第53話 差し伸べられた手は絆の証

 僕が体験した中で一番長いと感じた春休みももうすぐ終わる。誰もいない教室の中で座り慣れた椅子と机に何気なく手を触れた僕は、ほんの少しだけこの場所に懐かしさを感じていた。落としていた視線を戻して窓の外の景色を見つめながら、ゆずはさん達の事を考える。高校生活で戸惑うことは無いかとか、これから先、クラスにしっかりなじめていけるのだろうかとか。なっていたのは少しの間だったけれど、生徒を心配する先生は、きっとこんな感じなのかなと考えたりもした。そう、生徒と、先生――。

《私と真衛君の繋がりって、ほんとに、先生と生徒の関係だけ? 真衛君が先生辞めたり、私が生徒辞めちゃったら、それで、終わり……?》

 ふと、このみちゃんの言葉が蘇ってきた。

「みっがさっきく~ん」

 あの時、このみちゃんは僕に何と言ってほしかったのだろうか――。

「円香さん、学校に呼び出してまで伝えたいことって一体何ですか?」

 まあ僕が通う学校の場所は変わらないので本来慣れ親しんだ机や椅子を惜しむためだけにここへと来るつもりは無かったのだ。伝えたいことがあるならばわざわざ学校に来る必要が無いとも思うけれど、帰り際の外食に付き合うという名目で呼び出された。そんな円香さんのいつもと違うところと言えば、何だかフォーマルな服に身を包んでいるということだけど、伝えたいことと何か関係があるの――

「実はね、私箕崎君の担任になることになったから」

「えっ…………?」

 硬直。誰が? 僕が。いつ? 今。どこで? 学校の教室で。ではどうして? 目の前の先生のせいに決まっている。

「……えっ、いや、その、円香さ――」

「こらっ、学校でプライベートの呼び方は控えなきゃだめだよ、箕崎君」

 すっかり先生の顔で僕に注意する、そんな見るからに僕のため息を増やさせそうな先生が、僕の隣に立っていた。


            〇 〇 〇


「はあ……。それで、どうして僕が通ってる学校の先生になってるんですか?」

 屋上に場所を移した僕達。円香さんは僕のため息まじりな質問に嬉々として答える。

「ふふっ、実はね、私あの水島家の主人、言うなれば、ゆずはちゃん達のお母さんとお友達なの」

 ゆずはさん達はお父さんがいなくて、お母さんが単身赴任で働いているという事を僕はゆずはさんから聞いている。

「その人結構気まぐれな人で、最初は会社の社長さんをやってたみたいなんだけど、最近はその会社を部下の人に任せて、今は学園の理事長をやってるんだって」

「そ、そうなんですか……」

 円香さんは普通に話しているけど、気まぐれなゆずはさん達のお母さんはそれだけのことが出来る人だということだ。世の中にはそんな完璧超人がいるんだと、僕はしみじみ実感する。

「それで、そんな忙しい人と久しぶりに電話が通じたんだ。でも挨拶の後今の私がアパートの管理人やってるって言ったら、若いうちからそんな生活してないで汗水たらして働けって言われてね。せっかくだからってことで、箕崎君のいるこの学校に紹介してもらったの。おかげでいきなり採用されちゃった」

(あはは……円香さん、教員免許持ってるのかな……)

 もはやゆずはさん達のお母さんは尊敬を通り越して恐い気がする。

「でも、働きたくないのに働かされるんだから何か見返りちょうだいって要求したら、何がいいのって聞いてきたんだ。それで、私ずっとアパート暮らしで、そろそろ一戸建てに憧れてきたから――」

 その先は言わずともわかるような気がする。いったいどこにそんな一戸建ての家を建ててもらったのだろうか。それ以前に友達のためにそんな事までしてくれるなんてゆずはさん達のお母さんはどれだけすごいんだろうとか、働きたくないのに働かされたから見返り要求なんてどれだけ理不尽なんだろうとか、言いたい事はいろいろあったけど。僕は購買の自動販売機で買った炭酸飲料を飲みながら、円香さんの言葉を待つ。

「私と箕崎君を、ゆずはちゃん達の家においてもらうことにしたの」

 含んでいた炭酸飲料を少し吹き出しそうになった。

「わっ、もう、箕崎君行儀悪~い」

「っ、えっ? 円香さん、今、なんて……?」

 今この人、さらりととんでもないことを言ったような――。

「だって私、一戸建てにたった一人で住むの寂しいもん。あ、大丈夫だよ。心壮の方は時々ちゃんと掃除に行くから」

「重要なところそこじゃないような気がするんですけど……」

「実はゆずはちゃん達にもまだ話してないし、お母さんから許可もらっただけなんだけどね。箕崎君にまずこの話を聞く権利をあげようと思って」

「絶対順番間違えてると思います……」

「え~っ、だってこれは箕崎君にも有益なことなんだよ? ほら、家庭教師も毎回ゆずはちゃん達の家に通うの大変でしょ? 話を聞いたら喜ぶかな~と思って」

「っ…………」

 家庭教師――そういえば、円香さんに話すのを忘れていた。

「あれ……どうかしたの? 箕崎君」

「あの、円香さんにはまだ話してなかったことなんですけど……」

 僕は少し前のことを思い出す――。


          ○ ○ ○


「そうか……君と一緒に過ごす時間を楽しみにしていたんだけど、この仕事は気に入ってもらえなかったみたいだね」

 残念そうな山口さんの表情を見ると、やはり罪悪感はぬぐい切れなかった。せっかく誘ってもらったのに、自分の方からその誘いを断るのだから。

「あ、いや、えっと……そんなこと、ありませんでした。僕は山口さんのおかげで普通では得られないたくさんの経験が出来ましたし、ゆずはさん達と出会うことも出来ました」

「それなら、どうしてと理由を聞いても構わないかな?」

「あ、はい。えっと……ゆずはさん達と過ごした時間はそんなに長くなかったんですけど、僕の心の中で、ゆずはさん達の存在がどんどん大きくなっていきました。ゆずはさん達はどう思っているかわからないから信じるしかありませんけど、もう、仕事での先生、生徒という結びつきは必要ないと思うんです。それに、この仕事を始めてしまったら、いずれは他の子にも勉強を教えないといけなくなる。いずれ、ゆずはさん達との時間が少なくなってしまう。それがちょっぴり――ううん、すごく、嫌かなって。僕はゆずはさん達の……ゆずはさん達だけの先生でいたいんです!」

「…………」

「あっ、いや、その……やっぱり、認められない理由……ですか?」

 最後はちょっと感情が入ってしまっていたので、僕は不安を隠せないままそう尋ねる。

「……いや、そういった理由だったら、僕が引き止める理由もないかなって。そう思っただけだよ。最初に言った通り君がやっていたのはあくまで仮雇用体験、今までもこれからも続けるかどうかは君次第だったしね。それに、ある意味で私達の目的も果たされているから」

「……やっぱり、何か僕に知らされてない目的があったんですか? 教える内容とか時間も夜遅くにならなければほとんど自由でしたし、大切なはずの勉強の成果をあまり積極的に聞いてきませんでした。何より勉強を教えるなら僕よりも、もっと知識のある人がたくさんいますから」

「ふむ、確かに君を誘った本当の理由は先生として勉強を教えることじゃない。君に生徒の女の子達と仲良くなってもらいたかったんだ」

「? どうして……ですか?」

「彼女達は女子校育ちで、特に君みたいな同年代の男の子とのコミュニケーションをとった経験が少ない。そのまま大人になって男女平等の社会に放り込まれても、苦労することが多いのは容易に想像できる。私達の会社では男の子に慣れてもらうため、彼女達の心に働きかけるための先生がいてもいいんじゃないか。こう考えたんだよ。だけど、この企画で一番の問題点は誰を最初の先生としてやってみるかだった。すぐに怒りだすような人だったら、女の子達は怯えてしまう。適した人が中々見つからなくて……。そこで親戚の翼君に相談してみたら、君を紹介してくれたんだ。翼君は言っていたよ。君は最高の、お人よしだってね」

 山口さんは言い終わると同時に少し歯を見せて微笑んだ。僕を紹介してくれた翼にも、言うのは恥ずかしいので心の中で感謝しておく。

「君にこのことを伝えたらどうしてもそのことを意識してしまうから、実験はうまくいかないという言い訳が一応はあるんだけど、伝えなかったことはすまないと思っている。許してはもらえないだろうか……?」

「いえ、そんな……山口さんが謝ることなんてありませんよ、そんな大きな計画の協力を、僕は断りに来ているんですから……」

「そんなことはないよ、君は十分僕達の役に立ってくれた。私達はこの結果をもとに、何とか適用出来ないか検討してみるよ。本当にありがとう、真衛君」

「っ、こ、こちらこそ、本当にありがとうございました」


          ○ ○ ○


「そっか……箕崎君、家庭教師辞めちゃったんだ」

「はい……」

「奪いたくなかったの? あの子の居場所」

「っ……」

「ふふっ、今まで伊達に箕崎君を見てきた訳じゃないつもりだけど?」

 円香さんは僕の方を向かず、屋上の景色を眺めながらそう言った。円香さんが今の話を聞いて何を思っているのか僕にはわからないし、辞めたことを全く後悔していない訳じゃない。でも、本来自分から始めようと思ったわけでもないのにわざわざリシアちゃんの居場所を奪って追い詰めてまでやり続けるなんて僕には出来なかったと思う。山口さんに話した理由も、別にそこまで本心と違うことを並べ立てている訳ではないのだから。それに、僕はこのみちゃんが言ったあの言葉に対して、僕の意思を示したかった。そしてその意思と共に、証明したかったのだ。このみちゃんがなんて言ってほしかったのかまではわからないけど、少なくても僕は、たとえ先生と生徒の関係が無くなったって僕とこのみちゃん達の関係を無くしたくないと思ってるって。

「彼女にもいずれ何かと向き合う時って訪れると思いますけど、受け止める余裕がない今でなくてもいいんじゃないかなって。余裕を持ってもらうためにも僕、出来ることがあれば協力したいって思ってますし。あ、それと、もちろんこれからも、ゆずはさん達に勉強は教えていくつもりです。でも、仕事としてするんじゃなくて、出来れば、その――」

 続きを言おうとした瞬間、僕の言葉が屋上の扉を開ける音によって止められた。

「っ……」

 春風が僕達の傍を通り過ぎていき、彼女達の制服が揺れる。春の柔らかい日差しが、彼女達を少しずつ照らしていく。薄暗い屋上への階段を上ってきた彼女達には、柔らかい日差しでも、少々まぶしかったらしい。現に彼女達の中で一番背が低い女の子は、片目を閉じて、同じほうの手で光を少し遮っている。そんな彼女が初めに口を開いた。

「あっ、お兄ちゃん。えへへっ、ようやく見つけたよ」

「もう、私達はこの学校初めてなんだから、少しは見つけやすいように配慮してほしいなっ。円香さんも詳しい場所言わずにいなくなっちゃうし」

「ゆずはさん、このみちゃん、真実……。なっ、なんでゆずはさん達がここに? それに、その制服――」

 制服が雅坂学園高等部のものではない。それは僕も結構目にしているデザインだった。

「えっと、どこか、変なところなどありませんか……?」

「私達が学校を長く休んだからなのかわからないけど、こっちの学校に進んだ方がいいんじゃないかって提案されてたんだ。前は何か思われるんじゃないかって考えたり、事実を言おうとした姉さんを遮って波風を立てないようにしたけど、まさか同じ学校だったなんて」

「これなら、お兄ちゃんに似合わないなんて言わせないよ」

「すみません、真衛さんを驚かせたかったので、秘密にしておいたんです。あの、そういう事ですので、これからもよろしくお願いします、ね?」

 僕は驚きの後、しばし呆然としたけれど、すぐに微笑んで返事を返した。こんな苦労だったら、してもいいかなって思えたから。

「うん。学校でもよろしく、ゆずはさん、このみちゃん、真実」

 髪をそよ風で揺らしながら微笑みを答えとするゆずはさん達。

「ねえ真衛君、円香さんは先生と生徒以上の関係になっちゃいけないって言ってたけど、私達、もう先生と生徒以上の関係だよね?」

「えっ……」

 少し前に屈んで突然そんなことを言ったこのみちゃん。円香さんはくすりと笑い、戸惑っているのは僕だけだ。そんな僕に向かって、このみちゃんは手を差し伸べてくれる。

だよ、。友達って、二人が関わって認め合わないと、なれないものでしょ?」

 これから僕に訪れる波乱万丈な、だけど飽きることのないであろう学校生活。このみちゃんの手に触れようとした僕の手に、どこから来たのか桜の花びらが一枚、ひらりと舞い降りた――――。

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