銃声はただ一つ
茶色の柱に大きなガラスを挟んだ、天井の高い廊下を歩いた。見取り図を調べてスイートルームに行く。ドアは開いていた。
壁の代わりに柱のような白い枠と巨大な窓が4つ並んでいて、その向こうに東京タワーが見える。暗い黄色のカーペットがひかれていた。緩やかな曲線を描いたクリーム色のソファとキングサイズのベッドは、どちらも部屋の隅に押しのけられている。
かつてサクが憧れた高級ホテルは、作業のための機械室になっていた。部屋の一角にプラスチックの板がおいてあり、そこにはケーブルやルーターやサーバーの類がぎっしりと並んでいる。ケーブルの色分けも機器の配置方法も、間違いなく奴のやり方だ。知っているのと一つだけ違うのが、サイドテーブルに置かれた鉢植えがなにもかも枯れていたことだった。
開きっぱなしにしておいたドアの向こうに気配を感じ、ポケットのピストルをつかんだ。
奴は影の中から出てきたように見えた。細いシルエットが徐々にはっきりしていく。縁の細い眼鏡が、微かな光を投げた。
「悪いね。汚くしていて。お客さんに見せる準備はしてなかったんだ」
サクがその部屋に投げたのは、高校の頃、初めて遊びに行ったときと同じセリフだった。
「いや、いい部屋だ」
俺もその時の言葉を繰り返した。サクの手元に目をやった。アルトの拳銃を握っていた。
「どうして、俺達はこんなことをしてる?」
「僕がこの色の帽子を取ったからさ」
「お前の正義は、お前だけのものだ。誰も理解してくれねえよ」
「僕の事を理解してもらう必要なんてない。この社会は、たった1人の頭のおかしな悪人がいれば、たちまち破綻する。その事実はもう伝え終わったよ」
俺の考えを裏付けるようにサクが言った。
「壇、ラクシュ、ハサウェイ。みんな狙って殺したのか。死ぬ理由のない人間を」
「そうだね。壇とラクシュはドローンのカメラで判断して、はっきり本人だと確認して殺した。ハサウェイにはダークウェブで手に入れた毒薬を送りつけた。もちろん君も殺すつもりだ。3Dプリンタとかき集めた材料で作った拳銃付きドローンは、君の用心棒に壊されちゃったけどね。仕方なく彼女のグロックをもらってきたよ」
額から流れる汗をぬぐいもせずに、サクははっきり通る声で答えた。
「お前が目指したことを否定したくなかったよ。お前が目指したことも、お前がやったことも、許してやりたかった。俺だけは、お前の事をわかってやれると思ってた。でも、もうそれは言えねえんだな」
「そうだね」
「どうして俺だけをここに来られるようにした?」
「未練だよ。最期だから。挨拶をしてから別れたかった。居場所を特定されたってわかった時に、この準備を整えたんだ。あんな凄腕と来ると思ってなかったから、かなり焦ったけどね」
俺は拳銃をポケットから取り出した。トリガーに指をかけず、銃口を下へ向けた。
「伝説のハッカーになりてえか」
「ある意味ね。でも、恐れられたり崇められたり、そんなのには興味ない。得体のしれない人によって、こういう悲劇が起きることがある。それを知らせたかった。
だから犯人の真相は隠したいんだ。僕みたいに臆病で、気弱で、恐怖と後悔を抱えた凡人じゃだめなんだ。誰も僕のことを知らなければ、勝手に勘違いしてくれる。声明に使ったナイアルラトホテップっていうのは、人の価値観を超えたところにいる意志疎通もできないキャラクターだ。この演出で、僕という個人は闇の中に消したいんだよ。
君が死ねば、僕を知っている人はいなくなる。もう予想しているとは思うけれど、最後に僕も死ぬ。そして事件だけが残る。その向こうで世の中が再生していく」
静かな深い呼吸を終えて、俺が答えた。
「それはわかったよ。でもな。その裏には別のシナリオもあるだろう。お前は親父を救えなかった自分が許せなかったんだ。だから加害者になることで、自分に罰を与えていたんだ。人を殺すことで、自分の胸に苦痛を与え続ける、それがお前の宗教なんだ。お前が殺したのは、大事に思っていたやつばっかりだ……」
サクはぐっと奥歯をかみしめながら、俺の言葉を一つ一つ飲み込んでいた。
「それには答えられない」
「じゃあ別の事を聞いてやる。他の奴はいいさ。ラクシュの気持ちをお前は知ってたよな」
「答えられないって言ってるんだ」
「クズだな、お前」
サクがぐっと口を結ぶ。一方的に俺が続けた。
「ナイアルラトホテップはラクシュが好きだったキャラクターじゃねえか。知らねえとは言わせねえよ」
「……わかったよ。じゃあそれだけは白状する。知ってたよ。僕だって好きだった。でも心を動かされるわけにはいかなかった。来世かなにか、そんなのがあればそこで会うさ。ソニア・オハラを殺したときに、もう生き方は決めたんだ」
ふと、思考が止まった。記憶をたぐり寄せた。
「お前、母親も殺してたのか」
「……母親?」
サクは緊張をとき、一瞬、昔の顔に戻った。
「ソニア・オハラはお前の母親だ」
「僕の母親はイーマ・オハラだ。彼女はアイルランドの施設で数年前に病死してる」
お互いの顔を見て、わずかな時間が過ぎる。そしてお互いに嘘を言っていないと確信した。瞬間。マドカのセリフを思い出した。
『サクは私をアイルランドから出さないようにパスポートにブロックをかけていたわ。日本に来るとき、初めて法を破った』
マドカは偽造パスポートを使って日本に来た。つまり、パスポートに書いてあった『イーマ』は母親の名前で、マドカの本名は『ソニア』だ。マドカは俺をまだ信用できなかった時、偽名を使っていたのだ。
サクは俺の頭の中を一瞬で理解した。俺もそれに気がついた。直後、お互いの目に殺意が引き戻された。
「姉は生きているのか! 姉に会ったのか!」
「そうさ、お前に顔と手足を吹っ飛ばされてな。ついでに教えてやる。マドカは今、俺の女だ」
俺とサクが銃口を相手の胸に向けた。同時だった。
「もう後戻りはない。君を殺してもう1度姉も殺す」
「サク、1回だけ言わせろ。そいつを下げて、俺と警察へ来い」
「いくわけがない」
「撃てるわけがねえ」
「いいや、撃てる!」
「撃てねえ! そいつを置け! ひざまずけ!」
「断る! 姉へ伝える言葉を残して死ね!」
奥歯を噛み締めたまま、俺は何も答えなかった。サクが指に力を込めた。引き金が動いた。
そこで、奴がはっと手元を見た。遅れて俺の拳銃が火を吹いた。粗雑な火薬がはじけ、弾がサクの腹を貫いた。糸が切れるようにサクが前のめりに倒れ、ケーブルの中に沈んだ。
駆け寄った。
体を支える。サクが俺を見上げたところで、ごぼっという音と同時に口から鮮血があふれ出した。体を仰向けにひっくり返した。
「不発じゃねえよ」
血だまりの中で、俺がつぶやいた。なぜ、とサクの口が動いたように見えた。
「それは、その銃がグロックじゃねえからだ。アルトが使ってたのは……スマートガンなんだよ」
『銃のザッカーバーグ』と呼ばれたカイ・クラファーが開発した拳銃の認証装置は、サクを持ち主と認めず沈黙を保っていた。
サクは何度か口を開いたが、もう言葉は出てこなかった。ひゅうひゅうと何度か呼吸を繰り返してから痙攣を起こし、それから静かに動きを止めた。首に手を当てる。脈がかすかな手ごたえを繰り返したが、やがてそれも終わった。曇った眼鏡をそっと外し、両目を指で閉じた。
「もっと早く来たかった。もっと話し合いたかった。お前と離れるんじゃなかったよ」
言い残し、拳銃をしまって部屋を出た。ガスの残る非常階段を、一歩ずつ踏みしめて降りる。騒がしく人が出入りするホールを抜け、ビルの外へ出た。
予定通りの結末だった。悔やむことも、詫びることも、涙を流すこともない。全部を承知の上で出した結論だった。
縁石に腰かけてiPhoneを手に取った。自首する前にマドカと話しておきたかった。起きたことを簡単に伝えてから、他愛ない話を振る。マドカもそれに乗ってきた。
初めての彼女との長電話だ。話題は広がった。高校のころに戻ったようだ。楽しくて仕方がなかった。行きたい場所のこと。やりたいゲームのこと。作りたいプログラムのこと。ハッカーコンテストのこと。またジンジャエールとお菓子を作って欲しいということ。そして、お互いがどれだけ相手を愛しているかということ。
夕暮れの暑い日差しがアスファルトを焼いている。動き出した自動車が真っ赤な空気に溶け、道路の向こうから風が届いてくる。悲劇は終わったのだ。
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