帽子を持たぬ者

 2人で顔を見合わせ、少し固い表情でどうぞと招き入れた。わざわざ社長がやってきたのか。


「ここは禁煙か?」


 打ち合わせに使っているスチールのテーブルに通す前に、男がつぶやいた。


「はい。すいませんけど、機器が痛みますからご遠慮ください」


 サクがたどたどしい英語で答えた。


「わかった。控えよう。それで用件だが、君たちはニューラル・ネットワークを使った機械学習はわかるな?」


 男が出しかけた携帯用の灰皿と葉巻をしまいながら、座りもせずに切り出した。


「ディープ・ラーニングだ」


 知らないわけがない。サクの作る人工知能は、全部ディープラーニングまたは深層学習と呼ばれる技術を使っている。これこそがここ数年の人工知能技術を一気に押し上げた立役者だ。この技術が登場するまで、モデルを作りには必ず人間が必要だったのだ。例えば方程式を例に取ると、わからないものをxやyとしてコンピュータに与えれば答えを導ける。だが、コンピュータ自身が何をxとするのか、どれがyとすべきかと考えることはできない。それを解決するのがディープ・ラーニングだ。この方法では人間の脳構造に似せたニューラル・ネットワークという技術で、モデルを自力で作り出すことができる。


「研究者を雇おうと大学を回ってみたが、ゲームで人間に勝つとか似ている顔の見分けがつくとか、そういう連中ばかりだ。俺が求めているのは実装の部分が難しい分野で、研究者にはハードルが高いらしい。君たちが作っているものを見せてくれ」


 太い男は低い声の英語で、ベラベラと一方的にまくし立てた。


「ええと、サク、どうする?」

「ごめん、英語がほとんど聞き取れない。開発したものを見せてほしいの?」


「そうらしい」

「それはいいけど」


「2人で1人か」


 黒装束が割って入った。


「分業してるだけで、別にこいつが話してもいいんですが。そちらは日本語は?」

「イマ、ベンキョウチュウデス」


 それだけを日本語で言って、タヌキみたいな顔の男が太い声で笑う。俺たちは顔を見合わせてからパソコンを開いた。


「彼が作っているのは、アプリを調べてその用途を推測するものです」

「もう売れてるのか」


「はい。シャダイで採用されました。えーと、資料出しますね。彼が作ったアンドロメダ2_プロトというツールです」


 俺が一通り説明したが、太った男は満足していないようだ。


「もっと細かく設計をみせてくれ。テスト結果や性能とか、その手のデータもあるだろう。全部みせてくれ」


 そこまでの客向け資料は持っていなかった。


「学会発表の資料にも落としてねえぞ」

「エクセルに直接書いたやつ、そのまま出すしかないね」


 横一列に並んでハサウェイを挟み、今度はサクのパソコンを見せた。ハサウェイは技術者ではないようだが、人工知能についての知識はおそろしく豊富だった。サクが工夫した部分や手間をかけた部分を説明するたび、ハサウェイはその何倍も質問してきた。話が細かくなり、俺も英語がわからなくなってくる。筆談やら翻訳機やらを使ってなんとか話を続けた。気がつくと2時間半が過ぎていた。


「期待以上だ。ここまでの意欲がある若いエンジニアに会いたかった。実は君たちの製品は情報論的学習理論ワークショップで発表したものをすでに聞いている。他にも進藤君はいろんな勉強会に参加して木更津君の開発結果を発表しているだろう。間に合ったようだな。シャダイに販売していると聞いていたので、もう就職していたかと冷や汗を流していたところだった……」


 背広を脱ぎながらハサウェイが言った。一通りの話を終えて、3人が向き合った。ハサウェイが葉巻を出しかけて、それをしまいなおして言った。


「私の会社の説明をしよう。ハッキング対策の製品を開発して販売しているセキュリティ企業だ。端的に言おう。セキュリティ製品を作って売ってくれ。協力してくれるなら、これが君たちの給与という事になる」


 ハサウェイがサインペンを出して、2枚のポストイットに数字を書き込んだ。


「920万?」


 思わず叫んだ。慌ててサクの方に目を向ける。


「え……? 1280万?」


 サクがぽかんと付箋を見つめている。 


「すまないがドルでもなければ月でもないぞ。日本円、年収だ」


 ハサウェイが低い笑い声を出したが、あっけにとられて冗談を理解することもできなかった。それはリクルートのサイトに載っていた月給20万からは、あまりにもかけ離れた数字だった。


「それが君たちの基本給だ。木更津君は開発が成功したら、進藤君は売れたらそれ以上出そう。私の会社はガラス張りだ。給料がどう決まるか、売り上げに対してどう給料が配分されるか、知りたければすべて教える」


「……新卒だと高くても400万くらいなのに」


 サクがおずおずと言った。俺がそれを伝える。


「新卒なんていうわけのわからんルールは私の会社にはない」


「履歴書とか見ないんですか」


 俺もついでに聞いてみた。


「ついさっき、履歴書は全部見せてもらった。木更津君のニューラルネットワークに関する豊富な知識とその実装。進藤君の実際に製品を動かして検証をやった上で、さらに相手の理解まで意識したプレゼンも及第点をはるかに超えている。語学もそれだけできればあとは経験で補える。君たちの才能と流した汗は、A3に書いたうすっぺらな数十行よりはるかによく理解できた」


「……考えさせてください」

「考えたまえ」


 ハサウェイがパソコンを閉じた。


「ただ、どこに行こうが自由だが、ひとつだけ言わせてくれ。君たちはまだ何物でもない。そういうエンジニアは危ない。年に1億を超える金を手に入れる方法があると知ったらどう思う?」


「どう思うって……そんな会社ないでしょう」

「会社はない。しかし君たちが1億だって2億だって稼ぐ方法はある。犯罪だ」


「は?」


 サクに通訳をすると、それまで引き気味だった視線が、不意に定まった。


「僕たちは犯罪者じゃありませんよ」

「今はな」


 雨の音をかき消すように、男が太い声と同時に机の上に手を乗せた。将来は違うとでも言うつもりだろうか。


「シャダイよりもはるかに高い値段で、お前たちのツールを買う奴がいる。マフィアだ。マフィアがそれだ。彼らが1億を出すとしたら?」

「売るわけないです」


「なぜだ。お前らは正義の味方か。捕まらんようにやることはできてもか」

「やりませんよ……」


「だがやればできる」


 男が身を乗り出して、俺たちを交互に見た。


「いいか、お前らは危ないんだ。まだ何も帽子をかぶってない。そういう若者は白か黒か、どちらの帽子を取ることもできる。だが黒の帽子を取るな。私の会社に来れば白の帽子を取れる」


「帽子がなんですって?」


 英語を聞き間違えたかと思い、眉を寄せて聞き返した。


「こいつのことだ」


 雨に濡れた中折れ帽を持ち上げて言った。


「ブラックハットとホワイトハットという言葉を聞いたことがないか? ハッカーの表現だ。正義と秩序のために技術を使うハッカーをホワイトハット。社会の混乱や破壊のために技術を使う奴はブラックハットという。


 この業界は帽子がよほど好きらしく、レッドハットというソフトウェア会社があれば、ブルーハットというマイクロソフトの研究者会議もある。自動車用品のイエローハットは何も関係ないがな」


 邪悪そうなタヌキがまくしたてて、最後に自分だけが笑った。重い話し方だが寡黙ではない。単にしゃべるのが好きなのだろう。


「とにかく、セキュリティをやれってことっすか」

「そうだ。今、セキュリティ分野で人工知能が急速に注目され始めている。もうすぐ東京でもオリンピックパラリンピックが始まる。それまでにこの技術でパソコンやネットワークを守るツールを作ってほしい。これが依頼だ」


「セキュリティはよく知らないんですが」

「これから知ればいい。人工知能で情報システムを守ることほど楽しいことはないぞ」


 なんだか価値観の違いについていけない。人によってはそうかもしれないが、世の中にはそう思わない奴の方が多そうな気がする。


「今日はこれで帰らせてもらう。次は君たちが連絡してくれたまえ。もしその気があればインターンとして紹介するから、今すぐ事務所の機材を使って開発を始めてくれてもいい。平凡な奴らと平凡な毎日を過ごすより、はるかに質の高い時間が待っているぞ。では、失礼する」


 ハサウェイは背広と中折れ帽をつかむと、振り返りもせずに出て行った。


 パソコンを片付けてテーブルを拭いてから、ぼそっとサクに聞いた。


「どうする?」

「……僕は、受けてみたい」


 聞いてから答えるまで、ほとんど間がなかった。


「なんか怪しくないか?」

「行ってみないとわかんないよ。まずインターンっていうのやってみようよ」


 ふと俺はサクの顔を見た。アーモンドみたいにくっきりした目が、いつもより奇妙に充血していた。真っ白な肌も荒れているように見えた。


「何があった?」

「……いや、別に」


「何かあったんだな」


 繰り返すと、サクは視線をそらして声を抑えて言った。


「家族、解散することになった」

「なんだ解散って……」


「なんていうのかな。他の言い方をしたくないな。解散は解散だよ」


 サクは少し考えてつけたした。さっと、背筋に冷たいものが走った。


「親父さん亡くなったからか」

「母親がヨーロッパに帰りたいって。姉さんも母親についていくってさ」


 よく意味がわからなかった。サクの言葉を頭の中でもう一度繰り返してから、やっと頭が追いついた。嘘だろと叫びたかった。ぎゅっと心臓を握られたような気分だ。そうかとだけ言ったが、態度がおかしいのは俺自身にもわかった。


「……ごめんね」

「お前が謝ることねえだろ」

「あ、いや……」


 4年の付き合いだったが、サクは一度も『姉さんが好きなんでしょう』とは言わなかった。俺がその話題を避けていたのをわかっていたし、サクも言わないようにしていた。だからごめんというのもおかしい。お互いに本音はわかっていても。


 俺は、もうマドカさんに会えないのか?


 何度もそう聞きたかった。こらえて口を閉じた。サクの顔がそれ以上ゆがむのを見たくなかった。突き上げられた胸を落ちつけながら、話をつづけた。


「わかったよ。それよりさっきの奴、技術はわかってるみたいだし、会社もちゃんとしてるってことなんだよな。サクの開発も認めてくれる。ついでに俺まで雇ってくれるんだから、ありがてえわな」


 ノートパソコンを閉じて、出したコーヒーカップをトレーに戻す。2人の視線がそろった。


「決めちまうか」

「うん。ルーグ・セキュリティでがんばろうよ」


 雨はやんでいて、陽が部屋に落ちてきた。サクが窓を開けて、ピンクの紫陽花が咲く植木鉢を窓枠に吊りなおす。


「雨が降る時の匂いって、ペトリコールって言うんだって」


 話題を変えたかったのか、サクがそんな事を言ってきた。


「変なこと知ってるな、お前」

「コンピュータばっかりいじってると、視覚以外の感覚が恋しくなるんだ」


「そんなもんかね」

「そんなもんなんだよ」


 サクがそれまでの声色を切り替え、憂いを隠した笑顔を俺に向けた。


 6月20日。就職が決まり、恋が終わった。

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