第3話 憑き物についての考察

 先生は反応に困った様子で眼鏡を押し上げた。お嬢さんを見て、ぼくの顔を見た。ぼくが首をすくめると、先生は大きく息を吐いた。

「……環蒔さんらしくない。そういうことで人を貶めるのはよくありませんよ」

 先生はぼくを忌んだ目で見るのではなく、珍しく厳しい表情をした。

「嘘じゃないわ。差別しているつもりもないわ」

 先生にまでたしなめられて、お嬢さんはむくれた顔で食い下がった。

 この場合お嬢さんが強く言えば言うほど、真相を知らない先生にとっては、お嬢さんがぼくを狐憑きだと非難し責めているようにしか思えないだろう。

 先生は独逸ドイツ洋行りゅうがくしたこともあるくらいで、考え方が外国寄りだ。こういった迷信めいたことは、診察の妨げにもなったりするに違いないし、困った迷妄だと思っているのだろう。思い込みや風習は、そう簡単に覆ることでもないから。


 頬をふくらませるお嬢さんを見て、先生は苦笑した。

「環蒔さんがどうしてそう言っているのか分からないけど、修治君が何か妙なことをやらかしたんですか。油揚げを盗み食いしたのだとか、顔が狐のようになったのだとか」

 先生はぼくのほうを見て、また小さく笑った。今度は楽しそうに。

「どうも修治君の顔は、狐に似ているようには思えないけど」

 ぼくの耳元で笑い声がしたが、皆には聞こえていない。馬鹿にするような笑い声に少し苛立ったが、これに反応しては、本当に狐が憑いていますと言うようなものだ。ぼくは盛大にため息をついた。

「やめてください。ぼくは何もしていません。いつものお嬢さんのお遊びです」

 先生はうなづく。

「学会でも、狐憑きと言われるものは、狐が憑いているわけではなく、狂癇だという見解が発表されています。気の病の一種です。もし本当にそうなら、ぼくは精神医学の専門ではないから、医者にかかりたいなら先生を紹介します」

「じゃあ、狐狸だとか、幽鬼おにのようなものがそばにいても、突然暴れたりはしないの?」

「本当に、魑魅魍魎がいたとしての話をしているんですか?」

 先生は困った顔で、うーん、とうなった。

「そういう話なら、ぼくは専門ではないからなあ。でも、ぼくには修治君は錯乱しているようには見えませんよ。憑きものというのは、気持ちの弱い人や、感情を抑えられない人や、神経の細かい人に憑きやすいものだそうですよ。神経症ヒステリーとか言ったりします。修治君はあまり当てはまらないように思います」


 もしぼくが本当に気が触れていて、そういう意味で狐憑きと呼ばれているのならば、そういった分野の医者にかかるべきなのかもしれない。先生の言う通りに、狐とは無縁なら。

 でも、本当に憑いている狐を落とすのはやはり医者の領分ではないだろうし、ぼくは気が触れているわけでもない。……多分。

 この狐やたびたび見える妖怪たちが、ぼくの作りだした幻でなければ。

 ぼくの状態と、世間で言う狐憑きには若干の齟齬がある。

 ぼくは単に狐が憑いているだけだが、世間では、狐が憑くと頭がおかしくなると思われている。逆にいえば、錯乱した人や、妙な行動をする人のことを、狐憑きと言う。

 まあ、ほかの人に見えていない狐と話していれば、おかしな奴だと思われても仕方がないのだが。

 憑かれると狐の好物をほしがるそうだ。ぼくは油揚げも赤飯もごく普通に食べるが、特別好物だということもない。

 だいたい、この狐は勝手に憑いているわけでもないのだ。お嬢さんに言ったように。


「でも、憑きものってすごく疲れるのではないの? 霊がついたりすると、生気を吸い取られると言うじゃない」

「修治君は、疲れやすくなっていたりするのかな」

 先生は、少しばかり堅い声でぼくに問いかけるが、それとは別に、またぼくの耳元でくつくつと笑い声が聞こえた。

「小僧は軟弱だが、そんなにやわでもないから、気にする必要もないのにのう」

 しわがれた声がするが、またぼくにしか聞こえていないようだ。二人とも気付いた様子もなく、応えないぼくを不思議そうに見ているから、声を黙殺することにした。


「そんなことないですよ、もしそうだとしても、この暑さのせいです」

「もし疲れやすくなって、疲れがとれないだとか、熱が出てさがらないだとかいうことがあったら、すぐぼくのところに来ること。来られなくても、人を寄越してくれたら往診に行くから。狐が憑いていても憑いていなくてもだ。何かの病が隠れているかもしれないからね。それから無理して勉学をしすぎないように」

 いいね、と先生はまた強く言った。

「わかりました」

 ぼくがはっきりうなづくと、先生は安心したように微笑んだ。だけどお嬢さんはめげていない。


「じゃあ、大きな黒い犬が出るという話は聞いたことがない? 患者さんの噂とか」

「なんだい、近頃は怪談話を聞いて回るのがはやっているのかな。その黒い犬というのはどこに出るんだい」

 先生はおかしそうに笑っている。この様子なら知らないだろう。患者さんの噂話なら、先生よりも看護師や奥さんのほうが知っているかもしれない。

「銀座とか新橋とか、赤羽とか……」

「目撃される場所が偏っているね」

 先生は眼鏡を押し上げて、考えるしぐさをみせた。

「異人街に近い場所だから、外国の犬がうろついているということはないかな。独逸で猟犬を見たことがあるけれど、とても獰猛で大きくて驚いたものだよ。見たことがなければ、妖怪の類と思ってもおかしくないかもしれない。獰猛な犬が放し飼いされているというのはあまりいいことではないね」



 コンコンと診察室の扉を叩く音がする。

「お嬢さんたち、喉がかわきませんか」

 ちょうど看護婦が盆を持って入ってきて、堅くなっていた部屋の空気に風が入る。硝子ガラスグラスに、氷が涼しげな音で鳴った。

「ああ、炭酸ソーダ水があったんだった。氷で冷やしていたのがちょうどいい頃合いだったね」

 先生はとても頭のいい人だし尊敬しているけど、自分でも言っていたように、どうにも気の抜けたところがある。それも愛嬌なのだろうけど。

 先生の奥さんは、先生よりもっとちょっとうっかりしたところがあると言うか、ぼんやりしたところのある人だから、ふたりでいるところを見ると、周りの空気までもがふんわりしてくる。あんまり見ていると目の毒だなと思うことがある。

「どうぞ」

 看護婦から受け取った硝子の杯は、ひんやりしていて気持ちが良かった。

 透明な液体の中に、小さな泡の散っている様子が瑞々しい。口に含むと、空気が弾ける。しゅわしゅわと不思議な感触が踊るのは楽しいけれど、なかなか慣れない。慣れないから、楽しいのだろうけど。

「そうそう、近頃本当に暑気あたりの人が多いから、二人とも気をつけて。水分をよく摂るように」

 先生の言葉に、口の中を弾ける感触に夢中になっていたお嬢さんは、慌てて背筋を伸ばした。

「はい、兄さま」

 そのあまりにも無邪気な様子に、先生はくすくすと笑った。



「ところで環蒔さん、お義父さんやお義母さんはお元気ですか」

「お父様はお仕事でまた外国にお出かけよ。帰りは、長崎に寄って、横浜に寄ってから、東京の工場を確認してこられるんですって」

「お義父さんは相変わらずですね。修治君は長崎の生まれだったっけ。お義父さんとは港で知り合ったとか」

「そうです。港に紛れ込んで働きながら、外国人に英語や蘭語を教えてもらっていました」

 勉学をする気があるなら、私と来ないか、と。まるで人買いのかどわかしのように甘いことを、旦那さまはぼくに言ったのだった。


 妖怪にからまれる性分のせいで、おかしなやつだと近隣の人に避けられていたし、かどわかしだとしても、土地を離れられるのなら構わないと思った。

 それが、本当に学校に行かせてもらって、住む場所と食べ物を与えてもらっているのだから、生きていれば何があるかわからない。

 海運と貿易を主な仕事としている高辻男爵は、忙しく海外を飛び回っていることが多い。いずれは旦那さまについていって、通詞つうじとして働くのがぼくの目標だった。


「お父様は、明後日の川開きには戻るっておっしゃってたわ。川開きと言えば、あんなに色とりどりの花火があがるようになったのは、最近のことなんですってね。義孝兄さまは、昔の花火がどんなのだったかご存知?」

 両国の川開きは夏の訪れを告げる風物詩のようなもので、ぼくが東京に来て驚いたことのひとつだった。

 たくさんの夜店が出て、色とりどりの提灯が家々の軒先を飾る。夏の深い夜の中、鮮やかな灯りが地上や川面を照らし、大きな花火が次々に打ち上げられて夜空を飾る。

 このときにだけ川に舟を出すのが許されて、庶民も華族も貴賤関係無しに舟遊びをする。川の水が見えなくなるくらいだ。男爵家は屋根舟を出して、家族揃って花火見物をすることが常だった。


「環蒔さん。ぼくは君よりずっと年上だけど、ぼくだって明治の生まれなんだよ」

 好奇心に瞳を輝かせるお嬢さんに、先生は苦笑した。

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