第5話 書生の嘘

 ぼくは懐から銀色のものを取り出して、口にくわえた。大きく息を吸って、吹き付ける。甲高い音が夜のしじまに響き渡った。


 炎に照らされた男たちの仰天した顔がこちらを見ている。

「溝口さん、急にどうしたの!」

 お嬢さんも同じように仰天している。

ホイッスルです」

「溝口さんが悲鳴を上げたのかと思ったじゃないの」

「もしそうだったらぼくもびっくりします」

 笛並みに甲高い悲鳴をあげられる自信はない。遠くで、ぼくの笛に応えるように、別の笛の音が鳴り響いた。文士達がうろたえて辺りを見回す。

「お嬢さんは気づいていなかったと思いますけど、ここに来るまでに、警察の派出所に投げ文をしてきたんです。銀座で付け火ほうかを企む胡乱な輩がいると」

「誰も付け火などしておらん!」

 先頭の文士がカッと目を見開いて叫んだが、よく言うものだ。

「この焚火で言い訳ができるもんか。退学ならまだ生易しい、万が一にも政府への反乱分子の集団による付け火と見られたら、投獄だな」


 遠くでまた笛の音が鳴り響いた。肝の小さい文士達にざわめきが広がる。

 女学生を目の敵になんて、自分よりきらきらしくて弱いものを的にしたいだけの奴らだ。しかも顔を隠して夜中に悪さをするなんて、身を切るような覚悟があるわけもない。

 さっさといなくなれ。でないと、巡査が駆けつけるとぼくたちもまずい。


 どこからか、巡査が奸賊を探している声が聞こえてくる。文士達の何人かすっかり腰がひけている。しかし先頭の文士は、なぜかぼくに詰め寄ってきた。

「こうなったらお前も道連れだ! 夜中に女連れでうろつきおって、一緒に逮捕されろ!」

 なんて訳のわからない理屈だ。

 一緒くたに連れていかれたら仲間と思われるかもしれないし、厄介だ。それに文士たちの言う通り、男と夜遊びをしていたなんて世間に知れたら、ぼくはともかく、お嬢さんの体面に傷が付きかねない。お嬢さんのせいなんだけど。

 事情を説明している間に、男爵家に連絡が入るだろう。旦那さまにお世話になっている身として、旦那さまを失望させるわけにもいかない。

 しかし、ぼくたちにつかみかかりそうな勢いの文士から逃れるには、これしかない。お嬢さんが窮鼠に噛まれて怪我などするより、ずっとはましだろう。


 ぼくは再び、笛を口元にもっていこうとした。しかし文士が素早く笛を叩き落とした。きらりと炎に光りながら、笛が飛んで行った。

「お前しつこいぞ!」

 文士が叫ぶ。いやせっかく笛を阻止して大きな声って意味ないし、しつこいのはどっちだ。痛いし。

「お前こそ、逮捕されたくなかったら、さっさと逃げればいいだろ」

 そうだそうだ、と今更ながらにざわざわと文士達にざわめきが広がった。その後ろで、笛が聞こえる。




 そのときまた、ぶわりと不穏な風が動いた。熱を含んだ風が巻き上がって、ぼくらは思わず顔をかばう。

 ぎゃああああと悲鳴が響いた。大声を張りあっていたお嬢さんたちよりも、ぼくの鳴らした笛よりも大きな声だった。声に仰天していると、積まれた本を燃やす炎が大きく膨らんだ。それは、まったく、すさまじい勢いで立ち上がる。熱波がちりちりと肌を焼くようだ。


 電気灯の明かりなどかき消して、火の粉が舞う。膨れ上がった炎は、ぐねぐねと大蛇のようになって、文士たちに襲いかかった。まずい、巻き添えを食う。

「お嬢さん、逃げますよ」

 振り返り声をかけるが、お嬢さんは炎を見て固まってしまっている。

 少しためらったが、つまらないことを気にしている場合ではない。ぼくはお嬢さんの手を掴んで、引っ張った。

「まあ、あなた、手、手を」

 お嬢さんは、真っ赤になって素っ頓狂な声をあげた。

「そんなこと言っている場合じゃないでしょう。早くここから離れて」

炎は舞い上がり、ふくらみ、踊りながら文士達を追い回している。明らかに尋常のことではない。どこからともなく、底意地の悪い笑い声が響いて、お嬢さんはぼくの手をきつく握りしめてきた。



 文士達は悲鳴を上げて、散り散りに逃げていく。逃げそこなった者を、炎が襲い掛かる。文士の衣に燃え移り、悲鳴は尋常でないものを帯びた。

「やめろアカトキ。調子に乗るな」

 予測していたが、ぼくはとりあえず文句を言った。突然ふわりとしたぬくもりが首元を覆う。不満げな唸り声が聞こえる。

 熱帯夜だし、火も熱いし、毛皮も熱い。

 炎は、しゅるりと縮んで、唐突に消える。文士の黒装束に移った炎も、書物を燃やしていた炎も立ち消えた。それがまた恐ろしかったのか、文士達はあっという間にいなくなった。悲鳴の残響が尾を引いて遠のいていく。

 途端にあたりが暗くなって、ぷすぷすとくすぶる本の燃えカスと、電気灯の明かりだけが残された。煤と汗のにおいが残っている。


 見回すと、もうこの煉瓦の通りに立っているのは、ぼくたち二人だけだった。

 ぼくの耳元で、不満げな声が言った。

「我がおらねば、あやつらに袋叩きにされておったぞ」

「あいつらをからかって楽しんだだろ。いいじゃないか」

 何やらしゃべっているぼくを、お嬢さんが見る。仰天して目を見開いて、後ずさった。

「あなた、それ」

 言ってから、手をつないだままなことに気付いたようで、慌てて振り払った。そちらの手を後ろに隠しながら、反対の手でぼくの肩の上を指さして言う。

「溝口さん、なあにそれ」

 ぼくの首に巻きついた白い狐を凝視している。狐はお嬢さんを見て口をぱかりと開き、両端をつりあげた。笑ったつもりのようだ。なんとも底意地の悪い笑顔だ。


 ぼくは観念して答える。

「狐です」

「それは、見れば分かるわ」

 そうだろう。

「しゃべったわ」

 お嬢さんは頬をふくらませ、憤慨して言った。

「あなた、妖怪変化なんてないって言ったじゃないの」

「普通はないものだからです」

「でも、いるじゃない。どうして嘘ついたの」

 とても鼻息が荒い。人に襲いかかる炎の恐怖より、狐がしゃべった驚きよりも、ぼくが嘘をついたことのほうが、お嬢さんの中では比重が大きいようだった。

 だがそうは言っても、ぼくにはぼくの事情がある。

「知られたくないからに決まっているでしょう。何度か言っていますけれど、ぼくはこういうことにかかわりたくないんです。勝手に付きまとわれているだけです」

 いないほうがいいし、こんなめんどくさいもの、知られたくもなかった。

 しかし、これほどはっきり見られたのではごまかしようもない。大仰に息を吐いて言った。

「ぼくは狐憑きなんです。旦那さまはご存知のことですよ」

 ぼくの肩の上で、ケケケケと狐が笑っている。


 ぼくの本をひっくり返して遊んでいるのも、夕刻新橋で会った文士をどついたのも、さっき文士の面をはいだのも、何もかもこいつの仕業だ。つまらない悪戯をして人を驚かせたり、だまくらかしたりしては遊んでいる。

 おかげで巻き込まれなくていい面倒事に巻き込まれるので、勘弁してほしいのだが。何百年生きているのか、年寄りの意地悪と年季の入った悪戯心は抑えられないらしい。

「この小僧は昔から妖怪にからまれやすい性質でな、我が守ってやっておるのだ」

 狐は、ぱっかりと口を開けて笑って言った。何を偉そうな。

「こいつは、西洋化の波で祠を壊されて消えかかっていたんです。ぼくはなぜか生まれつき霊力が強いらしく、そばにいるとこいつの霊力も回復するからと、勝手にとり憑いているんですよ」

 お互いを利用している共存関係なのであった。

 しかし近頃、巻き込まれなくていい面倒事に巻き込んでくれるのは、狐だけではなくてお嬢さんもなので、これはどうもぼくの生まれ持った性質なのかもしれない。我ながら苦労性でなんてかわいそうなんだろう。

 そうなの、とお嬢さんはちいさくつぶやき、それから頬をふくらませた。

「わたしにだけ黙っているなんてひどいわ。お父様もあなたも」

「狐憑きなんて、外聞がよくありませんから」

 それは西洋化を嫌う人がいるという話とは比較にならない。狐憑きは大概、気が触れた人間のことを言う。昔からこの国では忌まれている。

 ぼくの言葉に、お嬢さんは少しばかりしゅんとした。

「さあお嬢さん、気が済んだでしょう。ぼくらも逃げないと、巡査がやってきます。早く帰らないと抜け出したのがばれてしまいますし。あの文士崩れも、当分焚書などしないでしょう」

 話している間に、また笛の音が響いた。


 不逞の輩を捕まえられはしなかったが、正体は暴いたし、彼らも当分銀座で大騒ぎなどしないだろう。百鬼夜行なんてものもいなかった。それだけわかったら、もう十分だ。ここにいる理由なんてない。

 だが何より大きな問題が残っている。早くお屋敷に戻らなければいけない。

 巡査たちの笛は、明らかにこちらを目指している。狐が目立つことをするからだ。

「わしが大きく変化して、お前らを乗せてひと飛びで帰ってやるが」

 狐は、ひらりと飛んで、お嬢さんの肩に乗った。間近でお嬢さんを見てにやりと笑う。お嬢さんはぎょっとした顔で、目をそらした。

「そんな目立つことは勘弁してくれ。どこで見られるか分からない」

 ぼくがげんなりして言うと、狐はまた薄ら笑いをして見せてから、ぼくの肩に飛び乗り、するりと姿を消した。お嬢さんがまた目をまんまるにしてそれを見ている。


 本当に空が白みだした。今日も学校だというのに。

 しかもさっきよりも近くで、甲高い笛の音が鳴り響いた。まずい、もしつかまったりしたら、この焚書の跡までぼくたちのせいにされかねない。

 ぼくはげんなりしながら、お嬢さんを急かして走り出した。これから自転車で上野のお屋敷まで戻るのは骨が折れる。

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