2章 探究者 指先が創る未来
秋、吉祥寺にて
サクに初めて会ったのは高校2年の時。17歳になってすぐの涼しい夜だった。
そのころ、俺は吉祥寺のゲーセンで射撃ゲームをやってから帰るのが日課だった。父親が酒を飲んでは母親を殴るので、わざと家に帰るのを遅くしていた。10時を過ぎれば親父はすぐに寝て、翌朝、母親にすまなかったと言って会社に行く。その繰り返しを見るのは中学までで十分だった。
店から出ようとしたとき。外に吹いていた風に押し込まれるように、細いサラサラの茶髪がゲーセンへ入ってきた。細い二の腕が、俺の背に軽く当たった。
「あ、ごめんなさい」
高い声だ。女かと思ったが、胸が全くない。大きめのリュックサックを小脇に抱え、ふちの細い楕円形のメガネを握りしめていた。頬に小さなあざがついていた。
もう一度自動ドアが開いた。バタバタと不揃いな足音がゲーセンに入ってきた。全員の視線がその細い男を突いていた。
「今日もう閉店。閉店」
店員がスピーカー音をかき消すような大声で、俺も入ってきた奴らもまとめて外へ押し出した。面倒はごめんということだろう。自動ドアが閉まると、メガネをかけなおした茶髪に向かって一人が声を出した。
「お前なに逃げてんの。逃げていいって思ってんの?」
茶髪が体を小さくしながら、リュックを抱いて目を伏せた。
「あんたらなに?」
問いつめる奴に声をかけた。後ろから別のヒョロっちろいのが甲高い声を出した。
「は? あんた関係ないんだけど。こいつ誰か知ってんの?」
「全然」
「こいつハッカーだぜ。ハッカー」
最初の小柄な奴が、バカにするための笑い方をまき散らした。
「オタクのくせに調子に乗ってんの。おかしいから」
「大勢で人なぐる方がおかしくね?」
どうしてそんなことを言ったのか自分でもわからなかったが、ともかく、この時はそういう気分だった。
「意味わかんねえし。なに勝手な事言ってんの? ハッカーとか犯罪なんだけど」
「知らねえよ。あとパッと見、おまえの方が犯罪者っぽいぞ」
「は? なにおまえ? 髪赤くしてバカじゃねえの?」
「おまえは賢いの?」
これで先頭の一人が完全にキレた。
「ふざけんなてめえ!」
横殴りに右の手を振り回す。ひょいとかわしながら、無言で相手の脛に靴のカカトを叩き込んだ。
「うわ、こいつ蹴った!」
「蹴った! なにすんだてめえ!」
言いながら間を詰めてくる。なんでこっちが悪いことになってるのか全く理解できないが、そういう脅し方なんだろう。ただ相手が悪いぞ。こうみえても工業高校運動部と家庭内暴力でケンカは慣れてる。しかも相手はド素人だ。悠々と相手のパンチをかわして右の掌を顎に叩きつける。歯を食いしばっていなかったらしく、ガコッと妙な音がした。
が、吹っ飛ばした奴がこっちを向いたとき、まずいことに気がついた。
「げ」
目の前の奴が変な顔をしている。わけではなくアゴが外れている。いや、外したのは俺だ。
「おい、行くぞ!」
メガネの腕を引いて夜道を走った。誰も追ってこなかった。向こうもアゴが外れた奴なんて見たことがないんだろう。数百メートルも走って商店街のはずれ、月窓寺の境内に入った。暗い中でも茶髪の顔が真っ赤になっていたのがわかる。しかも俺の3倍くらい息を切らせていた。
「大丈夫か?」
「うん……いや……ちょっと休ませて……」
境内の石段に2人で腰掛ける。茶髪が顔をあげると曇ったメガネがずりおちた。
「お前、メガネ曲がってね?」
「大丈夫……」
「なんでいじめられてた?」
「え、いや、そんなじゃない……クラスの人と話してたら突然怒られて……」
「なんで」
「こっちが聞きたいよ。その子にパソコンの使い方教えてたら呼び出されて、殴られたから逃げた」
「クラスの人って女か」
「うん」
その女のことは全く知らないが、パソコンが苦手なわけじゃないだろうな。こいつの大きな目と長いまつ毛を見ていたかっただけだろう。
「囲まれて殴られてたら、普通はいじめって言うぜ」
「知らないよ……」
首を振る。髪が散った。軽くて細くて、けれど量が多い。月明かりに映る鮮やかな茶色はたぶん地毛だ。こいつの友達になりたがる女なら指の数じゃ足りないだろう。
「悔しいか?」
「別に。放っておいてほしい」
「ケンカでも教えてやるか?」
「僕……ケンカできないよ。弱いもん。できるのパソコンだけさ」
ふーん、とつぶやいた。ふてくされたような態度だが、その中になぜか儚さと力強さという、まるで重ならない2つの性格を同時に感じた。ふと、目を移した。鞄の中に見えた生徒手帳は進学校のものだ。
「パソコン面白いか」
「どうして?」
「やったことねえからな。パソコンってどんなことやるんだ」
「えーと、僕がやってるのはプログラムだね。得意なのはAI」
「AIって人工知能だっけ。あのチェスに勝った奴か」
「うん」
「ロボットとは違うんだよな。人間みたいに考えてしゃべるとかそんなのか?」
「えーと、しゃべるのはオマケかなあ。広く考えるとあいまいになっちゃうんだけど、よく言われるのは、学習と推論ができるマシン、かな」
「なんだそりゃあ?」
高校生が言いそうにない単語に戸惑って、妙な声が出た。そいつは柔らかい声で話し続けた。
「まあ、新しいことを教えたり、考えさせたりって感じかなぁ。それで伝わる?」
わかんないよね、という意味か、そいつが控えめな微笑をつけたした。
「エクセルに数式書いて計算させるのと何が違うんだ?」
「えーと。それは学習っぽいけど、人工知能的には違うんだ。1つ与えた情報に1つ答えを出すだけ。広がらないでしょ。人工知能の世界ではね、学習っていうと、情報の中から将来使えそうな知識を見つけさせることだね」
「ふーん。わかるようなわかんねえような……じゃあ推論ってのは」
「そうだね。手に入れた情報をもとに新しい結論を出すことかな。たとえば喫茶店の店員さんがレジを叩いている。最初のお客さんがホットコーヒー。次の人もホットコーヒー。となると、その次の人もホットコーヒーじゃないかな? って予想するよね」
「まあ普通はな。違うかもしれねえけど」
「でもホットコーヒーの可能性が高そうでしょ。その予想は役に立つよ。たとえばレジに商品ごとのキーが書いてあるとする。それなら店員さんはホットコーヒーのキーに指を置いておくよね? そんな感じで、人間と同じような準備ができる」
「ふーん」
「面白いよ。コンピュータにそういうの考えさせるの」
話し方は落ち着いていて丁寧だ。だが、その奥に強いこだわりと知識に支えられているのを感じた。こんな奴は高校にはいなかった。学校の友達はいつも女かバイクかサッカーの話題だったし、アニメや鉄道オタクたちとも違う感じがした。ハッカー、という言葉の響きにも少し憧れを感じた。
「映画みたいに、勝手に機械が考えて人間を滅ぼすとか、そういうのはねえのか」
「あー、それは僕はやってない。僕がやってるのは『弱いAI』なんだ。汎用でなんでも考えるのは『強いAI』だね。今の主流は人間が特定の分野を機械にさせるってのがほとんどなんだ。あ、だから、人工知能って言葉でそういうのを連想しちゃうと、僕のプログラムなんて面白くないかも……」
ペラペラとしゃべってから、少しためらって上目遣いに俺を見た。その目が『僕は好きだけど、君は違うよね』と語っている。だが、その予想は外れだ。それに、ふっと視線を外したら消えていってしまいそうなその気配に、独特な神秘性を感じ始めていた。
「いや、面白そうに聞こえるぜ」
「え、そう? なんかうれしいな」
「うれしいのか」
「華やかじゃないけど、僕は価値があると思ってるからさ」
そいつは急に笑顔になった。最初に感じたよりは、喜怒哀楽がはっきりしてるタイプみたいだ。コンピュータをやる奴は機械みたいな感情のないタイプだと思っていたから、なんだか一気に親しみやすく思えた。
「なあ、あんな変な奴ら相手にすんなよ。それより、俺にコンピュータのこと教えてくれよ」
「えっ?」
「下連雀の大西高だろ。学生証見えたんだ」
「今晩会ったばっかりだ」
「でもそんな気分なんだ。あんまり毎日、面白くねえからよ」
頭をかきながら目を逸らす。くすっという小さな笑い声が返事だった。そいつの右手が、すっと俺の前に伸びてきた。
「僕、木更津朔。サクでいいよ」
自分が言ったセリフに赤くなりながら、俺はその手を握り返した。
「進藤将馬ってんだ。柳沢工業の機械科。おまえと同じ2年だ」
「ショウ君だね」
「君とかいらねえよ」
サクが、ふふっと笑った。俺もくくっと声を出した。寺の境内に小さな笑い声と、虫の声だけが響いた。
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