第100話 咳き込む音だけが響く中で

 ぼくの足はほとんど止まっていた。時々防火扉を通ったりしながら頑張って壁伝いに廊下を逃げてきたけれど、さらに濃くなる煙と塞がれていく視界が物語る現状は、流石に煙から追いつめられてしまったと言うしかないと思う。高い場所ほど色が濃いからと保ってきた低い姿勢も足を怪我しているせいで既に限界が近い。天井の煙はこれ以上留まっていられないようで、床付近にも完全に澄み切った空気が無くなりはっきりと煙の色を認識できる程になっている。今まで経験したことは無いけれど、煙が充満していくってこういうことなのかなと、進むのを諦める気持ちと一緒にへたり込んで考えた。

「げほっ、げほっ……」

 頭が痛い、くらくらする。お兄ちゃん達はどうしているのだろうか。ぼくが外に出てくるのを、不安を交えて今か今かと待ち望んでくれているのだろうか。

(ごめんね……。ぼく、逃げ切れそうにないや……)

 こんなことになるのなら、部屋を出て行って孤立なんかしなければ良かったのかもしれない。今更後悔しても遅いのだけど、それでも思わずにはいられなかった。

 リシアちゃんへも言葉を返していない。ぶつけられたリシアちゃんの気持ちに対して、この夜の間に頑張って考えた言葉も全て無駄になってしまう。リシアちゃんには伝わらない――。

(いやだよ、ぼくの中に秘めたままなんて……。このままずっと、伝えられないなんて……。お兄ちゃん……)

 目の痛みもあってあふれ出る涙を我慢せずに流し続けながら思い出を思い出す。お兄ちゃんに腕を回したり掴んだ時の感触、抱き着いた時の温もり。ぼくに向けてくれた微笑みや、強く言えない故にからかわれて焦った表情。お人好しな苦笑いも合わせて大切なお兄ちゃん。お姉ちゃんも、ゆずはお姉ちゃんも、みんな――。ただ囲まれていた訳じゃないから。そこにいるぼくを認めてくれてて、居場所があって、ぼくはすごく幸せだった。その幸せを失いたくない。まだ、もっと――もっと生きてみたい。

(あはは……やっぱり、叶わない願いなのかな……)

 そう思いながらこの世界の景色に別れを告げつつ目を閉じようとした時だった。

「っ――」

 何かが触れたような感触を覚える。倒れてくるようなものなどあっただろうか。ううん、そんな冷たい感触じゃない。やわらかくて、あたたかい、ゆっくりとぼくの肌に触れる感触。

(お兄……ちゃん?)

 走馬灯か幻のような可能性を考えていた。だってタオルで口を覆ったぼくの視界に映るお兄ちゃんは何も声を発しないから。ただ黙ってぼくの口にもう一つのタオルを当て、背中と膝に手を回してぼくを抱えあげる。そこでようやくぼくにも実感が湧いてきて、空いている両手で口元のタオルを抑えたのだった。


            〇 〇 〇


 真実を抱えた僕だけど、正直ここから階段を使用して下へと降りるのはあまりにも厳しいことが理解できる。低い姿勢でいたいから背中も伸ばせないし走れもしない。登ってくるはずの煙に逆らって階段を下りれば、自分から煙に突き進んでいくようなものだ。真実を抱えたままのスピードでそんな時間も余裕もないし、それどころか一刻も早くこの煙が充満しかけた廊下からも逃れたい。

 だから僕は、一番近い場所を目指すことにした。屋敷の中心付近にいた真実と、非常口よりも近い場所へ。

「えほっ、えほっ……」

 咳き込む僕に真実が自分のお腹に乗せられている口に当てていた僕用のタオルを片手で当て直してくれる。見えにくくても目的の場所はすぐそこにあったはず。僕は少しの距離を進んで扉の前にたどり着くと、何とか扉を開けて一旦そこへと避難することにした。きっとこの廊下よりは、希望のある環境だと思えるのだから――。

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