第5話 獣と妖怪
「お嬢さん、祟られますよ!」
おびえ切った車夫が、俥を引っ張る
「今日こそ神田明神のお守りを持っているから、心配ないわ!」
何が心配ないのやら。
「すみません、降ります」
ぼくが言うと、前の車の様子を辟易して見守っていた車夫が、おお、と梶棒を下に置いた。俥の後ろから踏み台をとってくる前に、慎重に飛び降りる。
「ほら、溝口さん! いたじゃない!」
お嬢さんが勝ち誇った声で言う。
いや、これは。ぼくに言わせればこれは。
塀に囲まれた暗闇の中、黒く滞る闇のような毛皮は、つやつやと光っている。
確かに犬だ。こんなに大きいのは見たことがない。見たことはないが、子牛ほどということはない。何より、妖気のようなものを感じない。先日文士達に遭遇した時と同じだ。
だがそれでも、獰猛な獣であることに変わりはない。牙をむいて、低い声で唸り続けている。あの牙は、噂のような短刀とは違うが、人の喉笛など簡単に噛み千切るだろう。
「お嬢さん、前に出ないでください。不用意に手を出さないで」
「もう、溝口さん、大げさ……」
お嬢さんがこちらを振り向いたと同時、けたたましく犬が吠えた。警戒と凄まじい殺気がまっすぐに向かってくる。人間の敵意などは比べ物にならない、むき出しの狩猟本能だ。
さすがのお嬢さんも顔を犬の方へ戻し、後ずさった。
本当に犬だったらとか、人の喉を食いちぎるような獣が襲いかかってきたらどうなるかとか、考えなかったのだろうか。と考えるのも馬鹿らしい。お嬢さんがそんなこと想像できたらこんなことにはなっていない。
好奇心がふくれあがりすぎて、自分を守るための大事な何かが隠れてしまっているのだから、困ったものだ。
ふいに、不穏な笑い声がぼくの耳元で聞こえた。
「たかが犬畜生が生意気な」
するりとぼくの肩に、白い毛皮が現れる。獣の口の端から、ちりちりと火の粉がこぼれた。
「熱いからやめろ」
「我に吠え掛かるなど、身の程を知らしめてやらんとな」
目の端で、狐の鼻面に皺が寄る。狐の姿が見るうちに膨れ上がり、ぼくの肩の上に乗ったまま、子牛ほどの大きさになった。体が膨れ上がったのに、重さが少しも変わらない。
低い声で唸っていた犬が、戸惑ったような声を上げる。
途端、狐が一声低く吠えた。普通の狐のような、高い声ではない。目の前の犬よりもいっそう低く、地の底から這うような声だ。ぼくの腹の中まで震えるような、落雷のような声だった。
お嬢さんが飛び上がらんばかりに驚いて、真ん丸な目で振り返った。
「何事なの!? 霹靂!? お狐様!?」
甲高い声をあげたときには、狐は姿を消している。ぼくの耳元で、けけけけけと声だけが聞こえた。
「これが妖怪だなどと笑わせる。獣風情が」
無駄に矜持の高い奴だ。めんどくさい。
「ほら、先生のおっしゃった通り、ただの犬ですよ」
気が付くと犬は、地面にひっくり返っていた。尻尾を股に入れて、か細い声で鳴いている。
ぼくが近づくと、くるりと起き上がって、おびえた様子で後ずさった。狐め、やりすぎだ。おかげで手を出しても噛まれなかったけど。
「……そうね。じゃあ、野犬なのかしら。見たことがないほど大きいけれど」
「首輪がついています」
しっかりとした革の首輪は、庶民が簡単に犬につけてやれるようなものではない。そして首輪には、丸い金属が括り付けられていた。文字が刻印されている。
「HASHIMOTO MITA」
「橋本ミタさん? 橋本さん? 三田さん?」
ぼくはがっくりと肩を落とす。
「何おっしゃってるんですか。橋本子爵のお家が三田ではなかったですか」
昼間ぼくらを轢きかけた馬車が脳裏に浮かんだ。頃合いのいいこともあるものだ。
「まあ……橋本様のおうちの犬かしら」
「先生がおっしゃったように、外国の犬なのでは。橋本様は貿易を生業とされていましたし、外国の犬を飼っていらしてもおかしくないですし」
「そうね、確かご子息が
高辻男爵は開運の仕事をされていて、橋本子爵は貿易をされているから、仕事上での縁は深い。それもあって、私的なお付き合いも多かったのだが、ここ数年それはぱったりと途絶えていた。国内外の噂の種になるのは好ましくないので、表向きは変わらないように取り繕っているが、実際にはお屋敷に行き来することがなくなった。はずだった。
「ぼくが三田のお屋敷に犬を届けてきます。お嬢さんは先に戻っていてください」
「いえ!」
お嬢さんはやけに強い声で言った。
「行くわ。わたしが責任を持って、お渡しに行くわ。犬はどうやって連れていくつもり?」
車夫が嫌がったしぼくも嫌だったが、ぼくは車の狭い座席に大きな犬と一緒にぎゅうぎゅうに座る羽目になった。
さらに、三田へ向かうと言うと、お屋敷から離れてしまうと苦情があがった。当然だ。ぼくも嫌だ。
だけど今度は、橋本子爵に迷子の犬を届けるという、はっきりとした理由があったので、しぶしぶ向かうことになった。お屋敷に帰るのがどんどん遅くなってしまう。
橋本子爵のお屋敷は、高辻男爵のお屋敷と負けず劣らず、大きな建物だ。煉瓦造りの塀に取り囲まれ、鉄の門がガッチリと閉まっている。
お嬢さんが遠慮も呵責もなく門を叩いて呼ばわっていると、しばらくして、胡乱げな顔の女中が姿を現した。
「主が不在のため、わたくしのような者がお迎えして申し訳ありません」
事前の連絡もなしに押しかけてきたぼくたちを門前で出迎えた女中は、丁寧に頭を下げたが、不審げな目を隠しもしなかった。
待ち構えていたお嬢さんは、胸を張り、はきはきと言った。
「高辻男爵の娘で、環蒔と申します」
堂々とした様相は、さすが男爵家のご令嬢と言ったところか。
「突然申し訳ありません。こちらの犬を拾ったものですから」
「まあ、
「征斉様、英吉利に遊学なさっていると聞いていたけれど」
「先日、お戻りになりましたの」
環蒔さんの名乗りと、ぼくの連れた犬を見て、女中は少し警戒を解いたようだった。犬はぼくの近くに従って、おとなしくしている。女中は怪訝そうな顔になった。
「征斉様の他には懐かないのに」
懐いているわけではない。怯えているだけなんだけど。明らかに縮こまっているのに、女中は気づきもしないのだろう。
ぼくが犬をうながすと、犬はおとなしく門の中に入っていった。女中が思わずのように後ずさったが、それに構った様子もなく駆けていく。
女中はその尻尾を見送ってから、慌ててお嬢さんに言った。
「門前で不躾に申し訳ありません。どうぞ、お入りください。奥様にお伝えしてまいります」
「いえ、わたしがお屋敷の中にまで押しかけるほうがご迷惑でしょうから、本日は失礼いたします」
お嬢さんは、ぼくが見たこともない丁寧なしぐさで頭を下げた。
お嬢さんが歩き出したので、ぼくは慌てて後を追う。あちらこちらで灯る瓦斯灯の明かりの下で、お嬢さんは顎に手を当てて歩いている。いつものような勢いが少しもない。
「お嬢さん」
嫌な感じがして、ぼくはお嬢さんに声をかけた。振り返ったお嬢さんはどこか腑に落ちない顔をしている。
ぼくは念を押すように言った。
「これで一件落着ですね」
妖怪でなくてつまらないとか、他に何かあるはずだとか、こんなはずじゃないとか、何か言うかと思った。もしくは、どうやって犬をおとなしくさせたのかとか、狐がなにかやったのかとか、何か言われるのかと。
「そうね」
だが、お嬢さんは口をへの字にして、眉間にしわを寄せて、ひとことそう言った。
「征斉様、戻っていらしているのね」
そしてちいさくつぶやいた。
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