第99話 踏み外すか踏みしめるかの分かれ道
――止まった。止まった?
既にただの木片となり果てた手すりだけが小さくなっていき、本来煙一色に覆われるはずの視界が唐突にそれ以上近づかなくなった。私が不思議に思ったのはそれだけでないこともわかる。身体に伝わる一部分の予期せぬ感覚が左右対称なもう片方と、明らかに違うのだから。
「リシアちゃんっ!!!」
両足がまだ完全にはバルコニーから離れていない中で倒れる私の腕が掴まれ支えられたと理解出来たのは、たった今聞き覚えのある声を側で叫ばれた時だった。私は首をまるで人形のようにぎこちなく、ゆっくりと動かして振り向く。
「……ルリ……ト?」
「どうしたんですかっ!? さっきからリシアちゃんのこと呼び続けても一向に反応してくれなくて……。顔も蒼白ですよっ? 目も虚ろで……とにかく危ないですし、ここから離れて早く外へ出ましょうっ」
重力に従い続ける私を支えているのが辛くなったのか、掴んだ自分の腕に一瞬だけ力を込めて私を引き上げたルリト。そのまま言葉を呟きながら私を連れていく。
「ごめんなさい、ここの手すりがもろくなっていること初めてリシアちゃんを連れてきた時に和葉さんが説明したので伝わってると思っていたんですけど……。もうちょっと遅かったら落ちてしまいそうで――」
「――なんで?」
「えっ……?」
バルコニーの端から力を入れず為すがままだった私が中心部でその言葉と共に抵抗を示して動かなくなり、ルリトは違和感を覚えて私の方を振り向いたようだった。どうしてルリトが来たのか、どうして私の腕を掴んだのか。ただ一つ言えること、生きてしまった――。私はその場へとへたり込む。
「もう、何も考えなくていいかなって思ったのに……。箕崎真衛達もあなたも私自身も、気に病まなくて済んだのに……」
「リ、リシアちゃん……?」
話す度に私の声に涙が混じっていくのがその時はっきりと自覚出来ていった。
「なんで助けたの? あなたを突き放した私を置いて一人で逃げた方が逃げやすいに決まってるでしょ?」
「何言ってるんですか……? そんなこと……!」
「出来ないって言うの? やっぱりルリトはお優しいのねっ。わたしとは何もかもが違いすぎて……。それじゃあこの腕を放せるように、あなたがどんなやつを助けようとしてるのか教えてあげるっ。私が箕崎真衛達に危害を加えたことの全容」
もう今更、ルリトにどう思われるかなんて気にしてる状況じゃないし、どうでもいい。私は息を整え、ずっと隠し続けてきたことを私自身の口から発することにした。
「私はゆずは達を連れ去って人質にし、助けに来た箕崎真衛を襲ってナイフを突き立てようとしたのよ」
「っっ……!??」
ルリトは驚愕の表情を浮かべていたので本当にまだ箕崎真衛達から話を聞いていなかったらしい。
「え、えと……冗談はやめてくださ――」
「この状況で冗談を言うと思う?」
「……だとしたら、嘘じゃないんですか? わたしを一人で逃がすための」
それは半分当たっていると言えるかもしれない。私の告白した出来事が嘘だったなら格好良い存在になれたのだろうか。どこか信じ切れていない様子が混じっていたルリトに私は続きの言葉を紡いでいく。
「すべて事実よ、箕崎真衛達に訊いたって同じことを話すでしょう。まあ、結局庇われて失敗に終わっちゃったんだけどね。あなたも私を見てきて、思い当たる節があるはず。これで繋がったでしょ? 私が箕崎真衛達を見ていた意味、部屋で孤立した状況と理由。わかるわよね? あなたが今握っているこの腕は、この手は一度血と罪に染まっているの。あなたのように綺麗で汚わしいものを触ったことも無さそうな手が本来触れ続けるべきものじゃないわ」
「…………」
無言で俯いてしまったルリトに私は手応えを感じ、さらに言葉を重ねていった。
「すん……理解出来たら早く放してくれないかしら。見捨てるなんて思わなくていい。私は望んでここに残るのっ。ここは今、こんな私にふさわしい危険な場所でしょ? ほら、ぴったりだと思わない? ルリト」
そう言いながら掴まれている自分の腕に少し力を込める。だけどルリトの手からもまだ力は抜かれていなくて、私の腕が掴まれている現状は変わらない。やめて、もうこれ以上、私に口を開かせないで――。
「……放しません」
「っ……どこまでお人好しなのかしら。あなたもゆずは達も箕崎真衛も。それが助けられているばかりの私を追い詰めてるってことなのよ! もう辛さに耐えて気にかけなくてもいいって言ってるの! どうせ私はあなた達に何も返せないわっ! 私がいなくなればあなた達の性格故に縛られていた私から解放される、そうでしょ!? あなた達と違って私は所詮枷で重りで足手まといっ! 存在意義どころか邪魔でしかないじゃない!! もうこんな私のことなんて放っておいてよ、あなたを突き放した私の気持ちを受け入れて、私に近付かないでよルリトっ!!!」
話す度ぶつける思いの丈が言葉に込められて語気が強まった。俯いて聞いていたルリトは私の言葉が途切れると、やがて静かに語り出す。
「…………つみかさねて、きたじゃないですか……」
「……?」
「その過ちを悔いること、後悔することを、積み重ねてきていたじゃないですか……。わたし、リシアちゃんと出会ってから、ずううっと見ていましたよ……?」
「っ……!」
「きっと真衛さん達は、わたし以上に見てきているんじゃないでしょうか。どうしてリシアちゃんを気にかけることが、苦痛を伴うのですか? リシアちゃん自身だって、わたし達のこと気にし続けているじゃないですか。自分自身で、気付いていなかったんですか……?」
「っ……!! そ、それは、私のはせめてもの、贖罪だから……。私の過ち、あなたにだってその大きさがわかるでしょう?」
「罪を放免にしている訳じゃありません。でも、リシアちゃんは知らず知らずのうちに積み重ねていたはずです。リシアちゃん自身にも、わたしの心にも。だから、何も変わらないなんて思わないでください。いつまでも枷のままだなんて、思い続けないでください」
「…………」
今度は私が顔を俯けつつある中でルリトは一呼吸おいて顔を上げ、はっきりと私を見ていた。
「リシアちゃん、仮にもしわたし達が一番苦痛を感じるとしたら、それは今まで気にかけてきたことが無意味になってしまうことなんです……」
「っっ……!!!」
「ゆずはさん達の本音も聞く前に自分で全部納得して、勝手にいなくなっちゃだめですよ。それとも、ゆずはさん達の本音を聞くのが不安ですか? 自分の命は粗末に扱えるのにもしそうだとしたら、リシアちゃんは意気地なしさんです」
「いくじ……なし……」
「でも、わたしがリシアちゃんの立場だとしたら、きっとわたしも不安で押しつぶされそうになるかもしれません。今の状態を最善として、これ以上傷つく前にもう二度と傷つかない状態を選択するかもしれません。なので、わたしも意気地なしです。だから、ゆずはさん達からリシアちゃんの希望する答えがもらえなかったら、わたしが慰めてあげます。同じ意気地なしで、それでもわたしとリシアちゃんが違うというのであれば……いえ、たとえ同じだとしても、慰める役目をわたしに下さい。わたしで良ければ、胸も貸します。リシアちゃんより身長も身体も小さいですし、ゆずはさんのように、やわらかくもありませんけど……」
はにかむ冗談を交えたルリトはすぐに表情を戻して言葉を続ける。
「リシアちゃんがいなくなったら、これから先の未来、リシアちゃんに言葉を、気持ちを伝えようと思っているかもしれない人が、伝えられなくなってしまうじゃないですか……。わたし達を含めた今までのリシアちゃんを形作ってきた人の気持ちが、全て無駄になってしまうじゃないですか……」
「でも……でも私は本当に何も出来なくて……役立たずで……っ!」
「少なくても今のリシアちゃんよりわたしの方が、リシアちゃんが出来ることありそうだなって思ってるかもしれません。わたしの気持ちは伝えましたし、悲観的になるのはもうちょっと結果を知ってからでも良いんじゃないでしょうか。さっきの答えをわたしなりに返しますね。今この状況でこの場所は、リシアちゃんにふさわしくありません……」
「ルリト……」
「お嬢様っ!! リシア様っ!!」
頑なに留まろうとしていた私が力を緩めかけた時、突然私達の会話を止めさせた声が耳へ届く。
「和葉さんっ……」
「お二方がご無事で何よりです。リシア様の探している方にはこちらから連絡が出来ますので、リシア様もご一緒に」
「行きましょうリシアちゃん。どうか途切れた道を選ばず、わたし達と同じ道を歩んでください。無意味じゃないんです。リシアちゃんはもう、ちゃんと私達に影響を与えてくれる存在なんですから」
そう言われながらルリトに再び手を引かれる。歩んだかもしれない途切れた道が遠ざかっていくのを時々振り返りながら、私は手すりの壊れたバルコニーから離れていくのだった――。
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