第2話 男爵家の事情

 落ち込むお嬢さんが面倒で、結局ぼくが折れた。


 きちんとお屋敷の方に行き先を言づけること、帰りは俥で迎えに来てもらうことを約束して、お嬢さんと医者先生のところに出かけることになった。お屋敷の方も、先生の所ならば、お嬢さんを止めないのが厄介だ。

 お嬢さんは自転車でと言い張ったが、冗談ではない。目的の場所の近くまで乗合馬車でやってきた。

 あたらしき女を嫌うものがいるのと同じで、男女が肩を並んで歩くことなど外聞が悪い。お嬢さんは人目を気にしないけれど、そういうわけにはいかないので、ぼくがお嬢さんの少し後をついていく。

 いずれにしたって、お嬢さんがずんずんと歩いていくので、自然とそういう形になってしまうのだが。


 歩いている間に日はほとんど暮れてしまい、西の端に薄い橙の余韻を残すだけになっていた。外灯に火が灯りはじめ、夏の濃い夜空にちらほらと星が散っていた。

 大きな通りを離れるとどんどん道は狭くなっていく。

 小ぢんまりとした家が並ぶ界隈にその診療所があった。箱のような形をしていて、少し珍しい。

 ぼくがお世話になっている高辻男爵が建てたそうだが、下町にあまり似つかわしくない西洋風の趣のある建物だ。

 硝子のはめられた扉からは、灯りが漏れて地面に四角く映っていた。

 お嬢さんはその灯りを見つけるや否や、駆けだした。走るなら走ると言ってほしい。行き先が分かっているけど、お世話をさぼるわけにも行かず、ぼくは慌てて後を追いかけた。

 お嬢さんは、開き戸のドアを遠慮も呵責もなく開ける。と同時に、小さく悲鳴をあげて後ろに飛び下がった。


「お嬢さん!」

 追いついて室内を見ると、驚いた顔の男が、すっかり腰の引けた様子で立っていた。室内からの明るい光を背に、目も口も大きく開いている。

 患者さんだろか。お嬢さんと鉢合わせたのか。鉄砲玉のような少女に、彼の方がよほど驚いたに違いない。

「どうしました? ……あら」

 患者さんの後ろから、女の声がする。ぼくらの顔を見ると、看護婦の白衣を着て、髪を銀杏返しにした女は、中に向かって大きな声をあげた。

「先生、お客様ですよ」


 奥から男の声が聞こえた。それを待って、看護婦はどうぞ、とぼくらを促す。

「最後の患者さんが帰られるときにやってくるなんて、頃合いの良すぎること」

 きびきびとした看護婦は、まったく遠慮がない。言外に邪魔だと言われているようだが、その通りだから仕方がない。同時に、診察は終わったと教えてくれてもいるので、ありがたくもあった。

 看護婦が患者さんを扉の外まで送って行ったので、ぼくらは勝手に診療所の奥へ向かった。待合の廊下を抜けて四角い部屋へ入り、衝立の向こうへ回ると、デスクの前の椅子に男が座っていた。

 洋装の上に白衣を着て、眼鏡の奥の和やかな目がにっこり笑っている。この診療所の開業医だ。眼鏡でごまかされがちだが、刈谷かりや先生は、まだ若い。


「おや、環蒔さんに修治君じゃないか。どこか具合でも悪いのかい」

「診察ではないの。兄様に会いに来たの」

「おやおや、一体何事だろう」

 先生はにこやかに言ったが、お嬢さんは、まあ、と驚いた顔をして見せた。

「いらっしゃいと言ってくださらないの? せっかく来たんだから歓迎してほしいわ」

「お嬢さん、あえておっしゃらないんだから、迷惑に決まっています」

 つんつんして言うお嬢さんに、ぼくは少しばかりあきれる。こんな夕刻に、診療でもないのに突然やってきて、迷惑でないわけがない。

 でも先生はくすりと笑った。

「すみません、悪気はないんですよ。ぼくはだいぶ抜けているから、大目に見てほしいな。環蒔さんといると楽しいから、いつも来てくれて嬉しい」

 お嬢さんは、今度は顔を真っ赤にして、顔いっぱいの笑みを浮かべてうなづく。

「修治君はいつも環蒔さんが迷惑をかけて悪いね。こんなところにつきあわされて」

「いえ、ぼくは」

 お嬢さんにあちこち連れ回されるのは困ったものだが、先生のところにくるのは嫌ではない。


 この人は、ぼくがお世話になっている高辻家で、ぼくと同じ書生だったことがある人だ。

 旦那さまは、人への教育について強い関心を持っていて、遠縁の子どもや、ぼくのようにお金や機会がなく、勉学を出来ずにいる人間を育てようとしている。そういう場合、普通は書生が出世して、家へ利益をもたらすのを期待する。

 だけど旦那さまは、利益への期待でやっているのではなく、純粋に人に機会を与えたいと思っているようだった。

 大きなきっかけとなったのは、この先生の存在だろう。

 先生は、子供に恵まれなかった男爵家に、遠縁から養子に来ていたらしい。でもその数年後に環蒔お嬢さんが生まれて、立場が危うくなった。先生との養子縁組を取りやめて、お嬢さんに婿養子を取らせるべきではとか、お身内からそういう話もあったらしい。しばらく先生は留め置かれていたけれど、その翌々年に男の子が生まれて、結局男爵家からは離縁されることとなった。

 それでも旦那さまは、先生を家に住まわせて、実の子のように育て、学校へ通わせた。先生は先生でしっかり期待にこたえて、帝国大学で医学を修め、洋行りゅうがくもしている。

 この診療所は男爵が先生のために建てたものだが、もともと海運を主な生業としていた旦那さまは、近頃医療器具の輸入に着手し、国内での製造もはじめている。


 ぱたぱたと足音がして、看護婦が戻ってきた。やってくるなり、彼女は腰に手を当てて、あきれた声を出す。

「まあ、お客さまを立たせたままなんて、先生は気が利かないこと」

 先生は途端に困った顔になる。それに見向きもせずに、看護婦はきびきびと動いて、二人分の椅子を用意してくれた。

 動き回るのが苦手なぼくは、ようやく座れて、ふうと息を吐く。陽が落ちれば少しは暑さも和らぐとはいえ、蒸した中を歩いてきたので、木の椅子はひんやりしてどこか気持ちがいい。

「わたしは奥で片づけをしていますから」

「すみません、お願いします」

 看護婦の語気は強いが、先生は和やかに返す。看護婦が無駄のない動きで部屋を後にするのを見送って、先生は言った。


「暑気あたりにでもなったのかと少し心配したけど、その調子なら問題なさそうですね。暑い中よくいらっしゃいました」

「ありがとう」

 お嬢さんは、先生の手の指輪を見ながら、小さく笑う。

馨子きょうこさんは、今日はいらっしゃらないの?」

「急に暑くなったせいかな、近頃あまり調子が良くないんです。上で休んでいますよ。馨子に用事だったんですか」

 診療所の二階は先生の自室になっていて、先生夫妻はそこで暮らしている。先生は、長く独り身であることが旦那さま夫妻の悩みの種でもあったが、少し前に年上で美人の奥さんをもらっている。

 奥さんは体が弱く、もともとは先生の患者さんだったのだという。元気な時は、チャキチャキの看護婦と一緒に診療所を手伝っているが、あまり見られない姿だった。しかし男の患者さんに奥さんの人気は高い。

 先生は優しく親切で丁寧だが、少しばかり押しが弱いし、人に気を遣いすぎるところがある。その先生にしては意外なことに、略奪愛だというから、人は思わぬところで何をしでかすか分からない。


 お嬢さんは、先生を見て、慌てて首を横に振った。

「違うわ、義孝兄さまに会いに来たの。馨子さん具合が悪いのなら、起こさないで頂戴」

 そうかい、と先生は不思議そうに首を傾ける。

「あのね、溝口さんが」

 勢い込んで言いかけて、お嬢さんは先程のやりとりを思い出したのだろう。一呼吸おいてから、少し慎重に言った。

「溝口さんに、狐が憑いているの」

 奇妙な空気が流れる。

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