エンジニアへの道
荻窪から少し歩いたところに大きな鉄の門柱が見えた。入るのにためらうほど敷地が広い。皇帝ダリアとカルーナが交互に並ぶ庭を抜けた。インターホンを押す。返事はなかったが、スマホに開けてあるよとメッセージが届いていた。
重いドアの向こうには半透明のアクリルでできた調度が左においてあり、奥に手すりのついた階段がある。そこまでなら、いいところに住んでいるなと、それで終わるのだが。
問題なのは、目の前に下着姿の美女がいるところだった。
「はー、なるほど……」
素足でペタペタと歩きながら、彼女は左腕に抱えた開いたままのノートパソコンに目を落としていた。Macの背面に大きく「Ladies-Only Hackathon」というステッカーが貼ってある。
彼女はこちらも見ずにつぶやきながら、白いバスタオルで頭を拭いている。髪は鮮やかな金髪。白い肌に、何もつけていない形の良い胸。飾り気のないブルーのシンプルなショーツ。右から左へと動く足音が止まった。目が合う。奇麗な灰色だった。
「あ、あの、すいません。進藤っていいます、これは、つまり……」
名乗ったって許してもらえるとはとても思えない。とりあえず目をそらせと言われそうだが、それができない。いや、理屈ではできるのだが、そうでない意味でできない。
「あ、はい。聞いてますよ」
と答えてから、彼女もようやく、とてつもなく変な事をやっていることに気がついたらしい。みるみる顔が真っ赤になっていった。
「えっと、その、私……失礼な格好で……」
「いえ、や、俺が悪いんです。その……」
そこでようやく助け舟が来た。
「……え、なに? どうしてこうなってるの?」
サクが階段の途中で固まっていた。
「いや、お風呂入ってたのよ。そしたら名案が。ほら、アルキメデスみたいに」
「服を着た方がいいと思うよ?」
「そ、そうね。私もそう思う」
きびすを返して彼女がバスルームに戻る。がつんとノートパソコンを柱にぶつけた。
「わあ!」
「データ飛ばさないでよ?」
サクのかけた声にも答えず、彼女はドアの向こうに消えた。
「はは……えーと、そっちの部屋へどうぞ」
「お、おう」
靴を脱いで、ものすごい気まずさと一緒にリビングへ。
「あの人、集中してるとほかの事へ気が向かなくなっちゃうんだ。ごめんね」
椅子に座りながらサクが言ってもう一つへ手を向ける。もう一度、おうと小さな声を出して浅く腰かけた。
「ま、まあいいものでも見られたと思って」
なんて答えればいいんだ。そうだなと言ったら変態だし、そんなことないと言ったら失礼だし、打つ手がどこにもない。
黙っていたら、その本人が大きなトレーを持ってきた。ありがたいことに服は着ている。オレンジと黒をベースにした幾何学模様みたいな珍しいデザインのワイシャツだった。金色の髪はゆるく三つ編みにして前にたらし、先を地味な茶色のリボンでとめていた。怒ってるような恥ずかしがってるような、複雑な顔色を添えてカップを置いた。
「……さっきはすんません」
「あ、いいえ、ごゆっくり。あまり人のこない家で油断してたの。本当すいません。えーと、サクの姉で、
「世間様はそれを天然って言うと思うよ……これ、紅茶? じゃないよね?」
「いつものよ。ホットにしてみた」
「ホットとかアリなんだ」
言って、サクがカップを手に取る。
「お茶っすか?」
人の家でお茶がでた記憶がほとんどない。
「ジンジャエール」
サクが言った。へえと思って口をつける。
「あ、すごく辛いわよ!」
「えっ?」
言われる途中でごくりと喉を通し、そしてむせた。飲み込んでから咳が出てよかった。もう少し我慢ができなかったら噴き散らすところだった。
「姉さん、なんか恨みでもあるの? 僕のお客さん追い出すつもり?」
「違うのよ! 違わないけど違うのよ! 私だって常識くらいあるのよ?」
「とてもそう見えないよ?」
「いや、うまいですよ」
口を抑えてせき込みながら言った。事実、不味いわけではないのだ。予想していなかった味だっただけで。
「ほらほらね?」
「出されたもの、普通まずいって言わないでしょ?」
「いや、うまいよ。うまいって」
「ほらほらね?」
「いやだからそれは、もういいからとりあえず出て行って! ビッグデータの研究で忙しいんでしょ!」
「いやー! 弁解させてー! 私のバカー!」
ようやく喉が落ち着いた。サクに背中を押されてマドカさんが部屋から出ていく。パンパンと手を払ってサクが戻ってきた。
「えーとね。姉なんだ」
「いやそれはわかったけどよ」
「ごめんね、変な人で」
「いやまあ、なんだ、賑やかでいいじゃねえの」
「そぉかなぁ……」
変な人なのは間違ってなかったので否定できなかった。
「でもどこの国の人なんだよ? サクもだけど、髪、染めてないよな?」
「うん。親はヨーロッパ。母親だけね」
答えながらもう一度ジンジャエールを飲んだ。そういうものだと思えば上品でいい香りがする。本物の生姜をすりおろして入れたんだろう。カナダドライなんかもう飲めなくなるなと思った。琥珀色のゼリーは青リンゴの味がした。地味な味だったが、こっちも店で売ってる食い物より美味いような気がした。
「こういうの、どこ売ってんの?」
「姉が作ったんだ」
まるっきり違う文化に投げ込まれた気分だ。上流階級的な家庭というのを初めて見た気がした。
「すごいな」
「まあ、中身がアレだけどね……で、どんなのやってみたの?」
サクが話題を切り替えた。
こいつと会った次の日に、家のコンピュータにプログラムを作るツールを入れていじってみた。が、正直なにから手をつければいいのかさっぱりわからない。本に書いてあった通りにいくつか計算をさせることはできたが、だからどうしたという感じだ。
「コンピュータ技術者ってのは、まずは全員プログラマからスタートなのか?」
「いや、そんなことはないかなぁ? 僕はプログラムから入ったけど。ネットワークとかデータベースとかをあつかう人は、プログラムを補助的に使うくらいの人も。経営的な話や、暗号学とか数学の分野から入る人もいるし」
「サクはどんなのやってたんだ?」
「小学生の頃に初めてやったのは、pythonとJAVAっていう種類のプログラム言語だね。最初はマンガで説明しているのでもいいと思うよ」
「そんなもんかな」
「それより、実際にやってるところを見たほうがいい」
サクがトレーに皿とカップを乗せて横に置き、床に置いてあるモニターを机の上に出した。
「リビングでやるのか?」
「そうだよなんで?」
「いや、なんかわけわからん機械で埋まってる部屋で作業すんのかと思ってた」
「ああ!」
サクが大きく目を開いて手を打った。
「じゃあ、そっちを先に」
嬉しそうに俺の手を引いて、2階に連れていかれた。鉄のドアだ。個人の家に。入って電気をつけると、まさしく想像通りの世界がそこにあった。
「悪いね。汚くしていて。お客さんに見せる準備はしてなかったからさ」
エアコンがガンガンに鳴りひびく部屋に真っ黒な高いラック。巨大なコンピュータ。他にも見たことのない機器がランプをつけている。ただケーブルや部品は散らかっておらず、綺麗にラックの両脇へ固定されていた。ケーブルが何種類もあったが全て法則があるらしく、機器ごとに色分けしてまとめてある。部屋の隅にはアルミの箱とプラスチックのコンテナが置いてあった。
「すげーな。陳腐で悪いけどSFみてえだな」
ラックをなでながら聞いた。
「クラウドも契約してるけど、それ以外のインフラはだいたいここ。サーバーはDELLが2台。中にはCentOSのKVMで仮想マシンが30台くらい動いてる。ルーターとスイッチはCiscoとJuniper、ロードバランサはF5使ってる」
突然、宇宙語みたいなのが飛び出した。
「すまん。なんだかさっぱりわからん」
言われて、びくっとサクが身をこわばらせた。
「ご、ごめん!」
「いや、これから聞いたり調べたりするよ。ポケモンより種類は少ないだろ」
「それはまあ……でも、調子に乗っちゃって」
「聞いてるの俺だぞ。こっちこそ素人ですまねえな」
言うと、サクが少し驚いたような顔をした。ふと、その顔がやけに身近に思えた。これまでは、そんな話をしても嫉妬か無理解かで、嫌な思いしかしてこなかったんだろう。
どれだけそんな事のせいで、余計なストレスを感じているのかと思った。本を買いたい、博物館に行きたいと言って親父にぶんなぐられた子供時代を思いだした。こいつが好奇心を思う存分に発揮できる場所はここだけなのだ。その気持ちを汚したくないなという気持ちが湧いてきた。支える奴がいて、初めてものになるタイプのようにも見えた。
「これ使って、なに作ってるんだ?」
「今やってるのはドライブレコーダーの記録を集めて、人工知能に標識とか信号とかを認識させることだね。あと人の飛び出しとか小さい子が周りにいないかとか。それを見てブレーキとかハンドルと連動できるようにしてみたい。アルバイトでやってるんだけど、面白いよ」
「その人工知能があれば、人間がいなくてもまともに運転できるのか?」
「全然。今のままじゃトラックには突っ込むしコンビニには突っ込むし、ツイッターにさらされて炎上間違いなし。実用って感じじゃないなあ」
笑いながらサクが手元のパソコンを開いた。
「がん細胞みつけたり野生動物の移動を把握したり株価を予測したり。人工知能はいろんなところで役に立ってるんだけど、そのレベルには追いついてないね」
埋め尽くされた機器よりも、そのセリフの方に好感が持てた。こいつが本当に技術を愛していて、才能を丁寧に形にしようしているという、そういう気持ちが伝わってきた。
「オタクっぽいよね」
「部屋になにをどう置けって決まりはねえよ」
「でも寒いし、うるさいし」
「いや、いい部屋だ」
強く言って聖域から出た。
そのあとの時間はリビングで過ごし、サクが作ったアプリケーションを見せてもらい、どう作ったのかを教えてもらった。プログラムコードはなかなか意味がわからなかったが、説明を受けながら、少しずつ理解するしかなかった。
「何か作ってみるかな。時計とか電卓かな」
「ゲームが一番だよ。人にやってもらえるから楽しいし。ゲーム会社のセガにいた平山尚っていう人が、ボンバーマン作る本を書いてるよ」
「やってみるかな。他にはやったほうがいいことってあるか」
「英語。コンピュータの本は、英語で書いてあるのが圧倒的に多いんだ。だから読めた方が絶対にいい。できれば会話も。僕は英語が得意じゃないから、結構苦戦してるんだ」
「英語は好きだけどな。輸入バイクのマニュアル読んだりするし」
「ショウは大学行きたいの?」
「あー、考えたことねえ。ただアホな高校だから、一応上から数えた方が早いぜ」
「東都情報大学受けてみない。僕そこ目指してるんだ。偏差値は高くないけど就職はいいらしいよ。AO入試あるから、なんか作って出してみたら」
「北千住のか。私立だろ……でもまあ奨学金とかもあるか。どうするかな。ただ英語がな。グーグル翻訳と電子辞書で全部わかるかな」
「わかんなかったら姉さんにチャットとかで聞いてみたら? 姉さんは見た目どおりで英語得意だよ」
見た目という一言で、ついさっきの光景を思い出した。そんな話をしているわけじゃないのに顔が赤くなりそうだ。サクに気づかれるのが嫌で横を向いた。
「迷惑じゃねえか?」
「いやあ? 面倒見がいいから嫌じゃないと思うよ」
「そうか。でもな……」
「あ、なんか苦手なタイプだった?」
その逆だった。
「いや……じゃあまあ、わかんねえこと貯まったらまた来ても邪魔じゃねえかな」
「邪魔じゃないわよ」
どきっとして振り向いた。マドカさんがいた。金色の髪をふわっとした三つ編みにまとめて前に落とし、Macを抱えて柱に体を預けていた。
「プログラムは最初のうちは人に聞かないとわかんないもの。せっかくやる気なんでしょ。チャンス逃がすともったいないわよ」
「アルバイトが忙しいから、手伝って欲しいだけでしょう?」
サクが言う。
「まあ、実はね。でもコンピュータ関係ってハードもソフトも結構するから、普通のアルバイトじゃ買えないでしょ。ショウくんだっけ。どう?」
マドカさんが俺に聞いた。目を伏せて小さくうなずく。断る理由は何もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます