていないということはないだろう。ぼくは大仰にため息をついてやった。

「アカトキ。人がいるところでは出てこない約束だろう」

「先般はわしに助けられたくせに何を言うか」

「ぼくがいなくなると困るくせに」

 狐は長い鼻面を揺らして笑う。しょんぼりしていたはずのお嬢さんは、まっすぐに狐を見て、顔を輝かせていた。

「先日は、ありがとう。お礼を言いそびれていたわ、ごめんなさい」

 両手を組んで言うお嬢さんに、狐はにやにやしている。口の端が片方大きく吊り上って、気味の悪い笑いを浮かべているが、狐の表情の機微なんてお嬢さんはわからないだろう。返答がないのもまったく気にせず、お嬢さんは言った。

「ねえ、触ってもいい?」

 狐を見ながら、たぶん、ぼくに。

「先日触ったでしょう」

「あのときは急だったし、びっくりしたから、覚えていないもの」

 お嬢さんは、そっと狐の鼻面に掌を置いた。頬を赤らめているのは、暑気のせいだけではないだろう。狐はにやにやしながらお嬢さんを見ている。大きく裂けた口の端がますます、ぎゅうと吊りあがっていた。

 嫌な笑い方だ。ぼくは声を低くして、狐に言った。

「どういうつもりだ」

 ぼくの言葉に、狐は、くくくくと愉快そうに笑った。

「なあに、あちらこちらの臭いが少し気になっての。見てきてやろう」

 押しつけがましい言い方だ。狐は、お嬢さんの手を逃れて、するりと宙に浮かびあがった。中庭の日影を避けて、日の元へ泳ぐように宙を舞う。ふさふさの尻尾がふわふわと回った。

 狐が動くなら手っ取り早いのは確かだ。でも、ぼくらはお互いを利用しているけれど、利害が一致する範囲を超えるつもりはなかった。怪異になんて本来は頼るものではない。狐が気まぐれだというのとは別に、彼らは彼らの思惑で動いていて、ぼくらとは考えが違いすぎる。それに利用すれば利用される。


 けれど、ぼくの思いなど気がつかないお嬢さんは、狐に手を合わせた。

「お願いします」

 他に手立てがないのも確かだ。

 どうせなら千歌絵さんの所在を探してくれればいいのだが。

 狐はお嬢さんを見て満足げに、ふん、と鼻を鳴らす。そしてぼくを見た。

「東京に妙な奴がいるぞ。せいぜい気をつけることだ」

「お前こそ、やたらと騒ぎを起こすなよ。妙なやつなどあちらこちらにいる」

 人も妖怪も。

 ぼくの言葉に、狐はにやりと笑う。


幽鬼おにか、神か、狐か、木精こだまか」

 くるりと回って姿を消した。

「違うな。もっと業の深いものだ」

 声だけが後に残った。それも風にさらわれて消える。

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