第3話 リボンの名残

 白い紙には、あの乱雑な若者たちには不似合いな細い字で、短い歌が書かれている。


 夏は夜 君はつき 闇にうつくし


「清少納言ですか」

 枕草子をもじった恋文のように思える。夏は夜、つきのころはさらなり、闇もなお。夏の良いところをあげた有名な部分だ。

「夜に会いたいという誘いでしょうか」

 千歌絵さんは、自分の袖にひっそりと忍ばせてあった艶書を見ているとは思えないような、冷静な表情で分析した。

「溝口さんはどう思う?」

 お嬢さんたちは、じぃ、とぼくを見た。

「男の方の意見と申されましても、ぼくはそのような艶事には縁がないもので、お役には立てないかと」

「……そうね」

 お嬢さんは吐息ひとつ、あきらめたようすで言った。

 あっさり認められると少しだけ癪だ。

 勉学と男爵家への恩返しに懸命な今はそのようなことに気を取られている暇はない。本当はお嬢さんの妖怪騒ぎなどに付き合っている場合でもない。ただ今回は、少しいつもと話が違う。


「ぼくではなく別の方にご相談なさったほうが良いのでは。先生とか、旦那様とか」

「お忙しい兄さまにご迷惑はかけられないわ。馨子さんの御病気のことで、もう心配事を抱えておられるのだし、これ以上心痛を増やしたら倒れてしまうわ。お父様はまだ戻られないし」

 ぼくへの迷惑はどうなっているのだろうと思ったけれど、お嬢さんは続けた。

「お父上や他の男の方に相談した人もいたけれど、みんな、警察に言われたのと同じようなことを言われて叱られたのですって。溝口さんは、ふしだらだとか、気のある風に思わせたんだろうとか、言わないじゃない」

 それはそうだけれど。何事も真っ向から突き進んでいくお嬢さんが、男を翻弄して遊ぶなんて思えないからだ。

「先ほどの集団の中に、千歌絵さんに文を忍ばせた輩がいる見込みは高いですね」

「そうね。それがわかっただけでも、何かの手掛かりになるかも。ふしだらだと女学生を嫌いながら、女学生に艶書を押し付けるなんて、胡乱な人たちね」

 さらに言えば、女子の教育を嫌いながら、清少納言をもじるなど、あまり真っ当な感情とは思えない。本当にただの艶書で気を引きたいのだとしても。


「わたしたちも十分に気をつける必要がありますね」

「これは千歌絵さんの袖に入れられていたものよ。お気を付けになって」

 千歌絵さんの両手をしっかりと握って訴えるお嬢さんに、千歌絵さんはしっかりとうなづいた。少しも表情を変えずに、真面目に言う。

「明るいうちに帰りましょう」

「家までお送りするわ」

 お嬢さんの申し出に、千歌絵さんは「大げさですわ」と丁寧に断った。

「何度も押しかけられた訳ではありませんもの」

「でも、心配ですわ」

 お嬢さんは食い下がった。けれど千歌絵さんは、控えめなようでいて、大変に頑固だ。お嬢さんが何度か申し出たが、断った。

 暗くなる前にとミルクホールを出て、二人はそれぞれの鞄と風呂敷ごと、小説を交換する。

「とにかく、お気を付けになって」

 風呂敷を渡すとき、まるで手を取り合うような風体で、お嬢さんが訴えた。

 千歌絵さんはしっかりとうなづいた。動じない表情が頼もしくも見え、危うくも感じる。

 お嬢さんに手を振り、髪帯リボンをなびかせて、雑踏の中に消えていった。




 いつも通りに、お嬢さんが前を歩いて、ぼくが少し後ろをついていく。お嬢さんのすっきりした背を眺めながら、乗合馬車に乗るべきか迷いながら歩いていた。

 唐突に――遠くで悲鳴が聞こえた。

 雑踏のざわめきにまぎれて、気のせいかと思ったが、少ししてもう一度。


「悲鳴だわ!」

 お嬢さんが甲高い声を上げて、ぼくを振り返りもせずに駆けだした。

「お嬢さん、待ってください!」

 ぼくは慌てて飛びつくように、お嬢さんの腕を掴んだ。

 人の多い往来で、日の高いうちに、男女が手を取り合っているなどと思われては大変だが、この場合は致し方がない。お嬢さんに置いていかれる前に掴まえないと、追いつけない。

「まあ、溝口さん、あなた、また!」

 お嬢さんは顔を真っ赤にして振り返った。二の句を継げずにいる隙に、ぼくは素早く言った。

「とりあえず神田明神のお守りを持って、ここで待っていてください。持っていますよね?」

 これは、この悲鳴は。ぼくに言わせるとこれは。

 何か、今までと違う。

「もちろん、持っているわ」

 お嬢さんの切り札であるお守りを認めたのが良かったのか、お嬢さんはわめくのをやめた。不満いっぱいの顔ながらも、口をゆがめてうなづいた。それを認めて、ぼくは念を押す。

「いいですね、ここにいてください。ぼくが一緒にいるときにお嬢さんに何かあっては、旦那さまに申し訳がたたないですし。先生にも頼まれたばかりで、立場がないんですから」

 わかったわ、とお嬢さんがつぶやいたところで、ぼくはすぐに走り出した。今日はどれだけ走ればいいんだ。お嬢さんにつきあっていたら、汗が乾く暇もない。


「どっちだ?」

 つぶやくと、あちら、と狐の声がする。どこかおもしろがっている様子なのが気になるが、いつものことと言えばいつものことだ。

 大通りを離れて、路地へ入る。人通りが極端に少なくなり、道がどんどん暗くなる。

 ぬるい風が頬を撫でて、汗が次から次に流れてくる。

「妙な臭いが残っているな」

 ふいに狐がつぶやく。

 瓦斯灯がぽつんと立っているほか、何も目立ったことのない道だった。そのそば、土の道の上に、赤い髪帯リボンが落ちている。




 お嬢さんを流しの俥になんとか乗せて先に帰し、駆けつけてきた巡査に話をしていたため、男爵邸に戻るのが随分遅くなってしまった。お女中が握り飯をとっておいてくれて助かったが、疲れてしまって、勉学もそこそこに寝てしまった。夜が明けてガックリした。

 翌日は草むしりに手こずってしまい、ようやくは屋敷内の階段や廊下の履き掃除を終えて、勉学の時間が取れたところだった。

 今日こそ本当にお嬢さんと遊んでる暇はない。休暇中の課題を進めるのだ。


 ぼくは中庭に面した縁側に座していた。

 男爵家は表向き洋風の建物だが、奥は数奇屋造りになっている。小ぢんまりとした中庭は、昼でも強い日差しは差し込まない。畳の部屋はひんやりとしていて、障子の張られた格子窓が、夏の強い日差しを柔らかく部屋の中に落としている。

 ここは本来ぼくが立ち入るような場所ではない。だからこそお嬢さんに見つからないだろうと思っていた。

 だけど、ぼくの考えが甘かった。お嬢さんは、やけに気落ちした様子で、ぼくの後ろに正座した。いつもの勢いがない。そんなときでも、お嬢さんは背筋がのばして、膝の上に指先をそろえてきれいに座る。

 ミルクホールにでも行くべきだったか。でも、あちらはあちらで騒々しく、どこで知り合いの学生にばったり行き合うか分からないから、こちらにしたんだけど。


「どうなさったんですか」

 お嬢さんは、うん、と小さくうなづく。

 今日もお嬢さんは海老茶の袴をはいている。その袴をぎゅっと握った。

「心配になって、千歌絵さんのお家にうかがったの。千歌絵さんが、昨夜から帰っていないのですって」

 帰っていない、とは、不穏な話だ。ぼくは本に栞を挟み、横に置いた。

「どこかで外泊されているのでは」

 場合によっては千歌絵さんの名誉にかかわることだ。軽々しく言ってしまって、お嬢さんが怒るかと思ったが、お嬢さんはうつむいて自分の手を見ている。

「千歌絵さんは、夜遊びするような人ではないわ。千歌絵さんのご両親とも学校の師範をされていて、お家の方も厳しいのよ」

「先日は夜中に抜け出して、狼藉者を捕まえようとなさっていたようですが」

「好奇心が勝るとそういうこともあるようだけど、滅多なことではありえないわ」

 それなら、好奇心が疼くようなものや出来事があったのだろう。百鬼夜行の噂だとか、黒い犬の騒ぎだとか。そういうような。

「おうちの方がおっしゃるには、人品卑しからぬ、どこかの家のお使いが来たのですって。娘さんを我が家へご招待しており、しばらく勉学などご一緒したいと思っておりますって、言われたそうよ。高辻男爵のお家の方かと思っておりましたって言われたの。わたし、休暇の間にお誘いしようかしらと思っていたけれど、まだお声もかけていなかったわ」

「お嬢さんの知らないお友達の家に行かれただけなのでは」

「そうかもしれないけれど……。唐突すぎて、嫌な感じがするわ」

 確かに、頃合いが良すぎる。誰かもわからぬ輩から艶書を押し付けられて、姿を消すなんて。

 お使いがやってきた、というのも気になる。きちんとした招待ならば何の心配もないが、嫌な感じがする。

 それはお嬢さんも同じなのだろう。

「きっと何かがあったんだわ。女学生の失踪事件の噂もあるし、もし攫われたなんてことだったらどうしよう」

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