第三章 ハイカラ娘と艶書(ラブレター)の罠

第1話 再び、ご学友と新橋にて

 とある日の夕刻、ぼくは何故かまた、お嬢さんと新橋駅前にいる。

 今日こそはお嬢さんの邪魔につきあっている場合ではない。はずなのだが。


 お嬢さんは、雑踏に手を振った。

 そこにいるのは、金縁眼鏡も眩しい、ピンと背筋を伸ばした海老茶袴の女学生だ。髪は編んで輪にして後ろに下げて、まがれいと《マーガレット》にしてあり、髪をまとめた髪帯リボンが肩まで垂れている。時好の最先端の権化のような千歌絵さんは、こちらに手を振り返した。

 今日は布の四角い鞄を持っている。カブセのついたバッグはかっちりと蓋が閉まって、肩にかけた紐をぎゅうと握りしめていた。


「千歌絵さん、素敵な鞄をお持ちね」

 お嬢さんは、感嘆の声をあげる。

「急拵えですけれど、風呂敷でしつらえました。これなら落としても中が見えることはありませんもの。先日は迂闊でした。こうなったら革の学生鞄がほしいところですわ」

ベルトを締めてしまえば一安心ですものね」

 ええ、と千歌絵さんは神妙な顔でうなづいた。そしてぼくの方を向く。

「先日はご活躍だそうですね」

 真面目な顔で、下衆な商人のようなことを言った。

「銀座に出る不逞の輩を追い払ったとか」

 ぼくはちらりとお嬢さんを見る。よもや狐のことは千歌絵さんには話していないとは思うけれど。お嬢さんはきょとんとした顔をする。ぼくは千歌絵さんに向き直った。

「警察に密告しただけです」

「的確な判断ですね」

 千歌絵さんはもっともらしくうなづく。どうやら狐のことは知らないようだ。しかし細かいことを聞かれる前に、さっさと帰りたい。この間のようにミルクホールに行って時を食うのも御免だ。


「それで、今日はどのようなご用件なのです」

「できればこのような往来では話したくないことなの」

 お嬢さんはぼくの思惑を知ってか知らずか、神妙な顔で言った。ケケケケと、どこからか狐の笑い声が聞こえる。うるさい。

「ですがお嬢さん、ぼくはお庭の草取りをしないといけないので、あまりゆっくりできないのですが」

「まあ、このような陽気でそんなことをして、倒れてしまわないの?」

 お嬢さんの言う通りなのだが、放置するわけにもいかない。

 男爵家には和洋の庭園があり、大変に広い。春先の草取りが甘かったようで、草が生えてきてしまっていた。先日伯爵が見えた時に奥様が気になったようで、お客様がいらしてあれでは恥ずかしいと言われてしまったのだった。

「万全に備えますからご心配は無用です。早く草をむしってスッキリしたくてたまらないんです」

「そうなの。わかったわ。こんなところでは作戦も立てられないから、どこかで手短にお話しするわ。少しだけ知恵を貸してちょうだい」

 ここに来るまでにあきらめてはいたのだが、解放してもらえそうにない。

 でも、それ以前に、作戦って。すごく嫌な感じだ。また何を企んでいるのか。早々にお屋敷に戻ってしまって平気なものだろうか。

 仕方ないので、連れだって歩き出したお嬢さんたちの後ろをついていく。


 ほんの数歩進んだ時だった。

「いつもいつも、馬鹿にしやがって!」

 わあわあと大声でわめく声があたりに響き渡った。

 照りつける日差しの下を、たくさんの人がせわしなく歩いていく中、流れが滞っている場所がある。人だかりができていた。

 騒ぎとはなるべくかかわりたくない。

「お嬢さん、巻き込まれると危ないですから、迂回しましょう」

 言ってる間に、お嬢さんは駆けだしていた。袖が名残のようにたなびいている。ぼくは千歌絵さんと顔を見合わせた。千歌絵さんは慣れたものなのか、眼鏡を押し上げてから、すぐ足早にお嬢さんを追いかける。

 ああ巻き込まれたくない。内心の声を抑えに抑えて、ぼくは大声を上げて走り出した。

「お嬢さん! 後先考えずに駆けるのはやめてください!」

 お嬢さんの向かう先では、袴姿の若い男たちがわさわさと集まって、何やら大声でわめいている。ただでさえ暑いのに暑苦しい。

 男たちは、ひと固まりになって、誰かに詰め寄っているようだった。

 わめいている男たちに押し寄せられても、動じることなくひとりの若者が立っている。

「君たちの頼みにはちゃんと応えているつもりだが」

 皺ひとつない白い襯衣シャツに、艶やかな黒髪の、爽やかな青年だった。普通なら身の危険を感じそうな状況で、声には怯えも嫌味もない。穏やかに言葉を返す様子には余裕がある。

 懐手にふんぞりかえっていたり、猫背の文士たちとはあまりに異質だ。それが余計に、若者たちを煽っている様子でもあった。

「お前は遊んでいるだけではないか!」

 群れの一人が囂々ごうごうと怒鳴る。

「おもしろそうだから、話に乗ったんだよ。そうだろう。楽しんで何がいけないんだ」

 なんだと、とか、馬鹿にしやがって、とか、わあわあと声が上がる。


「あなたたち!」

 お嬢さんのよく通る声が、いつもの数倍の大きさで辺りに響いた。離れていても耳がキンキンするのだから、間近で叫ばれた彼らは、よほど驚いたことだろう。若者たちは、仰天してお嬢さんを振り返った。

「大勢でひとりを取り囲むなんて、卑怯だわ!」

 取り囲んではいないのだが、多勢であるのに違いはない。

 若者たちは一斉に眉間にしわを寄せた。

「なんだお前は!」

「出しゃばるな! これだから女学生は」

「身をわきまえて控えていろ!」

 ああ、とてもとても、既視感がある。

 肩で息をしながら、ぼくはようやくむさくるしい集団のそばにたどり着く。先にたどり着いていた千歌絵さんの横をすり抜けて、集団と対峙しているお嬢さんのもとへそっと近づいた。千歌絵さんはなぜか、髪の乱れも、疲れた様子もない。

「みなさん、落ち着いて。このような、往来で、騒ぎを、起こすものでは、ありません」

 息も絶え絶えながら、ぼくはなるべくさりげなく、お嬢さんの前に出た。何を揉めているのか知らないが、ぼくの、何よりお嬢さんの見えないところでやってほしい。青年の余裕の様子を見ると、さほど切羽詰まった状況でもなさそうだし。

「なんだお前は!」

「こんな明るいうちから女学生どもと破廉恥な!」

 明るいうちじゃなければもっと悪いじゃないか。

 わけのわからない罵声が今度はこっちに向かってきた。

 ケケケケと耳慣れた不愉快な笑い声も聞こえる。いつの間にか、遠巻きに野次馬が集っている。


 狐が、その中の男がかぶった山高帽に座っている。悠然と前足を交差させて、その上に頭を乗せ、ニヤニヤしながらこちらを見ていた。おもしろがっている。誰も騒いでいないところを見ると、一応普通の人に見えないように姿を消してはいるようだ。

 まったく。ただ眺めて面白がっている間はいいけど、便乗していたずらを仕掛けだしたら面倒だ。

 ぼくはおもむろに、懐に手を入れる。

「騒ぎを起こすと、すぐに巡査が駆けつけますよ」

 銀色の笛を取り出した。先日の笛がまた役に立つとは。

「……あっ!」

 群れの中から誰かが叫ぶ。

「お前、この間……!」

 ぼくはこんなむさくるしい集団には縁がないはずだが。覚えがないかと言えば、完全にそんなわけでもなく。覚えていたくなんかないけど。

「あら?」

 お嬢さんも、ぼくの後ろで声を上げる。止める間もなく進み出て、若者たちを次々に指さした。

「あなた、この間の夜も見たわ。あなたも、あなたも」

 この間の夜。夜に出歩いたのと言えば、医者先生の家に行ったのを除けば、銀座の一件だ。お嬢さんが、ぼくの知らない間にお屋敷を抜け出しているのでなければ。

 夜中の騒動で、しかもちらりとしか見なかった若者たちの素顔を、お嬢さんはよく覚えているものだ。

 しかし、先日は先頭にたってお嬢さんともめていた文士崩れが見当たらない。

 以前、夕刻にこの新橋でお嬢さんにぶつかった、あの――


「お前たち、何を大騒ぎしている!」

 ずかずかと、黒い法被がぼくらと若者たちに間に割り込んできた。

「こんな奴にたかって、大事など成しえんぞ! 往来で悪目立ちするな!」

 偉そうにふんぞり返って、お嬢さん並みに大きな声でわめいた。悪目立ちを悪化させていることに気づいてもいない。

「あら」

 お嬢さんがまた場違いな声をあげる。

「あなたも、この間の夜に見た人でしょ。新橋でも前に会ったわ」

 そうだ。千歌絵さんにぶつかって、お嬢さんと口論になった文士崩れだ。往来で悪目立ちをするななどと、よく言えたものだ。

 ちょうど彼のことを考えていた時だったので、縁でもあるかのようで、とても嫌な感じがする。

 文士崩れは、今頃お嬢さんの存在に気づいたようだった。血気盛んだった顔が、みるみる青ざめる。

「おかしな術を使う小娘!」


 同時に、煉瓦敷きの道に温められた風が、ぬるりと動いた。

 人々のまわりをぐるぐると、渦巻くように吹いたのが分かった。足を撫でるように。

 何事かと、むさくるしい集団や野次馬たちが、足元を見た。途端にひときわ強く、辻風が巻きあがる。髪を袖をもてあそばれて、ちいさな声がそこかしこから上がる。

 風に紛れ込んで、ケケケケ、と笑い声が聞こえた。まわりの人間が一斉に、びくう、と肩を震わせる。

 ――あいつ、遊びだしだした。

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