第96話 遮られていく視界、静かに忍びよるのは……

 ぼくが動く音以外は何も聞こえない無音の中で突然響き渡った警報音に最初はただただ戸惑うしかなかった。逃げることを指示する放送が終わった頃、今の状態をちょっとばかり整理出来たぼくはようやく避難を開始する。今自分がお屋敷内でどの部分にいるのかも把握しきれていないのにお兄ちゃん達と合流しようとするのは入れ違いも考えると厳しいかなと思って、お兄ちゃん達の脱出を信じつつ一番近くの階段を降りようとした。だけど目線の先、階下からすさまじい勢いで迫ってくるのはぼくを含めて誰かれ構わず呑み込もうとする煙。

「っっっ……!!!」

 咄嗟に煙から逃れようと階段を引き返し、退路を長い廊下へと変更する。この階へとたどり着く煙はものすごい速度を感じたのに、たどり着いた後の煙は廊下を逃げるぼくをあまり追いかけてくることもなく、比較的簡単に離れることが出来た。

 袖で口を押えながら移動するぼく。まだ巻き込まれたというような実感はないけれど、他の場所から流れてきているのか天井付近を煙が薄く覆っているような気がするのでちょっぴり姿勢も低くしておく。下の階に降りることが出来なかった以上、このまま非常口かどこかの逃げ道を見つけて出来るなら途中で誰かと合流したい。そう考え直していた時――、

「っっ!??」

 天井付近の煙に気を取られてずっと上方向を向いていたからかもしれない。動き続けた故足元に迫っていた障害物に全く気付くことが出来なかった。誰かが避難する時にでも間違って倒してしまったのだろうか、ぼくはその障害物――倒れていた細いポール状の看板に脚を取られる。床に叩きつけられた時に予想外の激痛が一瞬走った。

「いつっっ……!」

 どうやら着地時に片足を不自然な方向にひねってしまったらしい。力を抜いた足を動かすたびに表情を出さないでいるのが不可能なほどの痛みが襲ってくる。

 周りを見渡すと二本の分かれ道。さらにもう一つの方向はプールを見下ろせるバルコニーになっていて、分かれ道の一方がぼく達が過ごしていた部屋へと繋がっている。

「いたい……」

 涙目になりながら、それでもここで立ち止まっているわけにはいかない。普段なら手を差し伸べてくれる、足を擦りむいただけでも助けてくれるお兄ちゃんも誰も今はいないのだ。必死で壁に寄り掛かりながら立ち上がり、そのまま壁伝いに足を引きずって歩いていく。ここからぼく達の過ごしていた部屋の扉まで目視は出来ていても、向かうとなると距離があった。それも今、足を引きずりながらではなおさら時間がかかるだろう。

 何とか扉の前まで身体を動かし部屋の中を見てみると、案の定和室にも洋室にも人の気配がない。お兄ちゃん達と合流出来なかった寂しさと、お兄ちゃん達は少なくとも無事に避難し始めているという安堵感を同時に感じて、複雑な気持ちを抱えていた。

「ぼくも……ぼくも、早く逃げなくちゃ……」

 洋室の扉を閉めた後、再び歩を進め部屋から離れていく。天井付近の煙はさっきより濃くなっている様子で、このままだといつ非常口への案内が見えなくなるか、視界が遮られてしまうのかわからない。

「ごほっ……」

(お兄ちゃん……ゆずはお姉ちゃん……お姉ちゃん…………)

 焦りは少しずつ募っていく。何度も転びそうになりながら、諦めて倒れかけそうになりながら足を動かし続けた。まだ大丈夫、出口に近づいていない訳じゃない。心を奮い立たせるけれど、どうしても自分の動きは遅くて、鈍くて。怪我などしなければ、そんな自分のだめなところも後悔して、もどかしい。ぼくの進む速さより速くぼくを追い詰めてくるものがある。それを実感するたびに、血の気が引いていくのを受け止めざるを得なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る