第二章 ハイカラ娘と黒い犬の噂

第1話 再び、お嬢さんの曰く

 いつまでも明るい夏の日も沈み始めた頃、ぼくは屋敷の門前で打ち水をしていた。馬穴バケツ柄杓ひしゃくを手に水を撒いていると、蒸した空気も少し涼やかに感じられる。

 退屈した邪魔者が馬穴をひっくり返して、何度も水を汲みに行く羽目になったり、その隙に柄杓を隠されたり、つまらない面倒もあったが。


 パタパタと軽い足音が聞こえてきた。大きなお屋敷の立ち並ぶこの界隈で、そんな駆け方をするのはひとりしかいない。

 紺の矢絣の上衣に、海老茶の袴を穿いた少女が駆けてくる。結い流しにした黒髪と袖が、ひらひらと踊っている。


「足元に気を付けてください。そこ撒いたばかりですからね」

 お嬢さんはいつも通りに、お嬢さまらしからぬ気安さで、袴の裾をからげて水溜りをひょいひょいと避けて、爪先立ちでぼくのそばまでやってきた。

「ねえ、知っている?」

 額に光る汗も眩しく、溌剌とした表情で、彼女は言う。

「またつまらない噂話ですか」

「聞く前からつまらないって言わないでったら!」

 手を休めずに水を撒くぼくに、お嬢さんは頬をふくらませた。真面目にとりあわないぼくに腹をたてながらも、気ままなお嬢さんは構わない。


「今日聞いた話だけれど、子牛のように大きな黒い犬が東京を徘徊しているのですって。夜な夜な現れては、人を襲うそうよ」

「野犬ですか。珍しくもないでしょう。ぼくの故郷ではよく見ましたが、東京では珍しいんですか。確かに危険ですが」

「野良犬なんかじゃないったら。野良犬は消えたり空を飛んだりしないもの」

 お嬢さんがおしゃべりをやめる気配がないので、ぼくは水を撒く手を止めた。馬穴を置いたぼくに、お嬢さんは嬉しそうな顔をしたが、ぼくは大きくため息をついて見せる。

「お嬢さん。それならまだ女学生が行方不明になった話のほうが真実味があります」

「この間は、新聞に載っていないから嘘だって言ってたくせに。もし駆け落ちだとしたって、溝口さんは興味ないでしょ」

「駆け落ちじゃなくたって、外国の人にかどかわされたかも知れないでしょう。ぼくの故郷ではそういう噂がありました。外国ともめるような話なら、圧力がかかることはあり得ます。他にも理由は色々考えられますよ」

「この間は否定したくせに。そういうこと言うの。屁理屈だわ」

 まともに取り合わない上、話をひっかきまわすぼくに、お嬢さんは唇を曲げて不満をあらわにする。

「屁理屈でも事実です。この東京で犬が空を飛んだりするなんて、想像するだけで笑ってしまいます」

「でも妖怪はいるじゃない。あなた、わたしに隠し事をしていたくせに、よくそんなことが言えるわね」

「まだ怒っているんですか」

「当たり前です」

 語気も荒く、お嬢さんは言った。


「あんなおもしろいもの、隠しているなんて! ねえ、お狐様は、どこにいるの? 出てこないの?」

 あの夜の恐怖も、すっかり忘れ去ったらしい。その上、妖怪をおもしろいもの呼ばわりとは。くるくると気持ちの変わるお嬢さんらしいことだが、ぼくは内心苦いものが沸いてくる。

 狐は、ぼくのような「見える」者にだけ見える時と、普通の人にも見えるように姿を現している時がある。今も馬穴のあたりをうろうろしてニヤニヤしているのだが、お嬢さんには見えていない。

「出ません。そもそも、ぼく以外に姿を見せることなんて滅多にありません。お嬢さん、外聞のいいことではないんです」

 この開明の時代の東京で生まれた、箱入りのお嬢さんには、憑き物がどれだけ忌まれてるものなのか分からないのだろうか。旦那さまは、ぼくが狐憑きだと知っていても書生に迎えてくださった方で、そのお嬢さんだからこそ、無頓着なのかも知れないが。


 田舎では、憑き物筋の家系は、それだけで忌み嫌われ、結婚もできない。

 狐を使って人を呪ったりすると信じられているからだし、狐を使って物を盗んだりして富を得ると思われているからだ。

 実際のところはどうであれ、病や災を、そうした不可視のもののせいにして、特定の誰かに押しつけて、自分たちを納得させてきたからだ。それは逃げ道としてずっと人の中にある闇だ。

 恨みや妬みや恐れは、長きに渡って、人と人の間に暗い影を落としている。

「溝口修治さん。わたしは、気にしないの。馬鹿にしないで頂戴。わたしは、あたらしき女なんだって言っているでしょう。鉄道にだって、自転車にだって、電気にだって、狐にだって、驚きやしないんだから。お狐様、近くにいるの?」

 お嬢さんは自分の胸に掌を当て、物怖じせずぼくを見た。手を握ったと顔を真っ赤にして責めた人と同じには見えない。


 ぼくはため息ひとつ、いつも通りに淡々と返した。

「お嬢さん、それでも、なるべく隠してやっていきたいぼくの気持ちも承知してただかないと困ります。あなたが気にしなくても、人やぼくは気にするんですから。ぼくは昔から人に見えないものが見えて、妖怪やらにからまれながらも、なんとか隠して人並みにやってきたんです。それを壊したくないんです」

 ぼくは口調を荒げたりはしなかったが、お嬢さんは少し傷ついたような表情になった。

 女性への教育が嫌われるのは、女性が自我を持って男と対等にふるまおうとするのが、否定されているからだ。お嬢さんみたいに男と並んで話そうとする女性は蔑視の対象になる。あの文士崩れたちのように生意気だと捉える者も多い。ある意味で、珍妙な目を向けられるのは、狐憑きも女学生も同じかもしれない。

 それでもお嬢さんは、そういった風に見られるのを気にしない。だからと言って、それを押しつける人でもない。


「ごめんなさい」

 殊勝に肩を落としながら、お嬢さんは言った。そもそもお嬢さんが素直すぎるだけで、悪気がないことなどぼくも知っている。

 いいえ、といつも通りに返してから、ぼくは馬穴を持ち直した。

「さあ気がすんだら、ぼくの仕事の邪魔をしないでください。お屋敷の用事を済ませて勉強をしないといけないんですから。もう日も沈みますし、犬の調査に行くなんて、今度こそだめです。それに、ぼくなんかと立ち話していると、ご近所によくない風聞がたちますよ」

 話は終わりの合図のつもりで、ぼくは馬穴と柄杓を手にした。馬穴の水を汲んで地面に放る。水の飛沫が涼しげに散って、土の大地の色を濃くしていく。今度は馬穴の水をひっくり返される前に終わらせてしまわなければ。


 お嬢さんから距離をとろうするぼくの横で、お嬢さんは体の前で手を組んでうつむいている。

 きつく言いすぎただろうか。お嬢さんは自由気侭な性質である分、怒られてもすぐにくるりと気持ちを変えて立ち直ってしまうが、自分の責任を感じたときはひどく落ち込むようだった。

 弱ったなあという気持ちと、めんどうだなあという気持ち半分、お嬢さんに声をかけようか迷っていたところ、お嬢さんは顔をあげる。

「その……それ、お医者様に診てもらいましょうよ」

 お嬢さんは、今度はそっと言った。お嬢さんにしては、だが。


 どうやらずっと目論んでいたことらしい。いま思いついたことならそれこそ大変な思いつきのように騒ぐのだろうけど、言い方が少し慎重だった。ぼくに気を遣ったということでは、多分ない。

「それって、憑き物のことですか?」

「そう」

「憑き物は、医者の領分じゃありませんよ」

「この明治の時代に何を言っているの。西洋の医学で分からないことなんてないわ」

 殊勝な様子などどこへやら。医学の心得などないくせに、やけにはっきりと言う。

 分からないことなんてない、というのは大袈裟だけれど、西洋医学は不思議な世界だとは思う。真っ白な衣を着て、色んな形の硝子の瓶で色んな液体を混ぜて薬を作ったり、何かよく分からないことをしているところは、魔術のようではある。


「それにほら、お医者様のところには、人がたくさん来るわ。黒い犬の話を何かご存知かもしれないじゃない! 聞き込みよ!」

「先生のところに行きたいだけでしょう……」

 黒い犬の話、まだこだわっていたのか。

 日が落ちてきたとは言え、やれやれと吐くため息すら熱い。

「こんな時間に外を歩き回るなんていけません。どんな不逞の輩がいるかわかりません」

「でも、平気でしょう?」

 お嬢さんは、悪戯っぽく笑う。先般あんなに恐ろしい思いをしたくせに、くるくると気持ちの変わる様は百色眼鏡カレイドスコープのようで、こちらの機微などまったくおかまいなしだ。

 それにやはり狐の存在をお嬢さんに知られたのは、まずかった。屈強な用心棒を得たつもりなのか、お転婆に歯止めがきかなくなっている。

 狐憑きのことは口にしないでほしいと言ったのに、それをあてにするなんて、わかっているのかいないのか。やっぱりお嬢さんは、能天気すぎる。


 あきれた時、ガラガラと大きな音がした。

 お屋敷の門の中から、馬車が猛然と門を抜けて駆けてくる。

 ひかれそうになって、お嬢さんは慌てて飛びのいた。車輪が泥水を跳ね上げて、ぼくの着物に降りかかる。ケケケケと笑い声が聞こえた。うるさい。


「なあにあれ! お客様がいらしていたの?」

「橋本様ですよ」

 ぼくも少しばかり肝を冷やした。

 お嬢さんはぼくを見て、びっくりした顔で瞼をぱちくりさせた。

「橋本様って、橋本子爵様? 近頃はお姿を見なかったのに……」

 謝りもせず、ものすごい勢いで去っていく馬車を唖然と見送って、お嬢さんはつぶやいた。

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