第3話 通りすがりの目撃者

 お嬢さんは勢い良く立ち上がると、肩を怒らせて受付台カウンターに向かって行った。

 面倒なので見送ると、お嬢さんは女給を掴まえて声高に話している。


「百鬼夜行なんて聞いたことがないわ」

 お嬢さんはいつも愉快なことを言うわね、と笑うミルクホールの女給の声が聞こえた。

「夜中まで大騒ぎする学生さんたちは多いですけれど」

 ミルクホールの男主人も、受付台の向こうで笑った。

「不逞の輩は多く聞きますよ。女学生がかどわかしにあったというでしょう」

 人を殺し肝を奪って長寿の薬だと売ったり、女学生をかどわかして外国に売り飛ばしたり、国粋主義の輩が汽車を爆破しようとしたり、百鬼夜行にこだわらなくても、世間の混沌は枚挙にいとまがない。

 卵をボウルでかき混ぜながら、主人は言う。

「それに、百鬼夜行を見たら死ぬって聞きましたよ。もし見ていたらここにいませんよ」


 お嬢さんは頬をふくらませて、ぼくたちが座っている洋卓に戻ってくる。

「見た人が死ぬのなら、見た人がいないのも、当たり前のことよね」

 死んでるんだから。

 つぶやくお嬢さんは、物騒な上にしぶとい。

「それなら、おかしな死人が山のように出ているはずでしょう。それに、千歌絵さんだってここにはいませんよ」

 ぼくの言葉に、お嬢さんは黙り込んだ。

 正直なところ、世の混沌も極まって、不審な死人なんて珍しくもないのだが。幸いなことに、世間知らずなお嬢さんの目や耳には、入っていないようだった。

「でも、何か理由があるはずよ。千歌絵さんがご無事だった理由が」

 千歌絵さんの言うことだから信じているのか、怪異を信じているのか、不可思議なことを否定されておもしろくないのかわからないが、お嬢さんはとてもしぶとい。

「環蒔さん、お気になさらないで。書生さんの言う通りですわ。わたしの勘違いかもしれない」

 千歌絵さんは大真面目な顔で言った。確かめるために、また夜中抜け出しかねない顔だった。勘弁してほしい。


「お嬢さんたち、今回は黙っておきますけど、また夜中に外をうろつくようなことがあったら、見過ごせませんよ」

 ぼくの言葉に、お嬢さんは頬をふくらませた。ぼくはお嬢さんたちを罰する大人ではないが、恩義のある旦那さまを裏切らない。それ以前にぼくの勉学の邪魔をする人の味方でもない。面倒ごとだけはとにかく御免だ。





 千歌絵さんと別れて、お嬢さんとぼくは帰路についた。乗合馬車を見ながら、お嬢さんは不思議そうに言う。

「そもそも、百鬼夜行って何なのかしら?」

 今更すぎないだろうか、その疑問は。

 本当に百鬼夜行があるとして、とぼくは前置きをして言った。


「百鬼夜行が何かは、色々な説があります。単に鬼の行列であるとか、付喪神が自分を捨てた人間を探しているのだとか、何かの前触れであるとか」

「そうなの。やっぱり溝口さんは、知恵者ね。変なことをよくご存じだわ」

 人の知識を頼っておきながら、変なこととは、あんまりな言いようだ。しかしそんなことに構っていられない。

「とにかく、そろそろ帰りましょう。聞き込みなんてはじめないでくださいよ」

 夏の長い日も沈みかけている。さすがにお嬢さんと二人、夜まで外にいたとあっては問題になる。

 けれどお嬢さんは顎に手を当てて、難しい顔をして往来を見ている。この道の先は銀座だ。


「百鬼夜行を見ると死ぬというのなら、千歌絵さん、どうして無事だったのかしら」

 やはり、見ていない、とは思わないらしい。

「では、千歌絵さんが見たものも、百鬼夜行なんかじゃないんでしょう。死んでないんですから」

「朝日で助かるんでしょう?」

「こっそり家を抜け出したのに、朝まで銀座をうろついていたなんて、考えられませんよ」

 当然、朝日が昇る前に家に帰ったはずだ。家の人に見つからないように。

「千歌絵さんが嘘をついていると言うの?」

「嘘をつくような方には思えません。暑気当たりで幻でも見たんでしょう」

 まあ、とお嬢さんは、あきれた目でぼくを見た。

「いいえ、何か理由があるはずだわ」

 お嬢さんは本当にしぶとい。


 ぼくらのそばを、黒い法被を着た男が通りかかった。先頃千歌絵さんにぶつかった黒法被の男かとお嬢さんは眦をつりあげたが、黒い法被は、この界隈に珍しくない。

 点灯夫だ。暗くなっていく街に、瓦斯灯の明かりをともしてまわるのだ。

「ねえ、あなた。夜中に町を通るでしょう。変な行列を見なかった?」

 お嬢さんは屈託なく、通りすがりの黒法被を掴まえた。振り返ったのは、やはりさっきぶつかった若者とは別の、髭面の中年男だった。男は眉をひそめる。

「なんでそんなこと聞く」

「お友達が見たっていうの。そんなものがうろついているなんて、お国の一大事だわ」

 夕暮れの紫色の空の下で、男は少し青ざめた顔をして、ひっそりと言った。

「……見たよ」

 そういう、本当っぽい言い方はやめてほしい。

「なんで生きてるんですか」

 ぼくはげんなりとして問うた。

「不動明王に念仏を唱えていたら、おかしな者たちは消えていた。瓦斯灯を消して回らねばならぬので、仕事に戻った。あとのことは知らん」

 手にした長い棒を握りなおして、黒法被の男は首を左右に振る。記憶を振り払うように。

「あんたらも夜遊びなどしていないで、さっさと家に戻るんだな」


 逃げるように男は駆けて行った。その背を見送って、お嬢さんは勝ち誇ったように言う。

「ほら、やっぱり百鬼夜行はいるんだわ」

 たった一人、本当かどうかもわからない証言が得られたからって、偉そうにされても。

「いるならますます、お家に戻っておとなしくしていたほうがいいですよ」

「お経を唱えて神仏におすがりしてしのげるものなら、恐れるものではないわ!」

 お嬢さんはつまらなそうな、それでいてどこかほっとした顔をした。さっきのやつ、余計なことをお嬢さんの耳に入れてくれたものだ。


 確かに、経文の書かれた衣服を着ていて助かった話や、お経を唱えて助かった話が、昔話にある。せっかく黙っていたのに。

「たまたまかもしれないですよ。百鬼夜行が本当にいたとして、千歌絵さんが見たのがそれだとして、千歌絵さんはどうやって助かったんだかわからないじゃないですか」

「千歌絵さんは、基督和英女学校の方だわ。十字架ロザリオをお持ちだもの」

 そういった西洋のものが効果あるのかは分からないが、つまりは信心が大事だと言いたいのだろう。

「お守りを持っていけば安心ね」

「……まさかお嬢さん、夜中に抜け出して銀座に行くつもりじゃないでしょうね。駄目だってさっき言いましたよね」

 たしなめるぼくを見て、お嬢さんは驚いた顔をした。

「当たり前じゃないの。不逞の輩と百鬼夜行が夜中に騒いでいるのよ。溝口さんだって放っておけないでしょう」

 その言いぶりでは、ぼくも同行することになっているようだった。どうしてそうなる。

「不逞の輩はともかくとして、お嬢さんたちみたいに夜中に遊びまわっているのもどうかと思います。そんなことが知れたら退学ですよ。そういうのは巡査にまかせておけばいいんです」

「見つからなければいいのよ」

「どうやって夜中に銀座まで行くんです。お嬢さんの足では上野のお屋敷から歩いて一時間以上かかります」

「自転車で行くのよ。歩くのの半分もかからないわ」

 お嬢さんの歩き方がまた荒っぽくなってきている。肩を怒らせて、海老茶の袴の裾を蹴散らすようにして、ずんずん進んでいく。

「自転車に乗っているところが見つかったらどうするのですか。退学ですよ」

「見つからなければいいんだったら。女が自転車に乗ってもいいじゃない! 子供が産めなくなるなんて、まったく根拠がないってお医者様も言われていたし」

「良くないといっているのはぼくじゃなくて世間です」


「とにかく!」


 お嬢さんはまた大きな声を出した。

「行くのよ。妙な輩は捕まえなければいけないし。言いつけたら許さないんだから」

 やはりお嬢さんたちは、狼藉者を見てやるのではなくて、捕まえるのが目的だったらしい。

 ぼくはまた、頬を真っ赤にして怒っているお嬢さんを見て、大仰にため息をついてみせた。せいぜいこれがぼくにできる抵抗だった。

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