第3話 長い髪をおしとやかに揺らす少女
心を読める力が僕にはあると気付いたのは中学一年生の始め頃。会話をする時に相手がまだ一度も話していないことを僕が知っていると何かと不都合が生じる可能性があるので、むやみに使うことはしないようにしている。第一相手が僕に伝えても良いことしか読めない、つまりいざとなったら訊けば良いことなので、ほとんど使う機会が無い。一応楽が出来るからと使うにしても、何も代償がないわけじゃなくて、きっちり体力を消費する。故にあまり僕に利益があるものではないのだ。
だけど今はこんな事よりも、考えなければいけない事があるのはわかりきっていた。しかし良い方法が見つからないから、こうして他の事を考えていたりするのだ。
肌寒い日々が続く中、木々はその細い枝を太陽にさらしていて、地面には煉瓦の模様、横を見れば鉄の格子がどこまでも続いている車通りも人通りも少ない道を今僕は歩いている。
卒業も間近となれば、どこの学校にも大抵春休みがあるだろう。春休みの初日である今日、現に僕は家庭教師を募集していた場所に行ってみようとしている訳なんだけど――。
(ここ、どこかな……?)
自分の家からそんなに離れている場所ではない。しかし方向的にこちらにはほとんど行ったことが無かったのだ。決して僕が方向音痴な訳ではないと思う。一緒に行ければ心強かった翼を誘ったら、
《俺は自分の時間をゆっくり過ごしたいからな、ちょっと小物を買いに行く予定もあるし》
などと勝手な事を言って悠々と帰っていった。翼にしては珍しい行動故に、断りたいから述べた適当な理由の可能性を疑ってしまう。
何も映らなくなった携帯電話の明るい画面を最後に見た時間から考えて今は午後の1時過ぎ。人通りが少ない道なので、今のところ誰もここを通らない。
とにかくここで立ち止まっていては話にならないので、とりあえず動こうと思って再び歩き出した。
「はあ……、こんなことなら翼にもっと詳しく訊いておけばよかったかな……」
そんな事を呟いて、今さらながら後悔する。僕は途方にくれながら、側にある小道の方に足を動かしていくと――。
(っ…………)
ふわりと風が吹く。レンガで舗装された道の少し遠くの方にベンチすら無いバス停。そのバス停で一人、バスを待っている少女がいた。
「………………」
髪型は長いストレート。吹いているそよ風に揺れ、見る人を惹きつけるようなその髪に付いている小さなクリスタルの髪飾りが印象的。
目を閉じた彼女は髪がそれ以上舞い上がらないように左手で抑えた。天使が少し早めの春風を浴びに来たような彼女の姿に目を奪われて、僕は少しの間、足を止めてしまっていた……。
(はっ、そうだ。だめでもともと、あの人に聞いてみよう)
道がわからない事を思い出して少女の近くに行き、いざ声をかけようとしたのだけれど――。
(うう、やっぱり恥ずかしくて聞けない……)
僕が通っている学校にいたら間違いなく憧れの的になるほど容姿端麗な少女。初対面の女の子の前では中々普通に話せない僕には高すぎるハードルであった。
しばらくの間、そうやって話しかけようかどうか迷いながら、ちらちらと少女を見ていると、たまたまこちらを向いた少女と目が合ってしまい、少女が僕に気づいて、話しかけてきた。
「あなたも……バスを待っているのですか?」
「あっ、い、いえ、そっそうではなくてですね。この近くで家庭教師を募集している所というか、そんな感じの会社に行きたいんですけど……」
ちなみに僕が今、少女に対して少し焦りながら『ですます口調』になっている原因は少女にある。身長は平均より結構低めな僕と同じか少し高いくらい。口調もどこかのお嬢様を思わせる雰囲気で、髪は遠くで見た以上にさらさらしている感じを受ける。そんな髪を受け止めていた手も、細くて白い。とても大人っぽいというか完全に大人に見えるけど、何故少女と思っているかといえば、僕を見ている目が少し大きめで、何より制服を着ていた。
(高校……三年生なのかな)
少女はくすっと笑って、
「それなら、この近くですと……」
と、視線を向けた。
「あっ、えっと……」
恥ずかしい。目の前に見えているのに尋ねてしまったのだから。僕が少し顔を赤くしていると、少女がまたくすりと笑う。
「私は、
少女――ゆずはさんはゆっくり頭を下げた。改めて、自分より年上みたいな女の人を『少女』と言っている自分に少し違和感を覚える。
「このバス停でバスに乗る人は、比較的珍しいものですから……」
「そ、そうなんですか……。えっと、僕は、箕崎真衛って言います」
ゆずはさんの大人っぽい雰囲気につられて挨拶を返す僕。
その時ちょうど、バスがやって来た。
「では、私はこれで失礼します」
「あっ、その……ありがとうございました」
「はい、どういたしまして」
僕達が挨拶を交わした後、ゆずはさんはバスに乗り込む。
と、ゆずはさんが着ている制服のポケットの中から落ちる何か。
「あっ……」
ゆずはさんはその事に気付かない。笑顔のまま、僕に軽く手を振っている。
僕は落ちた物の近くに行くと、それを拾い上げた。かわいいリボンが付いたハンカチ。ポケットにしっかりと入っていなかったのだろうか。ゆずはさんも僕の行動で自分がハンカチを落とした事に気付いたらしい。僕もゆずはさんに落としたハンカチを届けるために、一旦バスに乗り込んだ。
「はい。気をつけないと、だめです」
「ありがとうございます。その、親切……なんですね」
「そ、そんな。僕はただ、さっきのお礼になればいいなって。それに、このくらい誰でも……」
「いいえ、私は気付いていなかったんですから、そのまま知らないふりをしてしまうことも出来たはずです。真衛さんは、素敵な方だと思います」
ゆずはさんの笑顔に、少し恥ずかしくもつられて笑顔を返す僕。
プシュ――。
「えっ?」
「っ……」
顔を合わせている時間が思いのほか長かったのか、特有の音をたててバスの扉が閉じてしまった。そのまま走り始めたバス。
「………………」
「………………」
僕とゆずはさんは一旦顔を見合わせ、ただ遠くなっていくバス停を、しばらく見つめていた――――。
〇 〇 〇
ほぼ満席に近いバスの中で僕とゆずはさんは偶然二人分開いている隣同士の席を見つけ、そこに座る。走り始めた頃なら急いで運転手さんにバスを停めてもらうことも出来たけど、他の乗客さん達や運転手さんに迷惑をかけたくなかった。
「本当にすみません、その、こんな事になってしまって……」
「大丈夫ですよ。そんなに急いでいる訳でもないですから……」
指定の時間にはまだ十分間に合う。というより、会社の方がたくさん時間をとってくれたのだ。ゆるめの会社なのだろうかと少し疑問が残るけど、事実そういう訳だから、そこはあんまり考えなくてもいいのだろう。何か僕が思い付かない理由があるのかもしれない。
それに、ゆずはさんみたいな人と少しでも長く同じ時間を過ごせるなら、僕が損だと思う部分はどこにもなかった。
「本当……ですか?」
「はい」
「そう……ですか。ありがとうございます。では、バスの中での少しの間ですけど、お付き合いさせて下さいね」
ゆずはさんはそう言うと、バス停で持っていた小説を開く。対する僕は特にする事もないので、窓の外の景色や、時折、ゆずはさんに視線を向けていた。決してえっちな目で凝視していた訳じゃない。100%断言出来るかと言われれば自信が無いというか、ゆずはさんという女の子の存在を意識しないことは出来ないけど、なるべくそういう事は考えずに、ゆずはさんを見つめる。
小説を黙読しているゆずはさん。近くで見るとより鮮明にわかる。ゆずはさんの表情は全体の印象とは違って、少しあどけない感じが残っていた。バス停にいた時も思ったけど、目は大きめ。さっき見た笑顔や普段の表情も、やっぱり綺麗より、かわいいという表現が似合っている。
そしてふと目線を少し下にずらすと――まだまだ厚着が必要なこの春、制服に包まれて中々目立たないはずの胸が、かなり大きい――。
(って、さっき自分にえっちな目で見ないように言い聞かせたのに……)
ぶんぶんと首を振ってすぐに胸から目線を上げると、いつのまにかゆずはさんが僕の方を向いていた。必然的に目が合う。
「あっ、いや……」
「どうか……したんですか?」
不安そうな表情と声でゆずはさんは訊いてきた。どうやらゆずはさんは僕がゆずはさんを見ていた事には気付いていないみたいだ。
「えっ、ええっと、べ、別に、なんでも、ないです……」
ゆずはさんはそれを聞くと、にっこりと微笑んで、再び小説に目を落とす。少し経ってから前にあるジュースのペットボトル〈ゆずはさんが学校指定の鞄から取り出した〉を手に取った。
「あっ……」
小説を読みながら飲もうとしたせいだろうか。ゆずはさんの手からペットボトルが滑り落ち、中身が零れてしまった。ゆずはさんは慌ててペットボトルを拾うけれど、結局その中身は座席の左側を汚してしまう。ゆずはさんはすぐにハンカチで濡れた部分を拭く作業に取り掛かった。だけど、どのみちまたそこに座ったら、制服のスカートに染みが広がるのは確実だろう。
「――あの、真衛さん……」
ふいにジュースを零した部分を拭き終わったゆずはさんが、言いにくそうにおずおずと話しかけてきた。
「その、少しそちら側に詰めては……くれませんか? あっ、もちろん、真衛さんが良かったらのお話なんですけど……」
「えっ……」
「真衛さんは私のせいで本当は乗る必要が無かったバスに乗っていますし、バス停で会ったばかりの私がこんな事をお願いしては、さらに迷惑がかかってしまうと思います。ですので、もし少しでも嫌な感情があるなら、遠慮なく断って下さい」
もちろん僕が嫌な理由は何処にも無い。むしろゆずはさんの方こそ、こんな何の取り柄も無さそうな僕に近づいて、嫌な気持ちにならないか心配になったくらいだ。それなのに、ゆずはさんは僕を気遣ってくれている。ゆずはさんに密着するのはすごく恥ずかしいけど、ゆずはさんの言葉は、とても嬉しかった。
「嫌じゃ……ないです。はい、どうぞ」
僕が身体を少し窓側の壁に押し付けてスペースを作ると、ゆずはさんも身体を僕の方にずらしてきた。
「っ……」
「っっ……」
制服からは女の子特有の良い香りがするし、ゆずはさんの太股などの感触もしっかり伝わってくる。やっぱり、すごく恥ずかしい。
ゆずはさんはどうなのかな――なんて思って見てみる。あくまで僕の主観が入るけど、ほんのりと頬が赤いようだった。お互いにこの状況での相手の気持ちが気になるのか、僕がゆずはさんにちらりと目線を向けると同じようにゆずはさんも僕を見てくるので、必然的に目が合ってしまう。
「…………………」
「あ、あはは……」
ゆずはさんの頬を少し染めた表情に、僕は苦笑いを返すしかなかった。
「………………」
「………………」
互いに俯き、しばらくこそばゆい感じの無言が続く。僕はゆずはさんを見てるのも恥ずかしいし、ゆずはさんもこの状態では、小説を読む気になれないみたいだ{まもなく、
沈黙がアナウンスによって破られた。ゆずはさんがペットボトルや読んでいた小説を鞄の中に仕舞い始めるところが目に留まって、僕は声をかける。
「次、降りるんですか?」
「っ、はい。家はこの近くですから」
バス停で止まって出口の扉を開けたバス。僕とゆずはさんはそこで一緒にバスを降りた。
僕達以外に立ち上がる人は誰もいなかったので、僕達を降ろしたバスはすぐに扉を閉め、そのまま行ってしまった。
〇 〇 〇
僕達が降りた先は、今は付いていない街灯が立ち並ぶ見慣れない場所。
「本当にすみませんでした。ハンカチを拾ってもらったにもかかわらず、ここまで付き合わせたり、席も詰めてもらったりしてしまって……。真衛さんが払った分、帰りのバス代と一緒に払います。少し待っていて下さいね」
ゆずはさんはぺこりと頭を下げた後、少々慌てながら財布を開く。
「えっ、あっ、ありがとうございます。でも……必要ありません」
僕は遠慮したけど、ゆずはさんは少し必死だった。
「で、ですけど、散々迷惑をかけました。お礼の気持ちも合わせて、どうか受け取って下さい」
「ほ、本当に大丈夫ですから。ゆずはさんには目的地の場所を教えてもらいましたし、僕はそれで十分です」
ゆずはさんは僕と地面を交互に見ていて、まだ何か言いたそうだったけれど、
「そ、そう……ですか……」
どうやら折れてくれたみたいだった。開けかけた財布を閉めるとバッグに戻す。
「本当にありがとうございました。それでは、少し寂しいですけど、失礼します」
最後に見せた会釈と同時に、ゆずはさんは行ってしまった。心の中に、少し残念な感情が残る。
(ゆずはさんかぁ、綺麗な人だったなぁ)
僕はゆずはさんの笑顔を思い出しながら、次に来るバスを待つことにしたのだった。
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