第36話 君の心を少しでも……

 廊下を歩き階段に片足を乗せる。階段が僕の体重に合わせて少し音をたてた。今まで結構水島家にはお世話になってきたけど、二階に行くのはこれが初めてだった。階段を昇りながら、僕は一度深呼吸。

(涙か……。やっぱり、謝らないと)

 あの時、このみちゃんの目には確かな雫が溢れていた。僕が生み出してしまった悲しみの涙は、僕が止めなければならない。他人が流させた涙でも同じ事だ。それが、僕の考える先生だから。生徒であるこのみちゃん達の心を支える先生だから。僕はゆずはさんの言葉を思い出す。

《私が真衛さんに謝るきっかけを与えたように、今度は真衛さんから、このみさんにきっかけを与えてあげてください。このみさん、もちろん真実さんも私にとって、大切な妹さんですから……》

 あの時のゆずはさんの言葉は、僕の決意をより強固にしてくれた。二階の廊下を歩き、ゆずはさんから教えてもらったこのみちゃんの部屋の前まで来た僕。ドアにはこのみちゃんの部屋を示すプレートがかけられていた。

「…………」

 一瞬だけど、躊躇わなかったと言えば嘘になる。だけど、このままこのみちゃんと仲直り出来ないことを考えると、そんな躊躇いは、簡単に僕の中から消えてくれた。僕はもう一度深呼吸すると、そっと、ドアをノックした。


          ◇ ◇ ◇


(真衛君の、馬鹿……)

 真衛君と一緒にいるのが辛くて、この部屋から出たくないという意思表示のようにパジャマ姿になっている私は、ベッドの上に足を乗せて座り、枕を抱えて塞ぎこむ。あの時は今まで積み上げてきた真衛君との関係が、音を立てて崩れていくような気がした。

(私、何やってるんだろ。真衛君はいつもと変わらず接してくれてたのに……)

 私が言った言葉。後悔が押し寄せる。さすがに今回のは救いようがなかった。これが本当の私なのだ。あんな言葉を言い放つ、醜い人間。

(やっぱり、先生だからかな……。そうじゃなきゃ、あんなこと言われたのに、怒らない訳ない。真衛君がまだ私に優しいのは、私が生徒っていう殻に守られてるっていうだけ。姉さん、真実、私の他にも真衛君の生徒はいる。感謝したい時ありがとうって、謝りたいときごめんなさいって、素直に言える姉さん達が。私なんて、真衛君にとって……いない方が――)

 コンコンッ

「っ……」

 私はベットから立ち上がると、ドアに近づいていく。

(誰? 姉さん? それとも、真実……?)


          ◇ ◇ ◇


 かちゃりと音がして、鍵が開く。このみちゃんが驚くといけないと思って、僕はドアが完全に開けられる前に声をかけた。

「こ、このみちゃん、僕だけど……」

「ま、真衛君……?」

 それでもやっぱり、このみちゃんは驚きを隠せなかったようだ。無理もないだろう。本当なら部屋の場所もわからないはずの僕が、ここに立っていれば。

「ど、どうしたの? 今日はちょっと疲れちゃったから、もう眠るつもりなんだけど……」

 このみちゃんはドアを開けずに話しかけてきた。まるでドアを僕との隔たりにでもするように。だけど僕はこの隔たりを、これから無くさなければいけない。

「話があるんだけど、その……少し、いいかな……?」

「っ……」

 少しの沈黙の後、

「――そう……だよね」

 このみちゃんは、わかってくれたようだった。

「あんなに酷いこと言っておいて、うやむやになんかするなって話だよね……」

 僕が伝えに来た気持ちとは、全く違う残酷な解釈で――。

「っ、このみちゃん……?」

「うん、わかった、今開けるから。それとも、部屋に閉じこもると思った? 大丈夫だよ。姉さん達にも言わないし、後で恨んだりなんかもしないから……。だから、真衛君の気の済むまで、私を責めても……」

「…………」

 僕は悔しさを覚えた。このみちゃんをこんなにも追い詰めていたなんて、自分は教師になってみたいと口にするのも馬鹿みたいだ。悪いのは僕。このみちゃんが自分を責める部分なんて、何ひとつ無い。

「怒ってるよね、真衛君。自分はわざとじゃないのに、私から酷いこと言われて……仕返ししたくなるのも、当然だよね……」

「いや、僕はそんなこと、一言も……」

「――そんなの、当たり前だよ……」

「っ……」

「すん……だって、真衛君は先生だもん。勉強教えてくれて、ずっと優しくしてくれた、先生だもん! 不安なの! 不安だから、真衛君を信じ切れなくて……。真衛君、これが本当の私だよ? こんな生徒、真衛君は嫌いでしょ? 真衛君が優しいから、私は真衛君の気持ちがわからない……! 私は真衛君を傷つけたんだよ?そんな男の子と、どうやって話したらいいの? どうやったら一緒にご飯なんて食べられるの? 私はずっと、真衛君に嘘の笑顔を向けられてるっていう不安を抱きながら、顔を合わせろって事なの?」

「このみちゃん……」

「だから、私も少し、痛い目にあうくらいが丁度いいの。そしたら私の不安も、少しは晴れると思うから……。今、開けるね?」

 涙声でそう言ったこのみちゃん。ドアのレバーが傾き、そして――。

「っ、あれ? 開かない……。ちょ、ちょっと待って真衛君。今、開けるから……」

 開かないのは当然だろう。僕が押さえているのだから。

「――ないで……」

「えっ……」

「開けないでよ、このみちゃん……」

「まもる……くん?」

「僕はそんな事のために……自分からこのみちゃんとの繋がりを壊すために、ここにきたんじゃない……」

「っ……」

 このみちゃんの悲痛な叫びを、僕は確かに聞いた。このドアを開けることが、このみちゃんと僕の関係を壊す事を加速させるなら、それをこのみちゃん自身に開けさせるなんて、絶対にさせてはいけない。このみちゃんは今、僕に言葉を叩きつけてしまったことをこんなにも後悔しているのだから。

「このみちゃん、震えてない? だったら開けなくていいよ。ドア越しでいいから、僕の話を――話だけを、聞いてほしいんだ」

「真衛君、怒って……ないの……?」

「怒ってない、怒ってないよ。だから、聞いてくれるかな……?」

「っ……………………うん」

 その言葉と共に、このみちゃんは頷いてくれたようだった。


            〇 〇 〇


 ずるずると服がドアに擦れる音。このみちゃんは扉の傍に座ったみたいだ。僕も扉の所に腰を下ろす。

「えっと、その……この前の事は全部僕が悪いから謝るしかない、本当にごめん」

「そんな、あの時は私が――」

「ううん、結果的に僕はそのくらいの事をしちゃったんだから。女の子として、当然だよ」

 今このみちゃんは何を思っているのだろう。やっぱりその時のことが頭に浮かんでくるのだろうか。そんな事を考えながら、僕は言葉を紡いでいく。

「でも始めて会った時、自転車の時のことは、このみちゃん、許してくれたよね」

「……うん……」

「あの時は仕方ないとか言ってたけど、本当はすごく恥ずかしかったんじゃないかなって思う。それこそ僕に言葉を浴びせて、逃げ出したかったんじゃないかな……」

「………………」

「でも、言わなかった。いや、言えなかったんだ。故意でもないのに、そんな偶然会った知らない人にいきなりそんなこと言うのは勇気がいるから。だからこのみちゃんは、その気持ちを自分の中に押し込めた。子猫を瓦礫から救い出したこのみちゃんが、ゆずはさんや真実に慕われて、心配されてるこのみちゃんが優しくないなんて、僕には思えないから……」

「…………」

「でも今度は言った。ううん、言ってくれた。それってこのみちゃんが優しくない訳じゃなくて、僕に心を許してくれたってことだよね……?」

「っ…………」

「ゆずはさんと真実は僕が先生として来てくれて嬉しいって、そしてきっとこのみちゃんもそうだろうって、そう言ってくれた。僕はその時、とても心が温かくなったよ。こんな僕でも、このみちゃん達みたいな女の子の役に立てるんだって……」

 頷く言葉すら言わなくなったこのみちゃん。僕は少し時間をおいてから、一番伝えたい事に言葉を繋いでいく。

「……試してみれば、いいんじゃないかな……?」

「えっ……?」

「試してほしい。このみちゃんが、本当に自分をこんなにも追い詰めないといけないのか。僕の事、信じ切れなくたって構わない。だから、もし嫌じゃなかったら、気を張らなくても大丈夫な状態でいてほしいな。僕の好意も、素直に受け取ってくれると嬉しいし。すれ違いや意見の違いだってあるかもしれない。僕も円香さんと関わってて、呆れることも多いから。このみちゃんと違って、言っても考えさえしてくれなかったりするよ。でも、意見を言い合えて、直す過程で行ってしまったことを水に流すことも出来る。円香さんのすべてを受け入れてるわけじゃないけど、円香さんのことを嫌ってるわけじゃない。あはは……僕、あんまり格好良く断言出来ないんだけど、ゆずはさんや真実、円香さんと僕との関係があるように、僕達だけの良好な関係って、作れるんじゃないかな。少なくても、僕はこのみちゃんと関わっていきたいと思ってるし。だってこれからの僕は、自分のことでこんなにも苦しんでいるこのみちゃんを、知ってるんだから……」

 僕が言い終わった後、ほんの少し、だけどすごく長く感じた時間を経て――。

「――――一人に……してくれない?」

「えっ……」

 不意にこのみちゃんからそんな事を言われた。このみちゃんが自分を責めることを止め、僕を許してくれたかどうかは分からなかったけど、とりあえずもう伝えたい事は全部伝えたのだ。僕はその場から立ち上がる。

「うん、おやすみ、このみちゃん……」


             ◇ ◇ ◇


 真衛君が階段を降りる音を聞く。やがて、静寂が訪れる。一人にしてって真衛君に言ったのは、これ以上真衛君に、私の涙声を聞かれたくなかったから。そして私は体育座りのまま、ため息と共に言ってやった。絶対この先女の子のことで苦労する男の子に、少し前に思ったものと同じ言葉で、少し前に思ったものとは違う気持ちで――。

「真衛君の、ば~か……」


             ◇ ◇ ◇


 階段を下りて居間に着くと、待ちきれなかったらしいゆずはさんが結果を聞いてきた。

「ど、どうでしたか……?」

 僕は首を横に振る。

「一人にしてほしいそうです……」

「そう……ですか……。でも明日になれば、きっとまた機会もありますよ。お風呂に入ったら、今日は早めに眠りましょう」

「そうですね……」


            〇 〇 〇


 貸して貰った空き部屋。ベットの他に目立つものといえば、小さな机くらいしか置いてない。お風呂を済ませた僕はベットの上に横になる。ゆずはさんによると、今はもう使われていないベッドなのだそうだ。それなのに目立つ埃ひとつついていないところを見ると、ゆずはさんが手入れをしてくれたのだろう。

 僕は軽くため息をつく。このみちゃんはいったいどんなふうに僕の言葉を受け取ったのだろうか。不安を抱えながら、僕は明日のために眠ろうと目を閉じた――。

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