第2話 君が袖に忍ばせる

 文士崩れが、ぎゃああああとひときわ大きな声でがなった。

「日の光の元でも奇怪な術を使うとは、なんとも無礼千万! いずれ成敗してくれる!」

 何が無礼千万なのだかわからないが、わあああと叫びながら黒法被を翻して、一目散に逃げて行った。さっきまで青年を取り囲んでいた若者たちも慌てて後に続いた。口々に何かをわめきながら、一斉に走り去って行く。

 さあっと潮が引いたように、むさくるしい集団はいなくなっていた。


 何なんだろう、あの人たちは。逃げ足はとにかく早い。

「溝口さん、ねえ溝口さん! もしかしてもしかして!」

 お嬢さんは、集団が去っていったことなど気にしていない。最高にワクワクした顔でぼくを見た。

 騒ぎは終わったのに気づいて、まわりの人だかりがざわめきながら去っていく。見知らぬ男の山高帽に乗っかっていた狐が、ひらりとぼくの肩に乗った。お嬢さんには見えていない。きょろきょろとぼくの周りを見ている。狐はそれが愉快でたまらないようだ。

「辻風でしょうかね。大事ありませんか」

 素知らぬ顔で言うと、お嬢さんはむくれた。



「お元気そうですね、環蒔さん」

 声をかけられて、お嬢さんは慌てて振り返る。

 先ほどの青年だった。照りつける日の下で、汗のにおいすら感じさせない。

 むくれていた顔などどこへやら、お嬢さんは目を見開き、うろたえた声を上げた。

「まあ、気がつきませんでしたわ」

 お嬢さんがこんな声を出すなんて、珍しい。何のことはない一言だが、どこか慎重に言葉を発しているように思える。

 お嬢さん自身がそんな自分にうろたえたようで、きゅっと唇をきつく結んだ。青年に向き直り、居住まいを正す。よどみない仕草で、丁寧に頭を下げた。


「お久しぶりです。征斉まさなり様」

 お嬢さんが、良家のお嬢さんに見える。青年は申し訳なさそうに愁眉を寄せた。

「ご不快な目にあわせて申し訳ありません。大事ありませんでしたか」

「こちらこそ騒ぎ立ててしまって、お恥ずかしいわ」

 お嬢さんの言葉とは思えないことを言って、青年に微笑みかけた。そしてこちらを振り返る。

「我が家でお世話している書生の溝口さんと、お友達の千歌絵さんです。溝口さん、橋本征斉様よ」

 聞き覚えのある名前だと思ったが、ぼくはようやく青年の正体に思い至った。

 三田にお屋敷のある、橋本子爵家の御曹司か。この間の犬の飼い主だ。

 青年はぼくらに会釈をする。癖のない髪が、さらりと揺れた。

 身なりがよく、折り目正しく、いかにも良家の子息という風体だ。上品にこちらへ微笑みかける表情や、指先までの所作をとってみても、さっきの集団とはあまりにも違う。知り合いのようだったが、なぜあのようなことになっていたのだろう。深入りしたくはないから、知る必要はないけど。


「先日は犬を拾ってくださったそうで、ありがとうございます。ご面倒ばかりおかけしていますね」

「そのようなこと。洋行りゅうがくなさっているとうかがっていたので、驚きましたわ。お戻りになっていたのですね」

「先日、母がお宅へうかがって、ぼくが戻っているとお知らせしたようですが。ご存知ありませんでしたか」

 いえ、とお嬢さんは、小首を傾げて青年を見上げた。

「わたしは無鉄砲だから、あえて誰も教えてくれなかったに違いありませんわ」

 ――よく、わかっていらっしゃる。

「本当は、当分帰る予定はなかったのですが、今は長期ながの休暇なもので。母が少しくらい戻ってもいいだろうと言ってきたものですから、のこのこと帰ってきてしまいました」

「あちらも今はお休みですのね」

 ええ、と青年は微笑んだ。それから少し、申し訳なさそうに、言いにくそうに続ける。

「高辻男爵家の方とはお会いしないよう、きつく言われているので、今日のことはどうぞご内密にお願いします」

 橋本子爵家と、ぼくがお世話になっている高辻男爵家とは、以前は仕事上などでそれなりに親交があったようだが、今はすっかり途絶えている。

 ぼくがお屋敷にご厄介になりはじめたのがこの一年と少し前のこと。その前にあった出来事が原因だという。

「ええ、そう、そうですわね」

 お嬢さんがうなづくと、青年は小さく頭をさげた。それからぼくと千歌絵さんを見て、順番に会釈する。それでは、ともう一度お嬢さんに挨拶をしてから、踵を返した。

 雑踏に溶け込んでいく白い襯衣シャツの背を見送り、お嬢さんは大きくため息をついた。


 くくくく、とまた笑い声が聞こえる。お嬢さんも千歌絵さんも気づいていないようだから、ぼくにしか聞こえていない。

「におうな」

 喉の奥で笑いながら狐は言う。御曹司は、汗の臭いひとつ感じさせなかったが。

「飼い犬の臭いじゃないのか」

「ああ、犬の臭いだ」

 狐は何がおかしいのか、愉快気に笑っている。

「環蒔さん」

 ふいに千歌絵さんが、真面目な表情でお嬢さんを呼び止めた。いつもと変りないと言えばそうなのだが。

 千歌絵さんはお嬢さんに手を差し出した。

「これが、気づいたらわたしの袖に」

 折りたたまれた白い紙だった。



 結局ミルクホールの隅っこに腰を落ち着けたお嬢さんたちは、檸檬水レモナーデを前にしても、いつぞやのようにウキウキと話したりはしなかった。脚のついたグラスの、細かい花の細工についての感想もない。

「今日はそもそも、雛菊会の皆で小説を交換してから、皆で黒い犬を探す計画を練るつもりだったの。わたしは、その件は解決したと皆さんにお伝えする心積りだったわ」

「やっぱり。やっぱり企んでたんですね」

「企むなんて人聞きが悪いわ。東京に危険なものがうろついているのだったら、放っておけないじゃないの」

 お嬢さんは唇をゆがめたが、すぐに神妙な顔になった。

「それが、雛菊会を脅かす偏執者の話になって。少しでも戻りが遅くなると怖い目に合うかもしれないから、顔を合わせただけで今日はお開きにしたの」

 また面倒事のにおいがしてきた。しかし今回は、お嬢さんたちの身近に迫る話のようだ。あまり無下にもできない。

「何が起きているのか知りませんが、お二人も早くお帰りになったほうがいいのでは」

「今からわたしたちで対策を練って、皆に伝えるのよ」

 やっぱりそう来た。

 次から次へと、お嬢さんはいろんな話を聞きつけてくるものだ。

 しかし女学生に絡んだ事件については、実際先日お嬢さんが騒いでいたように、行方不明になるような事件も起きている。実際にはなぜ行方知れずなのかわからないのだが。

 さらわれたのか、駆け落ちなのか。

「何が起きているんです」

 神妙に問いかけると、お嬢さんも、声をいっそう落として言った。

「雛菊の会の皆を待ち伏せて、艶書を押し付ける輩が頻発しているの」

艶書ラブレターですか?」

 少しばかり拍子抜けした。そんなぼくの様子に、お嬢さんは気を悪くした様子で続ける。

「幾日も、待ち伏せて押し付けてくるのですって。しつこく押し付けるのは、元が好意であっても、迷惑に違いないし、恐ろしいわ。そんな目にあっているのは一人だけではないの。お話を聞いてみると、みんな別々の相手に、同じような文を押し付けられているのよ」

 妙な流行りがあるものだ。

「おかしな輩につけまわされているのなら、警察に訴え出たらいいのでは」

「自意識過剰だとか、君を思うあまりの行動なのだから寛大な心で許してやりなさいとか言われたんですって。終いには、君が気のある風に思わせたんだろう、男を振り回して遊ぶものではないと言われたと泣いていたわ。侮辱でしかないわ!」

 お嬢さんは憤慨して声が大きくなる。周りの客が振り返り、お嬢さんは口をつぐむ。

 ただ毎日待ち伏せられて手紙を押し付けられるのでは、何の罪になるのかわからない。しかし大変な迷惑であるのは確かだろう。いつか昂進エスカレートすることも考えられる。

 このところの珍妙な事件が続くことや、女学生の失踪なんかもあることを考えると、警察の対応は悪手だと思えるのだが。珍妙な事件が多いからこそ相手をしていられないということなのかもしれない。

「男の方のご意見もうかがいたいと思って、改めて溝口さんも交えてこちらで待ち合わせをするに至ったというわけ」

 お嬢さんは、なぜか得意げに言った。

「お二人もそのような輩につけまわされているのですか?」

 となると一大事なのだが。

「いいえ、わたしたちはそのようなことはないわ。……そうだったのだけど」

 お嬢さんは、テーブルの真ん中に置いた白い紙を指さす。千歌絵さんが淡々と継いだ。

「とうとう、わたしたちの元にもやってきましたね」

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