第4話 黒い影を追え!
「川開きには、今年も舟を出して、皆で見物するんですか?」
「わたしは橋の上から、ほかの人たちと一緒に盛り上がって花火をみたいのだけど、危ないからだめなのですって」
好奇心旺盛なお嬢さんが、人々に紛れて夜店を回りたい気持ちも分かるが、旦那さまが危ないからと禁止するのもわかる。
いかに警備の巡査がたくさんいたところで、人が多いだけ、よくない人間も多く紛れ込む。
「残念だけどしかたありませんよ。はぐれたり、かどわかしが出たら大変です」
「兄さまは? 今年も一緒に舟に乗るの?」
「その日は、銀座に開業したビヤホールに行こうかと思っているんですよ。電気ブランを飲みに浅草でもいいかと思ったんですが、せっかくだから、ビヤホールにしようかと。いつも人が多いようだけど、川開きの日にはさすがに人が少ないかと思ってね」
「兄さまは独逸に行かれていたし、ビヤホールはなつかしいでしょうね。でも、それじゃあ、川開きにはいかないの?」
お嬢さんは、あからさまにがっかりした。
「人の多いところはあまり好きではありませんから。少し遠いけど花火は見えるだろうし、音で雰囲気くらいは味わえます」
先生は笑って言うが、お嬢さんはしまったという顔をした。先生が派手なことや、人の多い場所が好きでないのは事実だけど、それはどちらかというと、先生の奥さんのための言葉だろう。
「馨子さんは、やっぱり難しいの?」
「行きたいとは言うんだけど、無理はさせられませんからね。行きたいと思うこと自体が重圧になって、自分自身を苦しめたりするかもしれないから、また今度にしようと言っているんですよ。ぼくが人出の多いところが苦手なのは本当だし、たまには二人で出掛けるのもいいかなと」
先生の奥さんは少しばかり特別な病だった。
人にうつるような病ではないし、本人が素振りも見せないから忘れてしまいがちだけれど、とても難しいものだ。
日頃からひどい疲れに苛まれ、気候や気持ちが強く左右するらしい。あまり長い時間外に出ていると夜には寝込んでしまうと聞いた。酷い時は指先ひとつ動かすのにも大きな疲労に襲われて、折り悪いと数日寝ついてしまうそうだ。
西洋医学でもはっきりした治療法はなく、先生は奥さんをとても気遣って、気にしている。
先生が、狐憑き、という言葉に、強く反応したのはそのせいもあるのかもしれない。人の理解の得にくい病だから、先生の奥さんももしかしたら、狐が憑いているだとか、気が触れているとか、好奇の目にさらされてきたのかもしれない。
「そうなの、残念」
「昨年はひとりで留守番をさせてしまいましたからね。今年は一緒にいようと思って」
昨年は、ぼくも舟に乗せてもらった。
そのとき先生は、自分があまりにも高辻の家に顔を見せないので、高辻の奥様がすねてしまったんだ、とこっそり教えてくれた。「たまには親孝行をしないとね」と笑っていたが、今年は奥さんと一緒にいたいということなんだろう。本当は去年だって奥さんと一緒にいたかったはずなのに、先生は苦労性だ。
「残念だけど、仕方がないわ。馨子さんに、お大事にとお伝えくださいね」
お嬢さんは少し拗ねていた。本当は、「残念だけど」どころか、とても残念に違いない。だけど必要以上に拗ねたり、無理を言ったりしないのがお嬢さんだった。
ぼくには無茶ばかり言うくせに。我儘を言っていいところの線引きをちゃんと分かっているのだ。
それにお嬢さんはそもそも、とても人が良い。良すぎて出しゃばりでおせっかいなところもあるが。
もらった炭酸水を飲みきらないうちに、外から車夫の威勢の良い声が聞こえてきた。
ごっさい、ごっさい、と声が響き渡る。
「おや、迎えが来たのかな」
お嬢さんは、先生の声に慌てて炭酸水を飲み込んで、むせてしまった。
「あらあら、慌てん坊なお嬢様だこと」
看護婦がお嬢さんから杯を取り上げて、背中をさすった。お嬢さんは涙目で咳き込んでいる。ぼくはその隙に、残った炭酸水を一気に飲み干して、大きく一息ついた。
「修治君、迷惑をかけて申し訳ないけれど、環蒔さんのことくれぐれもよろしく頼むよ」
先生は楽しげに笑っていた。
「君がお嬢さんのお守りをしてくれて、お義父さんもきっと安心していると思う。これもあの家の書生になった役目だと思って」
そう言われてしまうと弱い。先生は悪びれない笑顔だったし、言葉の裏があるような人ではないから気付いていないだろうけど、ずるい言葉だ。
「荷の重い役目です」
ほんとうに。
診療所の外に出ると、車夫の引く俥が二台停まっている。
お嬢さんを俥に乗せて、ぼくは歩くか乗合馬車などで帰るつもりだったが、お屋敷の奥様がぼくの分の俥もよこしてくれたようだった。
「ねえ、あなたたち。黒い犬の噂を聞いたことはない?」
お嬢さんが車夫に問いかけていた。
「ああ、聞いたことありますよ。仔馬ほどの大きさで、黒い犬のことでしょう。ろくろ首のように首が伸びてきて、喉を噛み千切られたとかいう話を聞きましたよ。昨夜は日本橋のあたりで、短刀のような爪に切り裂かれた者がいたとかで」
「ほんとう!?」
お嬢さんがひときわ大きな声で、車夫ににじり寄った。車夫がしまったという顔をしているが、もう遅い。まったくもって、余計なことを言ってくれたものだけど、まったくもって、気づくのが遅い。
お嬢さんが次に言い出すことなんて決まってる。
「そんなものが東京をうろついているのに、放っておけないわ!」
ほうら、みろ。車夫が助けを求めるような顔でぼくを見たが、ぼくは半眼で見返した。
先生の話で片が付きそうだったのに。また。また。
「お嬢さん、あくまでつまらない噂ですし、みな面白がって尾鰭をつけているだけですよ。どうせただの野犬です」
「野犬だって放っておけません! どこで見かけたのですって?」
「日本橋のあたりだとか……」
押上の先生の家から上野のお屋敷まではそう遠くはないが、日本橋なんて倍ほど遠い。
「とにかく、今日は帰りましょう。奥様と約束したでしょう」
ぼくの言葉に、輝いてたお嬢さんの顔から光が消える。渋々うなづいた。
奥様の言いつけに逆らえば、お裁縫だとかお茶だとかのお稽古事をみっちり詰め込まれて、家から出してもらえなくなる。犬探しどころではない。
車夫たちの掛け声が威勢よく響き、道行く人をかきわけていく。俥の車輪が土に轍をつけて行く音がする。お嬢さんの俥の後ろをついていくこちらには、少しばかり砂ぼこりがかかる。
揺れが響いてきて、気を緩めると路上に放り出されそうだ。ぼくは足を踏ん張って俥に座っていた。乗っているだけなのに、頬を撫でいく風を味わう余裕もない。
診療所でもらった炭酸水の爽快さもどこへやらだ。
「情けないな、お前は。勉学ばかりしておらんで、体を鍛えよ」
耳元で、癇に触る声がする。くつくつと喉をならすような笑い声。
「別に運動ができなくても不便はない」
ぼくは独り言のようにつぶやいた。車夫の声と車輪の音にかき消されて、誰かに気づかれることもないはずだ。
「我がおるからと油断しとっても、助けてやるとは限らんからな」
「はじめから期待してない」
狐は狐の、化け物らしい気まぐれさで、つまらないいたずらをするし、ぼくが窮地にいても助けるとは限らない。狐がくっついているこの状態こそが狐に化かされてるようなもので、眉唾ものだ。
銀座や表通りには、電気灯だとか瓦斯灯が煌々と輝いているが、少し通りを離れればやはり人の通りはまばらだ。夏の濃い夜の下、街灯があっても路地は暗い。
ひょう、と黒いものがよぎった。
「追って!」
お嬢さんの声がひときわ高く聞こえた。何だあれは、と思う暇もなかった。
「いけません。環蒔様が危険に巻き込まれるようなことがあってはいけませんから! 寄り道しては、奥様に怒られますし!」
車夫の情けない声が聞こえた。
「連れて行ってちょうだいったら、連れて行って! 言うこと聞いてくれないなら、飛び降りて自分で行くわ!」
何事かと思っているうちに、前を行く俥がガタガタと揺れ出した。
「環蒔様、堪忍してくださいよ」
「ほんとうよ!」
お嬢さんの声の剣幕たるや、まったく良家の子女のものとは思えない。大工の親方のようだ。
男爵家はもともと武家だったというから、気の強さは武士の血なのかもしれない。しかもお嬢さんなら本当に飛び降りかねない。
大怪我されてはかなわないと思ったのか、車夫はがなり立てるお嬢さんに逆らいきれず、黒いものを追いかける。当然ぼくの俥もそのあとに続く。
ぼくは幌の中でひっくり返りそうになりながら、必死で足を突っ張った。
車でガラガラと大きな音を立てて追われ、追い立てられ、黒い獣は逃げた。逃げて逃げて、路地裏に追い詰められた。
お嬢さんの俥が急に止まって、ぼくの乗っている俥も、慌てて後ろに止まる。車夫がよろけて俥が大きく揺れ、ぼくは心底肝を冷やした。万が一俥がひっくり返ったら、頭を強打してあの世行きなんてことになりかねない。
止める間もあればこそ、お嬢さんは素早く、俥から降りた。
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