第2話 ご学友の言うことには

 着色硝子ステンドグラスもまぶしい新橋駅前の雑踏の中、やけに目立つ女学生がいた。

 三つ編みを輪っかにして、髪帯リボンで結んだまがれいとマーガレット金縁ゴールド眼鏡に海老茶の袴。

 革の靴をはいた、流行の権化のような女学生は、お嬢さんと同じハイカラ娘だ。姿勢を正して、清々しい佇まいだった。色とりどりの三角模様がちりばめられたモダン柄の風呂敷を、大事そうに抱えている。


「ごきげんよう、環蒔さん」

 彼女は折り目正しい仕草で頭を下げ、お嬢さんの後ろにいたぼくにも会釈をした。ぼくは小さく会釈を返す。お嬢さんは弾んだ声をあげた。

「ごきげんよう、千歌絵ちかえさん。お待たせしてごめんなさいね」

 お嬢さんも、蝶の柄の鮮やかな風呂敷包みを、両手でしっかりと抱いている。持ちますと言ったぼくを断って、ずっとここまで抱えてきた。


「いいえ、急がせてしまって、こちらこそ申し訳ないわ。……例のもの、持っていらして?」

「もちろんですわ。千歌絵さんもお持ちのようね」

 百鬼夜行はどこへやら、お嬢さんたちは顔をあわせるなり、はしゃいで話し始めた。これは時がかかりそうだ。思っていたより面倒なことになった。

「同じ学校の盟友からお譲りいただいたものですの。まだ環蒔さんもご覧になっていないと思います。きっとお気に召しますよ。ぜひご感想をお聞きしたいわ」

「まあ、まあ、千歌絵さん。なんていけない人なの」

「環蒔さんこそ」

 ふふふふ、とお嬢さんたちの含み笑いがあやしく聞こえる。千歌絵さんがお嬢さんに風呂敷包を差し出した時だった。


 後ろから、どん、と突き飛ばされて、つんのめった。風呂敷包が勢いよく飛んで行って、千歌絵さんは地面に膝をつく。どさりと重い音がした。

「千歌絵さん!」

 お嬢さんが千歌絵さんの肩を支えて、大きな声を上げる。千歌絵さんにぶつかった黒い法被の男が舌打ちして、くるりと振り返った。大喝する。

「女がこのような往来で大声で騒ぐなど、不躾な」

 カッとお嬢さんの頬に朱がさす。

「そちらからぶつかっておいて、その言い分は何!? 謝りなさい!」

 まったく怯みもせずに、威勢よく言い返した。お嬢さんの声はよく通る。夕刻の新橋の雑踏の中でも、遠くまで響いた。

 若い男はうるさそうに顔をしかめてから、また舌打ちをする。そして、地面にかがみこんだ千歌絵さんを見た。

 しっかりと結ばれていたはずの包みは、中身が重すぎたのか、はずみでゆるんでしまったようだ。表紙に少女が描かれた冊子がいくつも零れ落ちて、千歌絵さんは着物が汚れるのもかまわず、慌てて隠した。

「なんだそれは! 小説か!」

 見とがめた男の声が大きくなる。

「女子が小説を嗜むなど、ふしだらな!」

「なんですって! ふしだらなものなんて何もないわ!」

 公衆の面前で侮辱され、お嬢さんの声が相手を上回って大きくなる。行きかう人々が遠巻きにこちらを見ている。ああもう、なんだか面倒なことになった。

「環蒔さん、構いませんわ」

 千歌絵さんは立ち上がって、お嬢さんの腕を引く。注目を集めたくないのだろう。それにはまったく同感だが、お嬢さんも男も、まったく周りが見えていない。男はお嬢さんと千歌絵さんを見て、ぎりぎりと歯を鳴らした。

「まったく、女学生などと浮かれた者たちが。堕落の極みだ。だから女子に勉学など無駄なのだ」

「どこのお偉い方か存じませんけど、人にぶつかっておいて、自分の非を認めず、頭ごなしに人を怒鳴りつけるなど、よほどすばらしい教育を受けていらっしゃるのね!」


 お嬢さんが叫んだ時だった。男は突然つんのめり、顔から地面につっこんだ。千歌絵さんの横に。びっくりして千歌絵さんが悲鳴を上げる。

 男は慌てて起き上がった。擦りむいた小鼻を抑えながら、千歌絵さんを見て、真正面で怒鳴りあっていたお嬢さんを見て、ぼくを見た。

「お前、何をした!」

 どうしてそうなる。

「何もしていませんよ。ぼくこっちに立っていました。届くわけないでしょう」

 お嬢さんの後ろ。

 ふいに妙な笑い声が響いて、男は周りを見回した。人のあふれた駅前で、洋装の紳士も、学生も車夫も、身なりの良いご婦人も、眉をしかめてぼくらを見ている。この中の誰かが突き飛ばしたのだろう。そう思ったらしき男は、またギリギリと歯を噛みしめた。あたりに向かって怒鳴り散らすかと思いきや、立ち上がって千歌絵さんを見降ろし、ふんと鼻を鳴らした。

「軽薄な知をふりかざすふしだらな者たちめ。二度と俺の前に現れるな!」

 捨て台詞を吐いて、人込みの中に駆けていった。




 憤懣やるかたないお嬢さんをなだめすかし、とにもかくにも人目を避けて、ぼくたちはミルクホール『アカボシ』へやってきた。にぎわう学生たちから少し離れた隅に腰かける。

 憤慨しきりのお嬢さんのために、千歌絵さんがあいすくりんを注文した。

「環蒔さん、国粋主義であのように頭の固い輩のことなど、お気になさってはいけません。環蒔さんのお時間がもったいないですわ」

 涼しい顔で手厳しいことを言った。お嬢さんは得心の行かない顔で、ぶすっと言った。

「千歌絵さんにお怪我がなくて良かったわ」

「ええ、ですから、忘れましょう。環蒔さん、ご覧になって。新しいあいすくりんですって」

 女給の運んできたあいすくりんは、桃色の花の形の器にこんもりと盛られて、檸檬の輪切りが添えられている。

 お嬢さんはぶすくれた顔のままで、ひと匙すくって口に運ぶと、途端に顔を輝かせた。

 それからふたりは、あいすくりんの形や色のかわいらしさと、いかに甘く冷たく後味爽やかであるかについて話し始めた。ぼくは少しあたためたミルクとドーナツを食べていたけれど、それをたいらげた後も、お嬢さんたちはまだ話していた。気づいたらヘチマ化粧水の話になっている。

 二人は、げんなりしたぼくの眼差しに気付いたようだった。お嬢さんはスプーンをうやうやしく置くと、わざとらしく咳払いをした。


「千歌絵さん、うちの書生さんよ。溝口修治みぞぐちしゅうじさんとおっしゃるの。外国語学校でお勉強されているわ」

「環蒔さんがおっしゃっていた、怪事に詳しい方ね」

 お屋敷でのお嬢さんの口ぶりでは知恵者扱いだったが、彼女たちの間では探偵か祈祷師のような扱いになっているようだ。正すのも面倒で、ぼくは聞き流すことにした。

「お嬢さんたちは、ご学友なんですか」

 ぼくの問いに、お嬢さんは千歌絵さんの顔を見た。二人でうなづきあう。そして周囲をうかがいながら、声をひそめて言った。

「もう溝口さんには見られてしまったからお話しするわ。千歌絵さんとわたくしは別の女学校に通っているのだけど、女子嗜読しどく会「雛菊」のお友達なの」

「読書倶楽部のようなものですか」

「ええ、小説の、ね」

 さっき千歌絵さんが持っていた冊子は、最近はやりの恋愛ものの小説だった。お嬢さんの風呂敷包みも同じようなものが入っているのだろう。


 そもそも女子の勉学は不要だとされる風潮の中、女学校では、小説などの読書をあまり認めていない。

 お嬢さんは旦那さまの意向で私立の女学校へ通っているから寛容なほうだろうが、公立の学校では禁止されているところもあるらしい。恋愛小説など読んで風紀に問題が生じてはいけないということらしい。

 先ほどの黒法被の男がお嬢さんたちを「ふしだら」と呼んだのは、そのせいだ。ぼくはあまり小説を読まないのでよくわからないけれど。

 女子は慎ましくおとなしく、何も知らずにおれば良いということらしい。


「これは、本当は秘密なの。同じ嗜みを持つ女学生にしか知られてはいけないことよ。溝口さんを信じて打ち明けるわ。特にお父様には秘密にしておいてちょうだい」

 お嬢さんが、共犯にぼくを選んだ理由が分かった。この秘密を知られても、彼女たちを罰しない相手の必要があったのだろう。

「お話の前に確かめておきたいのですが」

 とにかく早く面倒を終わらせてしまいたく、ぼくは話を切り出した。

「お嬢さんたち、本当は何をしていたんです」

 突然の話に、お嬢さんは、「えっ」と大きな声をあげて、慌てて口元をおさえた。

「百鬼夜行が本当に出たとしてお話しますけど、そんなもの太陽もとに出るものではありませんよね。朝日が出てきて助かったという逸話もあるくらいです。夜中に何をしていたんですか」

 まさか、気付かれると思っていなかったのだろうか。お嬢さんは迂闊なところがあるから、狼狽を隠せずにいる。けれど千歌絵さんは、どこか観念した様子がある。お嬢さんたちはまた顔を見合わせて、しきりに目配せをしていた。視線で会話をしているようだった。

 結局、千歌絵さんが言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話した。


「近ごろ銀座で、夜中に騒ぎを起こす狼藉者がいるという話。書生さんはご存知?」

 それはぼくも聞いたことがある。近年、煉瓦だとか電気灯だとか鉄道だとか、政府は大慌てで西洋に追いつこうとしている。だが、めまぐるしく変わる世情についていけず、反発を持つ人たちが少なからずいる。外国人居住地区である築地に近く、大火のあと西洋風に造りかえられた銀座は、西洋化の象徴シンボルのようなものだ。

「それが、女学生を嫌っている一団だという噂があるんです。女子が勉学など生意気だと言うのですわ。わたしたち、許せないわねと言うお話をいつもしていましたの。女学生が狙われる事件も多いですもの。そういう輩がいるのは危険だと思いまして、犯人をみてやろうと家を抜け出したのですわ。わたしの学校は築地にありますから、銀座から近いですし、噂が本当かわからないと恐ろしくて」

 そして女学生もまた、西洋化の象徴だ。

 しかし世間知らずの彼女たちの好奇心と正義感では、夜中に一人で不逞の輩と対峙するほうが、よほど恐ろしいことだと気づかないのだろうか。

「それで夜中に銀座に行って、百鬼夜行に出くわしたというわけですね」

 ぼくの言葉に、千歌絵さんは洋卓テーブルの上の手をぎゅっと握って、神妙にうなづく。

「ええ、何かはよく分からなかったのですが、とても人とは思えない、大きな恐ろしげなものたちでした。狐火のようなものがちらちらと飛んで、唸り声のようなものが聞こえていました。霞のようなものに包まれて、服部時計店の前の大通りを列をなして歩いていました。幸いなことに、彼らはわたしに気がついていないようでしたわ」

「千歌絵さんはとても勇気がおありだわ」

 お嬢さんは、千歌絵さんの手を握って励ますようにしている。けれどぼくはつい、率直な感想を漏らしてしまった。


「石畳に電気灯に鉄道に百鬼夜行だなんて。似合わない」

「でも、いたんだもの!」

 見てもいないお嬢さんが強く言う。

「ぼくの故郷のような田舎町では時々そんなおかしな噂も聞きましたけど、この開明の東京で百鬼夜行だなんて、笑ってしまいます。夜も真昼のようなところですよ。不思議なんて潜んでいる余地はありません」

「まあ、溝口さんまでそういうことおっしゃるの」

「ぼくはあまり、訳のわからないことに関わりたくないんです。平穏無事に過ごして学校を卒業して、旦那さまにご恩返ししなくては」

 お嬢さんは拗ねた時の常で、頬をふくらませた。彼女の前に置かれたあいすくりんがどんどん溶けて、形を崩していく。

 近代化のおかげで、暑い最中に、こんな冷たいものが食べられるというのに、非科学なものと関わりたくない。

「いいわ、きっと千歌絵さんのほかにも見た人がいるはずだわ!」


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