ハイカラ娘と銀座百鬼夜行

作楽シン

第一章 ハイカラ娘と煉瓦街を暗躍する影

第1話 お嬢さんの曰く

 吐く息まで暑いような夜だった。

 襟の合わせや帯のあたりに、汗がじわりじわりとにじんでくる。


 築地の居留地から銀座へ向かう足が、緊張で知らず早くなった。革の長靴ブーツが煉瓦の道にカツカツと響く。

 黒々とした空に星がきらめき、月もぽっかりと浮かび、銀座の煉瓦通りには電気灯が光っている。きらきらとした街の灯りの下を、影が通り過ぎた。ひとつ、ふたつ、袴を着た人影が路地へ消えていく。


 ――見つけた。なるべく足音が響かないよう爪先立ちになって、後を追った。暗い路地の前で少しひるんだけれど、意を決して足を踏み入れる。

 細い道の先へ進むたび、道を曲がるたびに、闇が深くなっていく。電気灯があるはずなのに、なんだか靄がかかってよく見えない。

 ふと角の先に、ゆらゆらと明かりが見えた。足を止め、息を整えてから、恐る恐る覗き込んでみる。

 ぼやけた灯りにあおられて影が躍っていた。たくさん踊っている。唸るような、謡うような声が聞こえる。


「滅びろ、滅びろ」

 唸るような声が言う。応、応、と地響きのような声が続いた。滅尽、討滅、殲滅、と唱えるように。

 すう、と体の熱が引いて肌が粟立つ。背中を、暑さとは違う汗が流れた。

 異形がいる。たくさんのあやかしが、恨みをほとばしらせ、靄の中をゆらゆらと踊っていた。昼のように明るい電気灯なんて、ものともせずに。




「そういうことなの」

 暑いさなか、環蒔たまきお嬢さんは腰に手を当てて、鼻息荒く言った。

「そうですか」

 ぼくはとりあえず相槌を返す。話が終わったようなので、文机デスクに向き直り、書物に顔を戻した。横に置いていた団扇を手に取る。

「だから、百鬼夜行が出たのですって!」

 先ほど書生部屋に駆けこみながら叫んだのと同じことを、お嬢さんはわめいた。良家の令嬢には似つかわしくない大きな声で。そもそも、ぼくが書生としてこの高辻男爵家にお世話になってしばらくたつが、お嬢さんがご令嬢らしくないことは今にはじまったことではない。

 ぼくは手元の書物に目を落としたまま応える。

「勉学中です」

「見ればわかるわ。でも、それどころではないの、溝口さん! 百鬼夜行が出たの!」

 ひときわ高くお嬢さんが声を放つ。


 ぼくはとうとう、お嬢さんの話を聞き流すのを諦めた。書物に団扇を挟み、文机に置いて、お嬢さんの方へ向き直る。

「その馬鹿々々しい怪談話がですか。ハイカラさんが妖怪変化を信じるなんて、古風なことをおっしゃいますね」

 お嬢さんは、海老茶色の女袴の裾を蹴散らすようにしながら、ぼくの椅子の後ろで行ったり来たりしている。

 女学校は長期の休暇中なのだが、こちらの方が楽だからと、お嬢さんはいつもあの格好をしている。今日は、ご学友と約束があると聞いていたから、出かけて戻ってきたところなのだろう。

 お嬢さんは足を止め、ぼくを睨んだ。

「あたらしき女は、古いものも新しいものも、分け隔てしないの。そうやって、たくさんのものを取り込んで、あたらしき道を開いていくの」

「それは素晴らしいことですね」

 ぼくはとりあえず相槌を打った。そうしないとお嬢さんのご口舌は延々と続く。お嬢さんはいつも、妙な噂話を聞きつけてきたり、目新しいものを見つけたと騒いでは、問題ごとをぼくに押しつけるのだ。

 お嬢さんは胸を張り、その胸に掌を当てて、反対の手を腰に当て、堂々と言い放った。

「そうよ。世の中の風潮に流されたりせず、自分の目で見極めるの」


 開明の世、明治と改められてからすでに三十年余り。

 富国強兵の名のもと誰もが学校へ通うことが決められているけれど、子供を学校へやることができる親ばかりではない。農村での子どもたちは貴重な働き手で、費用もかかるからだ。

 ぼくもそういう家の生まれだったけれど、たまたま縁と運に恵まれてこの高辻男爵家で書生として住まい、援助をしてもらっている。もちろん誰もがしてもらえることではない。

 特に世間は女子の教育について消極的なところがある。女子は学ぶ必要がないと考える人が多かったりするせいで、女学生は主に裕福な家の娘ばかりだ。金銭の問題のほか、女は家にいて家を守るもの、という意識も少なからずある。

 だからお嬢さんのような「あたらしき女」のハイカラさんは、新しい時代の象徴シンボルのようなもので、世間の注目も大きい。女学生が海老茶色の袴をはいていてることから、紫式部とかけて、海老茶式部と呼ばれたりもする。

 ハイカラさんは、新しいものを体現した憧れの的であり、同時に、新しいものへ飛びつく事の侮蔑の的でもあった。

 けれどお嬢さんはお嬢さんなりに、ハイカラさんとしての自負があるらしい。


「とても素晴らしいことですが、ぼくは書生としてこのお屋敷にお世話になっている身ですから、勉学と旦那さまのお手伝いが一番大事なんです。そのつまらない噂話は、それよりも重要なことだとは思えません」

「失礼ね。つまらなくも、噂話でも、嘘でもありません!」

「昨日も、どこかの女学生が失踪したって噂話を聞きつけてきてこられましたけど、新聞に載っていませんでしたよ」

「だって駆け落ちかもしれないっていう話よ。醜聞だからって、新聞に載るのを誰かが止めたのかもしれないでしょ」

「それは否定しませんが。尚更真相など分からないのですから、噂や嘘かもしれません」

「今回は違うわ! 百鬼夜行を目撃したお友達がいるの。直接じかに聞きつけてきたんだもの、確かな話よ」

 お嬢さんは、結い流しにした自慢の黒髪を肩から払い落としながら、興奮で頬を林檎色に染めて言った。

 ああ、熱い、暑い。

「今からもう一度細かな話をうかがうことになっているわ。新橋駅でお友達と待ち合わせをしているの。さあ早く」

 お嬢さんは、至極当然の顔でぼくを促した。

「まさか、ぼくも行かないといけないんですか」

 予想していたけれど、ぼくは大げさにあきれた声を出した。お嬢さんはきょとんとしてから、何を言っているの、と驚く。

「当たり前じゃない。この東京で何か起きているのよ、妖怪変化よ、百鬼夜行よ!」

「ぼくはあまり興味がないのですが」

「まあ、のんきな人ね。溝口さんは物知りだもの、一緒に来て知恵を出してくれないと困るわ。お国の一大事かもしれないのに、わたしたちがなんとかしないでどうするの」

「どうもしません」

 大袈裟にもほどがある。百鬼夜行だかなんだか知らないが、この開明の明治にそんなものが跋扈していては困る。


 お嬢さんは少し得意げに、こまっしゃくれたことを言う。

「勉学が大好きなあなたの知恵を役に立てる機会だと思わないこと?」

 勉学勉学と言うぼくの揚げ足をとったつもりだろうか。からかわれたり揚げ足をとられたところで、少しも痛くないのだけど。

 お世話になっている家のお嬢さんが何かやらかそうというのを知って、放っておくわけにもいかない。

 誰かに言ってお嬢さんをたしなめてもらうなり、閉じ込めるなりして止めてもらうのが一番なのだろうが、それはそれで面倒なことになりそうだった。告げ口をしたとお嬢さんに騒がれ恨まれて、挙句にこっそり抜け出されて、知らない間に何かやらかされるのも困る。

 裏切り者と言われるのはまったく構わないけど、旦那さまのご面倒になったり、失望されるのは避けたい。


 ぼくはまた、大きなため息をついた。

 その拍子、机に置いていた書物が、音をたてて床に落ちた。栞の代わりに挟んだ団扇がはずれる。窓から流れ込んだ風に遊ばれて、ページがパラパラとめくれていく。

 お嬢さんは突然の音にびくりと肩を震わせ、吃驚した顔で本を見遣った。

魂消たまげたわ。どうして急に落ちたのかしら」

「僕の置き方が悪かったんでしょう」

 お嬢さんは胸元を抑えて、ぼくを見る。

「今笑い声が聞こえなかった?」

 いいえ、とぼくははっきりと応える。そんなもの聞こえてはたまらない。

「僕らのほかに人もいませんし、聞こえませんよ」

 強く否定する。そのあとに、風鈴売りの声と涼しげな硝子の音が聞こえてきて、白々しく二人の間に流れた。

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